『名探偵 小室泰六(SHERLOCK)とサイコメトラー岩村 潔(検事正)の最初の事件記録』 Ⅲ
「岩村検事正、君の『眼』には今、何が視えている」
警視庁の取調室。私はパイプの煙を薄暗い天井へと吐き出しながら、正吉が郷里の親から受け取ったという、手紙の封筒を指し示した。
東京地裁検事局長・岩村潔検事正は、指先をそっと封筒の表面へと滑らせた。
彼がその目を閉じた瞬間、取調室のよどんだ空気が微かに張り詰める。物や場所に残された残留思念や魂の輪郭を視る、彼だけの「サイコメトリー」の異能が発動したのだ。
岩村の顔が、苦痛に歪む。
「……立ち込める、どす黒い黒煙だ。耳を劈くような鉄の打撃音……そして、金色に光る塵が、冷たい川沿いの部屋の床一面に舞っている……」
「なるほど、十分だ。実に見事な羅針盤だよ、岩村検事正」
私はニヤリと笑い、即座にその断片を、現実の物理ファクトへと脳内で翻訳した。
「刑事さん、聞こえたかい。黒煙はただの薪の煙じゃない。近代的な蒸気機関や鋳造炉で使われる高熱の『石炭の煤』だ。
そして床に舞う金色の塵――それは真鍮の金属板を最新の旋盤で削ったときに出る、極小の削り屑さ。場所は冷たい川沿い。
明治二十六年のこの東京で、石炭の煙を吐き、真鍮を削る工作機械を備えた川沿いの場所はどこだい?」
横で聞いていた薩摩出身の刑事は、幽霊でも見たかのように顔を青くし、生唾を飲み込んだ。
「神田川沿い……お上の印刷局のすぐ近くにある、川崎財閥の息がかかった電線・金属加工工場しかごわはん……」
刑事は「岩村検事正殿の『異能』で犯人のアジトが視えたのなら、最初からそげん言えば良か! 西洋かぶれの探偵など、最初からいらんでごわした!」と言い放った。
小室は「…相変わらず大雑把な脳味噌だね、刑事さん。岩村が裁判官の前で『私の眼に犯人のビジョンが視えました』と証言して、それで犯人を死刑台に送れると思うかい? 大日本帝国の法は、そんなオカルトじゃ動かない。岩村検事正が視る『怪異』を、誰もが跪く『近代科学の証拠』へと翻訳できるのは、この東京で僕の論理システムだけさ」
岩村潔検事正が、鋭く目を開いた。
「よし」彼は取調室の机の上へ司法省特注の罫紙を広げると、驚くべき速度で『捜索差押請求書』の文面を万年筆で走らせた。
被疑者、罪名、そして自らの異能と私の科学分析によって導き出した「神田川沿い・川崎電線工場」という具体的な嫌疑の蓋然性。国家の法を司る男の執念が、一気に行間へと染み込んでいく。
「直ちに予審判事へ回し、正式な令状を発付させる。刑事、臨検の準備をせよ。我が国の法は、財閥の闇であっても例外なく裁く」
【検事が裁判所の「予審判事」に対して『捜索差押請求書』を提出し、判事の署名捺印が入った正式な『捜索差押状(令状)』の発付を受け、それを以って執行】
――それから数時間後。
裁判所から下りた本物の【捜索差押状】を懐に、夜の帳が下りた神田川へと向かったのは、岩村の『特別補佐(鑑定人)』として同行する私と進一、そして令状を執行する役割の刑事の三人だった。
川面には、工場の黒い煙とランプの光が妖しく反射している。
工場の裏手にある、一見ただの物置に見える寂れた小屋の前に立ち、刑事は厳かに令状を突きつけた。
「裁判所より発付された令状に基づき、臨検を行う!」
扉の古い錠前を私の手鏡の針で解き、私たちは法に守られた正当な権利として、堂々と小屋の中へと踏み込んだ。
中には、不自然に熱を帯びた鋳造炉と、大きな作業台がガランと置かれている。だが、お札を刷るための肝心の「金属の原版(真鍮板)」はどこにも見当たらない。
「おい、小室! はんこ(原版)がなかぞ! これじゃあ何も証拠に……」
「声を落としなさい、刑事さん。現物(証拠)が丸ごとそこに転がっていると期待するから、お上の警察はいつまで経っても後手に回るのさ」
私は外套のポケットから、手製の小型顕微鏡を取り出し、作業台の隅にわずかに残されていた、目に見えないほど微細な金属の削り屑をレンズの下に収めた。
ランプの光をすかし、ピントを合わせる。私の脳内の数理システムが、その結晶構造を瞬時に弾き出した。
「やはりね。銅が七、亜鉛が三……これは『七三黄銅(質真鍮)』だ。
大日本帝国の印刷局が、紙幣の凹版を彫るためにフランスから導入した、一般には絶対に流通しない特注金属の配合比率と完全に一致する。
岩村が令状を発付する根拠となった、あの金色の塵の正体はこれだ。彼らは印刷局から技師を引き抜き、この真鍮板に菅原道真の文字盤を彫らせていたのさ。
原版そのものがここになくとも、この金属の比率こそが、ここで偽札が刷られていたという100%の物理的証明だ」
「そこまでだ、西洋かぶれめが」
その時、小屋の闇の奥から、不気味な足音とともに、冷酷な声が響いた。
振り返れば、銃を手にした川崎財閥の残党たちが、私たちの退路を完全に断ち、暗闇から幾人も這い出てきている。
手下の一人が、鋳造炉の激しい炎を背に、真鍮の原版をドロドロに溶かそうと手を伸ばした。
絶体絶命の包囲網。しかし、私は不敵に笑い、懐の塩酸の小瓶にそっと手をかけた。




