『名探偵 小室泰六(SHERLOCK)とサイコメトラー岩村 潔(検事正)の最初の事件記録』 Ⅳ
「動くな。それ以上近づけば、お前たちの脳天に英国製の鉛玉をぶち込むことになるぞ」
鋳造炉の激しい炎に照らされ、川崎財閥の残党が握るリボルバーの銃口が、暗闇の中で鈍く光った。
彼らの狙いは、警察との銃撃戦ではない。
今まさにるつぼの中でドロドロに溶けかけている『真鍮の金属凹版(原版)』が、完全に跡形もなく消滅するまでの数分間、銃口で私たちを脅して一歩も動かせないようにする――ただの冷酷な時間稼ぎであった。
黒幕の手下は、どす黒く煮えたぎる灼熱の液体を見つめながら、勝利を確信してせせら笑った。
「ハハハ! 終わりだ、探偵先生! 原版(証拠)はただの鉄クズ、いや、溶けた金属の塊になった。お札の形が残っていなければ、お上の警察とて俺たちを偽札犯としては逮捕できまい!」
「おい、小室……! 万事休すじゃなか……!」
薩摩出身の刑事が絶望に顔を青くし、進一が私の外套の袖を強く引く。
だが、私は静かに、そしてこの上なく愉しそうに笑ってみせた。
「…ハハハ! 実に滑稽だ。君たちは本当に、形さえ消してしまえば論理の足跡まで消せると思っているのかい? ……いや、それ以前の問題だ。君たちは重大な法廷の算法を見落としている」
私は一歩前へ出た。突きつけられた銃口の、わずかな震えを見逃さずに告げる。
「正式な【捜索押収令状】が執行されている現場において、銃を抜いて捜査員を威嚇し、その執行を妨げた。……
この行為が何を意味するか、流石の君たちでも理解できるだろう? 君たちは『原版を溶かせば無罪だ』と安心しているようだが、その銃を抜いた瞬間に、大日本帝国刑法第百三十六条『公務執行妨害罪』が完全に成立し、全員その場での有罪が確定したのだよ」
「な……何だと!?」
黒幕たちの顔が、驚愕と動揺に引きつる。私は彼らの狼狽を冷ややかに見下ろしながら、さらにトドメの近代科学を突きつけた。
「そして、偽札製造の罪も消えてはいない。刑事さん、そこに並んでいるバケツの『黒い洗浄液』を確保しなさい。彼らは原版を炉に投じる直前、版にこびりついたインクをアルコールで洗い流した。真実の液体は、まだそこに生きている」
私は懐から、あの日本橋の塩酸を取り出し、バケツの廃液をすくい取った試験管へ一滴、滴下した。
その瞬間、どす黒い液体が、まるで魔法のように、あの取調室の偽札と全く同じ「鮮やかなドス黒い紫色」へと激しく変色してみせた(呈色反応)。
「これが、ドイツ製アニリン・バイオレットの証明さ。さらに、そこのるつぼで溶けた金属の塊を、後で岩村の検事局へ持ち込んで成分分析にかけるといい。大蔵省印刷局の特注真鍮の配合比率である『七三黄銅』の数理が、そっくりそのまま検出されるはずだ。
――銃を抜いた公務執行妨害、そして液体と金属の比率が語る偽札製造の物理的証明。君たちは完全に、二重の意味で詰んでいるのさ!」
「そこまでだ、悪党ども! 動くな!」
赤煉瓦の扉を蹴り開けて突入してきたのは、岩村潔検事正が直属で待機させていた、武装警官隊であった。
銃を構えていた残党たちは、完璧な法の罠と科学の証明の前に、一言の言い訳もできぬまま次々と手錠をかけられていった。
後日、神田駿河台の探偵事務所。
正吉は無罪放免となり、黒幕の隠し金庫から差し押さえられた本物の『五円札』は、岩村の指揮によって無事に彼の元へと返還された。
だが、正吉はその五円を手に、憧れの丸善へと走ることはしなかった。彼は涙を流して私と進一に深く頭を下げると、こう言ったのだ。
「小室さん、進一さん……ありがとうございます。
私はこの五円を、一銭も使わずに郷里の親元へ送り返します。親が私のために手放した、先祖代々の大切な田畑を買い戻すために。
私は……万年筆などなくても、この愛用のペン一本で、勉強して必ず大英帝国の法律を修めてみせます!」
そう語る正吉の右の指先は、万年筆の高級インクではなく、安インクの青で泥臭く汚れていた。
しかしその汚れこそが、彼の何よりの実直さと、法律家を目指す魂の輝きを証明していた。
進一は彼の肩を抱き、我がことのように涙を流してその門出を祝っていた。
「見事な活躍だったよ、小室泰六君」
二人が去った事務所の椅子に腰掛けた、岩村潔が、冷徹な仮面を和らげて私を見つめていた。
彼の指先が、私の机の木目にそっと触れる。
「私のサイコメトリーが視た不完全なビジョンを、君は完璧な近代科学のロジックで白日の下に実証してみせた」
「岩村君の『眼』が令状を動かさなければ、私は神田川のドブ板から真鍮の屑を見つけることすらできなかったさ」
私は不敵に笑った。
「今の私に後ろ盾はないが、君という『法の番人の異能』がある。この文明開化の光と闇が混ざり合う東京には、まだまだ論理で解剖すべきおぞましい事件が転がっていそうだ」
「ああ。私たちの『事件記録』は、まだ始まったばかりだ」
岩村潔検事正は椅子から立ち上がり、微笑んだ。
窓の外の神田の街には、清々しい風が吹いている。
しかし、いつ何時、爆弾低気圧が生じても、不思議ではない、明治の世そのものの空気が、漂っていた。




