『名探偵 小室泰六(SHERLOCK)とサイコメトラー岩村 潔(検事正)の最初の事件記録』 Ⅱ 改訂版
警視庁の赤煉瓦の重々しい門をくぐるには、ただの私立探偵という肩書はあまりに軽すぎる。
しかし、私の横を歩く男――東京地方裁判所検事局長、岩村潔検事正の、威厳ある佇まいの前には、お上の守衛たちも一斉に直立不動の敬礼を捧げるしかなかった。
岩村はまず、警視庁の捜査中枢である刑事局の幹部室へと堂々と乗り込んだ。
大日本帝国の法の中枢たる検事正が、「丸善の偽五円札事件は、国家の信用を揺るがす重大な違法行為である。司法省の直轄として、私が直々に調べる。手続きを」と冷徹に告げるだけで、警視庁の幹部どもは青くなり、直ちに取調室への「正式な臨検の指示」を現場へ飛ばさざるを得なかったのだ。
幹部から直々に鍵を渡され、警視庁の案内役を引き連れて薄暗い廊下の奥へ進む。よどんだ空気が漏れ出す取調室の前に辿り着くと、岩村は白手袋を嵌めた手で、重い木製の扉を厳かに、しかし容赦なく押し開けた。
「おはん、往生際が悪いぞ! 田舎の芋侍のせがれが、菅原道真の五円札などという大札をどこで手に入れた? 士族の生き残りが政府転覆のために刷った偽札の、資金洗浄を任されたと白状せんか!」
剥き出しの電灯の下、鉄の椅子に縛り付けられた貧乏書生・正吉を、大柄で熊のような体躯をした薩摩出身の警部が激しく机を叩いて締め上げていた。
そこへ、幹部からの連絡を受けて驚愕する案内役を背に、岩村がコツコツと革靴の音を響かせ、取調室の中央へと堂々たる足取りで入室した。私と進一が、その背後に続いて部屋へ滑り込む。
「そこまでにしなさい、刑事。その取り調べは、我が国の法の精神に著しく悖る」
岩村の冷徹にして良く通る声が室内に響き渡り、薩摩刑事は驚愕して振り返った。岩村潔の顔、そしてその後ろに立つ警視庁幹部の案内役の姿を見た瞬間、刑事の顔が目に見えて強張る。
「岩村……検事正殿!? な、なぜここに。これは警視庁の管轄の事件でごわす!」
「大日本帝国の検事は、あらゆる犯罪捜査を監督する権限を持つ。刑事局の許可を得て、私が直々に臨検に赴いた。……お上の警察がその頼りない目で見落とす真実を、私の『特別補佐』の論理ですべて拾い上げさせてもらう。……小室くん、前へ」
岩村が一歩引き、代わりに私を前へと促した。
小室泰六という男の肉体自体は、神田の駿河台でひっソりと刺し殺された、ただの無名の貧乏探偵に過ぎない。しかし、かつてロンドンへ司法留学していた岩村は、物や場所に残る人間の魂の輪郭を視る――サイコメトリーの異能によって、私の中に宿った『英国最高の知性』の脳内システムを完全に看破していた。
彼が警察幹部を黙らせて連れてきたこの私こそが、岩村の放った最強の「脳」であった。
「西洋かぶれの素人探偵など連れてきて、
知った風な口を叩くな! こいつは偽札を使おうとした現行犯だぞ!」
怒号を飛ばす刑事の前に、歩み寄り、机の上の偽札を見下ろした。
「フッ……ならば証明して見せよう。君たちが『絶対の証拠』と信じているものが、いかに滑稽な妄想であるかをね」
私は外套の内ポケットから、日本橋本町の薬種問屋で仕入れた、薄めた塩酸の小瓶と小さなガラスのスポイトを取り出した。
「刑事さん、大蔵省印刷局が紙幣の裏面の印刷に使っている青いインクは、ベルリン・ブルー、すなわち『紺青』と呼ばれる鉄の化合物だ。これはお上の最高技術であり、酸を落としても容易に変色することはない。だが、この偽札の青をよく見てごらん」
私はスポイトの先から、偽の五円札の青いインク部分へ、塩酸を正確に一滴滴下した。
塩酸が染み込んだ瞬間、偽札の鮮やかな青は、まるで煙が消えるように色を失い、見る見るうちに「ドス黒い紫色」へと変色していった。
「な、何っ!? 色が変わった……!」
刑気が驚愕の声を上げる。私は時計の秒針を見つめながら、冷ややかに告げた。
「一、二、三。……ちょうど三秒だ。これが、ドイツから輸入されたばかりの最新の化学染料『アニリン・バイオレット』の呈色反応さ。
大蔵省は、こんな安価な異国の染料など絶対に紙幣には使わない。
そして、この正吉くんの指先を見てごらん。彼の指にあるのは、英国製の高級万年筆の綺麗な『インクブルー』だけだ。何万枚もの紙幣を刷る悪党の爪の垢は、洗ったくらいでは落ちないこの『ドス黒い紫の染料』で染まるものさ。彼の指が綺麗な青であることこそ、彼が白(無実)である決定的な証拠だ」
完璧な科学の証明を突きつけられ、薩摩出身の刑事は口を突き開けたまま、一言も言い返せずに硬直した。岩村はその様子を冷徹に見届け、静かに手袋を直した。
「刑事。小室くんの言う通り、この正吉という書生はただの被害者だ。
釈放の手続きをとりなさい。
真に捕らえるべきは、このドイツ製染料を大量に入手し、お上の印刷局と同じ『真鍮の金属凹版』を彫る技術を持った、神田川の近くの電線加工工場を裏で操る政商の残党だ。……小室くん、これより我が検事局の直轄として、あの工場への臨検を行う。私の『特別補佐(鑑定人)』として、捜査への同行を要請したい。君の科学の脳が必要だ」
「了解した。岩村検事正殿。君が能力で視るビジョンを、僕の論理ですべて現実の証拠に変えてみせよう」




