新章 - Ⅱ 銀座の幽霊座騒動
明治二十七年、三月。
東京の夜の底を支配するのは、春の重い泥を孕んだ霧で霞んでいた。
神田駿河台の洋館の二階。小室泰六は、丁寧に糊付けされ、細く巻かれた一本の紙巻き煙草に火を点け、その乾いた煙の向こうで、硝子杯に揺れる白く濁ったアブサン(緑酒)を冷淡に見つめていた。
「―小室さん、大変です! 階下に、私たちが借りているこの洋館の大家さんの友人で、銀座の町内会長をされているというお方が、血相を変えていらしています」
助手、和田進一の声と共に部屋の扉が開かれ、怯えきった面持ちの老人が泰六の前へと進みでた。
「小室先生、どうかお助けください! ここ数日、銀座の仄暗い更地(空白地帯)に、雨の降る丑三つ時になると音もなく忽然と不気味な芝居小屋が出現し、美しい三味線の音色と共にこの世のものとは思えぬ劇を上演しては、夜明けと共に観客ごと煙のように消え去るという『幽霊座』の騒ぎが起きておるのです 。
警察は狐狸の仕業だと笑って手出しをしてくれません。町内の者たちは呪いだと怯えきって夜も眠れず、大家の紹介を頼りに、藁をも掴む思いで駿河台まで直訴にお願いに参りました。
…これは、その幽霊が出た翌朝の更地で、若衆が拾い上げた怪しげな品にございます!」
町内会長が泰六の机へ置いたものは、泥に汚れた「見慣れぬ巨大な硝子の破片」
そして「夜燈の油の焦げ臭い煤が付着した、奇妙な反物の切れ端」であった。
泰六は、短くなった紙巻き煙草を燻らせながら、その硝子の破片へと鼻先が触れんばかりに至近距離まで顔を近づけ、徹底的な肉薄観察した。
「はちゃめちゃな怪異だが、町内会長殿、計算の端数が残っているね。
この巨大な硝子は、霊障などではない。西洋製の巨大な姿見(鏡)の破片だよ。
更地の中に巧妙に配置された数十枚の鏡が、夜燈の光を乱反射させて人間の空間認識をハッキング(幻影を構築)していた証拠だ。
進一、外套を羽織りなさい。現地調査へ向かうぞ」
泰六は進一を、そして町内会長を伴い、昼下がりの銀座の現場へと足を運んだ。
泥ドロの悪臭が立ち込める問題の更地。泰六は、鋭い眼光で周囲の土壌や建物の配置を足で稼いで徹底的に考察し始めた。
更地の泥の上を走る、奇妙に深く沈み込んだ複数の轍の痕跡。そして泰六が最も注視したのは、更地から目と鼻の先、わずか数十歩の距離にそびえ立つ、豪奢な洋館であった。
町内会長の話によれば、そこ洋館には、目も耳も不自由な老人が暮らしているという。そして、老人には放蕩息子がいるのだと。
「見なさい、進一。この更地の泥に残された深い轍は、夜明前に巨大な重量物を運び出した大八車の足跡だ。
奴らは夜が明ける前に木組みの小屋を最速の速度で解体(撤収)し、すべてのガラクタを大八車に積んで川へ廃棄させているのだよ。
そして、この更地に隣接するあの洋館の表札を見なさい。…
…あれこそが、今回狙われている盲目の大富豪(薬種問屋の隠居老人)の現在の戸主である、強欲な長男(息子)の別宅(親族の家)に他ならない 。
この至近距離の位置関係でなければ、毎夜、大八車や巨大な西洋鏡を隠密裏に送り出す空間欺瞞など、物理的に不可能だからね」
泰六の現地調査によって、事件の全容は一瞬で解読された。
「この時代、戸主(家長)の権力は絶対だが、銀座の一等地の『土地(地券)』、および銀行に預けられた莫大な『預貯金』だけは、老人個人の名義としてにロックされている。
老人が生きている限り、現在の戸主である長男といえども法律上、一厘も動かせない。
だから長男はあの自宅から役者や大八車を送り出して幽霊座を演じ、盲目の父親の耳元で三味線を鳴らして『ここはあの世の極楽浄土です。さあ、手元にある土地の権利書や預金通帳をすべてカバンに詰め、私(偽の案内人)へ預けて安心してください』と老人の認知メモリをハッキング(誘導)したのだ 」
「老人に財産の現物をすべてカバンに詰めさせ、更地の井戸に突き落として物理消去(完全暗殺)する。
そのカバンごと財産データをこの世から物理的に紛失、消去させてしまえば、お上には『ボケの不具合を起こした老人が、権利書をカバンごと持ち出したまま失踪し、井戸で不慮の事故死を遂げた』という偽の情報を掴ませることができる 。
権利書や株札が紛失消去されたことで、銀座の土地も銀行の預貯金も、家長である長男が『合法的かつ公式に、一厘の醜聞もなく丸ごと相続』して完全に強奪できるという、血も涙もないチェックメイトの算段だよ。…
…進一、罠が起動する嵐の丑三つ時を待って、あの更地を包囲するぞ」
嵐の深夜。泰六と進一は、雨の煙る銀座の更地、幽霊座が怪しく起動(上演)している舞台裏へと突入した 。
鏡の乱反射による幻影の地獄谷が進一を惑わせるが、泰六は半年間の漁師町潜伏で鍛え上げられた、あの外洋の荒波をも泳ぎ抜く圧倒的な肉体インフラをフル稼働させ、泥水を突破して進一の身体をがっちりとホールド(救出)する。
幽霊座の楽屋の奥、暗がりのなかで、幻影に怯える盲目の老人の手を取って有価証券の株札や権利書へ無理やり実印を捺印させようとしていた、変装を解いた長男と破落戸たち、
破落戸が短刀を抜くよりも早く、泰六はあの「強靭な相撲の足腰(実戦格闘コード)」を泥床の上で爆発させ、巨漢の破落戸を冷酷なまでの力ずくで巨大な西洋鏡へと叩きつけ、ガシャンと硝子を粉砕して物理的に完全KOしてみせた。
取り押さえられた犯人の長男は、衝撃のあまりその場で卒倒し、気絶させられた。
その後は、検事正率いる抜刀隊によって現行犯逮捕された。
事件の全容は、和田進一の執筆よって『銀座の幽霊座騒動』いう嘘の盾カモフラージュをまとって、読者たちへと放流されていくのであった。
東京の夜の底を支配するのは、春の霞だけであった。




