新章 - Ⅰ 小室泰六(SHERLOCK)の帰還と、叔母の駆け落ちと筆跡の不具合
長らくのお待たせいたしました。
多くの方にお読みいただき、最大級の謝辞を申し上げます 。
あの十一月、お茶の水橋の上で、宿敵モリアーティ教授と共に三十メートルの地獄谷の深淵(神田川の濁流)へと墜落していった小室泰六 。
お上の警察(検事正)もその死を確信し、公式のログからは完全にロスト(未発見)として処理されたあの終局戦から、東京の街は冬を越え、早くも「半年(半歳)」の刻が流れておりました。
一人残された駿河台の洋館で、涙を隠して原稿を書き続けていた助手・和田進一の前に、今夜、衣服に微かな外洋の潮の匂いをまとわせた探偵が、何食わぬ顔で帰還を果たすところから、新章が再起動いたします。
明治二十七年三月という開戦直前の緊迫感のなか、当時の日本の歪んだ社会インフラであった「戸主権(家長制度の絶対権力)」
そして叔母名義の莫大な「有価証券(株札)」をめぐって蠢く、ただの一人の身内の冷徹極まる悪意の算法(駆け落ち詐欺)にございます。
一話完結のミステリーとして、皆様にお楽しみ頂ければ、幸いに存じます。
それでは、セッションを再起動いたします。
明治二十七年、三月。
東京の冬の終わりを告げる湿った夜風が、神田駿河台の洋館の窓ガラスをがたがたと不穏に震わせていた。
部屋のなかに立ち込めていたのは、丁寧に糊付けされ、細く巻かれた一本の紙巻き煙草の乾いた煙と、硝子杯のなかで冷酷に白く濁っていくエメラルドグリーンのアブサン(緑酒)の強烈な薬草臭であった。
あの十月、嵐の吹き荒れるお茶の水橋の上での凄絶な揉み合いの末、宿敵モリアーティ教授と共に三十メートルの地獄谷の深淵へと墜落してから、実に「半年」もの刻が流れていたのである。
「――小室さん!! 一体今まで、どこの海の底で何をしていたんですかッ!!」
静寂を切り裂いて声を荒らげ、涙と義憤の混じった拳で机を激しく叩いたのは、助手である貧乏書生、和田進一であった 。
彼の眼には、半年の間、泰六の死を信じ込まされ、一人で駿河台の長屋を守りながら『神田錦町の頭脳戦』の原稿を涙ながらに書き続けていた孤独な絶望が、剥き出しの感情となって溢れ返っていた。
それなのに、当の泰六は何食わぬ顔で椅子の奥に座り、指先に挟んだ紙巻き煙草を冷淡に燻らせている。
借り物の肉体(小室泰六)からは、微かに塩硝と外洋の潮の匂いが漂っていた。
「進一、パニックは思考のノイズにしかなりませんよ」
泰六は煙を細く吐き出し、アブサンの硝子杯を傾けた。
「太平洋の荒波や渦巻く潮目を相手にする外洋の最高峰の水泳能力を持つ私にとって、神田川の濁流などただの生ぬい。
奴らの残党の目が張り付いた都内を避け、この半年間、房総の漁師の叔父の家で大人しく網を引いて、実戦格闘の足腰(相撲)を鍛え直していただけだ。
お前が私の生存のログ(本編)を世へ放流し、敵が油断して動き出すこの三月の決定的なタイムライン(刻)を、私は闇の底で配置を整えていたのだよ」
「網を引いていただ、と……!?」 進一の顔が怒りで真っ赤に染まる。
「貴方が魚と戯れていたこの半年間、私がどれほどの地獄を這い回っていたか、何も知らないくせに!」
進一は泰六を睨みつけ、自らの元へと持ち込まれた、あまりにも醜い身内の悪意の相談事を、感情的に話し出した。
「小室さん、私の法律学校の友人の叔母が、顔もよく見えない謎の漢と恋に落ち、今夜、横浜港から発つ異国船で駆け落ちすると言い残して長屋から失踪したんです 。
お上の警察(検事正)は『戸主権(家長権)の内内の問題(家庭内の不届きな出奔)』だとして、全く手出しをしてくれません。
ですが、男が叔母へ送りつけていた求婚の手紙の現物データには、どう見ても不自然な筆跡の歪みがあるんです!」
泰六は、その手紙の現物を紙巻き煙草の煙の向こうで冷徹に走査した 。
「変装の術で筆跡を激しく歪めてはいるが、計算の端数が残っているね、進一 、
この手紙に特有の『親指を歪めて文字を引く筆跡の癖』は――叔母の家のルート権限(家長権)を握っている、この『友人の父親(強欲な義兄)』本人のものだよ」
「えっ!? 戸主である実の身内が、偽の恋人を演じていたというのですか!」 進一が息を呑む。
「いまの時代、戸主の権力は絶対だが、亡き夫が叔母個人の名義として遺した莫大な『有価証券(株札や公債)』だけは、彼女自身の同意(実印)がなければ法律の規律上、一厘も動かせない 。
だから義兄は偽の花婿を演じ、『支配から逃れて駆け落ちしよう。
ついては君の名義の有価証券をすべて持ち出し、新橋の寂れた長屋の奥で譲渡の捺印をしてくれ』と彼女の脳内メモリをハッキング(誘導)したのだ。
捺印を完了させた次の瞬間、叔母の肉体を物理消去(暗殺)し、財産を合法的かつ永久に自分の金庫へと格納する気だよ。
…進一、新橋の闇へ向かうとするぞ」
泰六と進一は、春の嵐による大雨で激しい泥水の激流と化した新橋の路地へ、突入して行った。
進一が激流に足を取られそうになるが、泰六は半年間の漁師町潜伏で鍛え上げた、あの外洋の荒波をも泳ぎ抜く圧倒的な肉体インフラをフル稼働させ、泥水を突破して進一の身体をがっちりとホールド(救出)する 。
長屋の最奥、暗がりのなかで、恐怖に怯える叔母の首筋へ、お上の医理(西洋医学)では単なる心不全としか検知できぬ古い生薬の劇薬の針を突き刺そうとしていた、変装を解いた身内の犯人たち。
工作員(雇われた破落戸)が短刀を抜くよりも早く、泰六はあの「強靭な相撲の足腰(実戦格闘コード)」を泥床の上で爆発させ、巨漢の破落戸を冷酷なまでの力ずくで壁へと叩きつけ、物理的に完全シャットダウン(一撃KO)してみせた。
取り押さえられた犯人は、お上の警察の取り調べ(尋問)に対しても「証拠などどこにある」とシステムを黙秘しようとするだろう。
だが進一は、毎日法律学校の学び舎で共に学び、明日の近代日本を背負って立つはずの、あなたの実の息子(書生)が、父親のこの醜い行為を知ったら、どう思うかと、犯人の人間性と父性を、説き伏せた。
犯人の男は、有価証券を強奪する全容、犯行内容、そして偽の手紙の隠し場所をすべて白状したのである。
言い逃れのできぬ自白ログが揃った瞬間に、裏で待機していた検事正の抜刀隊が長屋へ突入。
一人の女性の命と共に、全ての財産を社会的に強奪しようとした身内の犯人を、その場で現行犯逮捕した。
翌朝、新橋の冷たい朝霧のなかで、新しい紙巻き煙草に火を点ける泰六。
「奴はモリアーティのような巨悪(蜘蛛)ではなかったが、身内ゆえの油断(セキュリティの隙間)を突いた醜い悪意の算法だったね、進一 。
だが、私の眼からは、一厘の筆跡の癖も隠せはしない」
「全くです、小室さん。……おかげで、私の原稿の次の新章も、愚直に書き換えられそうですよ」
進一の軽口に、泰六はフッと冷たく笑い、紙巻き煙草を燻らせた。
この身近な事件の全容もまた公式の正史からは消去され、和田進一の筆によって『神田錦町の頭脳戦』という嘘の盾をまとって、読者たちへと放流されていくのであった。
ここに、新章が幕をあげたのであった。




