新章 - Ⅲ 伽哩(カレー)屋の価格競争
明治二十七年、三月。
東京の夜の底を支配するのは、春の重い泥を孕んだ霧と、至る所で敷設が始まった電信線の吐き出す、かすかな静電気のノイズであった。
神田駿河台の洋館の二階。小室泰六は、丁寧に糊付けされ、細く巻かれた一本の紙巻き煙草に火を点け、その乾いた煙の向こうで、硝子杯に揺れる白く濁ったアブサン(緑酒)を冷淡に見つめていた。
「――小室さん、大変です! 階下に、私たちが借りているこの洋館の大家さんの紹介を頼りに、神田神保町の町内会長をされているというお方が、血相を変えて駆け込んできました!」
助手、和田進一の声と共に部屋の扉が開かれ、怯えきった面持ちの老人が泰六の前へ佇んだ。
「小室先生、どうかお助けください! ここ数日、神保町の古書街一帯の簡易食堂や洋食店どもが、一軒の奇妙な値下げをきっかけに、全員がカレー職人の意地で泥沼の価格競争に巻き込まれてしまい、光熱費も地代も完全に無視した一皿『一銭五厘(標準価格の七割引き)』の集団赤字で、街の飲食インフラが共倒れ(強制終了)しかけておるのです 。
警察は商売の内内の価格競争だと笑って、とりあってくれません!」
会長が話すには、その値引き競争を仕掛けたカレー屋は、身体の不自由になった店主が勇退し、今は老店主の倅が、店を切り盛りしているが、当然ながら、1皿一銭五厘では儲けは出ないのだというのだ。
町内会長が泰六へ見せたのは、油に汚れた、そのカレー屋のウラ帳簿、お上のお墨付きがなければ手に入らぬ高価な「夜燈の油の焦げ臭い煤が付着した、奇妙な反物の切れ端」であった。
泰六は、短くなった紙巻き煙草を燻らせながら、その裏帳簿のデータへと鼻先が触れんばかりに至近距離まで顔を近づけ、徹底的な眼前にて観察を執行した 。
「最高にはちゃめちゃで、他店も乗せられた狂気的な因習の罠だが、町内会長殿、一厘の端数のノイズが残っているね 。
これはライバル店を潰すための競争ではない。仕掛け人である長男が、父親の財産を合法的かつ永久に強奪(相続)するために、店を意図的に完全破産させるための自己破産テロだよ」
泰六の鋭い眼光は、さらに事件の裏に横たわる、明治二十七年当時の血も涙もない「時代そのもののバグ(家長制度の暗部)」を瞬時に解読した 。
「この時代、戸主(家長)の権力は絶対だが、神保町の一等地の『土地(地券)』、および銀行に預けられた莫大な『預貯金』だけは、盲目の父親個人の名義としてガチガチにロックされている 。
老人が生きている限り、現在の戸主である長男といえども法律の規律上、一厘も動かせない 。
だから長男は他店を巻き込んで一銭五厘のどん底まで赤字を垂れ流して店を自己破産させ、父親を騙して『借金を返すために権利書をカバンに詰め、私へ預けてください』と誘導したのだ 」
「大騒ぎのドサクサに紛れて老人に財産の現物をすべて持ち出させ、更地の井戸に突き落として物理消去するつもりかもしれん」
そのカバン(地券)を大八車に積んで川へ投げ捨ててロスト(紛失)させてしまえば、お上には『店が破産してボケの不具合を起こした老人が、権利書をカバンごと持ち出したまま失踪し、井戸で不慮の事故死を遂げた』という偽の証拠が成立する 。
権利書が紛失消去されたことで、土地も預貯金も、家長である長男が『合法的かつ一厘の醜聞もなく丸ごと相続』してすべてを完全強奪できるという、血も涙もないチェックメイトの算法だよ。
泰六は、遠く神保町の交差点の向こうから立ち上る、
全く新しい、圧倒的な西洋伽哩の匂いのほうを冷然と指差した。
「お前たちが旧い規律のなかで一銭五厘のせこい泥沼戦に熱中している間に、神保町の表通りには、独自の大量買い付けと大釜製造の超効率化を引っ提げた、近代的な巨大食堂が新規開店した。
あそこカレー屋が、提示した真の破壊レートは『一皿、一銭』だぞ。
……お前が他店を乗せて仕掛けた自己破産ハッキングなど、この『新時代の圧倒的な近代経営のルールブック(一銭カレーの王)』の前に、市場のシステムそのものによって、最初から跡形もなく粉砕終了される運命だったのだよ」
旧いルールに囚われていた長男は、新時代のルールブックの書き換え(パラダイムシフト)の圧倒的な現実の前に、返す言葉もなく涙を流して崩れ落ちた。
男は、有価証券や地券を強奪する全容計画、および偽の芝居小屋の隠し場所をすべて白状したのである。
言い逃れのできぬ自白ログが揃った。
翌朝、新橋の冷たい朝霧のなかで、新しい紙巻き煙草に火を点ける泰六、
「奴は値下げ競争というおどろおどろしい幻影で老人の五感を洗脳しようとしたが、カレー屋のルールブックの書き換えまでは、奴も計算できていなかったようだね」
「全くです、小室さん。……おかげで、神保町はますます本物のカレーの匂いで満ちていきそうですがね」
進一の軽口に、泰六は冷たく笑い、紙巻き煙草を燻らせた。
この事件の全容もまた公式の正史からは消去され、和田進一の筆によって『伽哩屋の価格競争』という嘘の盾をまとって、読者たちへと放流されていくのであった 。
東京の夜の底を支配するのは、吹き抜けて行く春風だけであった。




