Ⅺ 駿河台の終局、ライヘンバッハの数理
十一月の霧深い夜、神田駿河台の洋館の二階は、丁寧に糊付けされ、細く巻かれた一本の紙巻き煙草の乾いた煙と、硝子杯のなかで冷酷に白く濁っていくエメラルドグリーンのアブサン(緑酒)の強烈な薬草臭に支配されていた。
小室泰六は、窓外のお茶ノ水の地獄谷から響いてくる、嵐の雨水で増水した神田川の激流の轟音を静かに聴いていた。彼の細い指先には、短くなった紙巻き煙草が挟まれている。
床の上には、先ほど裏手から放り込まれた一本の「黒い蝋管」が転がっていた。
それを蓄音機に掛けた瞬間、流れてきたのは、神保町の古書肆「あぢち堂」の主であり、川崎財閥の最高顧問(モリアーティ教授)の、あの冷徹な生音(音声パケット)であった。
「さあ、最後の終局だ、シャーロック。私の蜘蛛の糸が、お前のいる駿河台の洋館を今、数千の暴徒の波で完全に包囲したよ」
窓外からは、教授の資本によって極限まで義憤を煽り立てられた失職士族たちの、松明の明かりと地鳴りのような怒号が近づいてくる。
お上の警察(検事正)の回線は中央交換所の交換手の手によって完全に遮断され、泰六の命のログそのものを物理消去するための最凶のプログラムが自動航行を始めていた。
「無駄な足掻きを、モリアーティ」
泰六は紙巻き煙草の白い煙を吐き出し、最後のアブサンを一気に舌先へと流し込んだ。
ニガヨモギの苦味が脳細胞をハッキング(覚醒)していく。
泰六は、教授の音声の背後に混じる「固有の周波数(神保町の地下溝の振動バグ)」から、すべてのバグの出処である「あぢち堂」の正確な座標をデコード(逆探知)。
泰六は、押し寄せる暴徒の波の僅かなタイムラインの隙間を縫い、司法省の検事正(逮捕する側)の抜刀隊を率いて、神保町の路地の最奥にある古書肆「あぢち堂」へと電撃的に逆突入(ガサ入れ)を敢行した 。
だが、お上の警察が鉄扉を叩き割って突入したその瞬間、あぢち堂の最奥、うず高く積まれた禁書の山の背後に隠されていた秘密の「脱出路」が起動した。
盲目の主は、財閥の工作員や内通の交換手ら一味を引き連れ、衣服を整える暇すらなく、着の身着のまま激しい嵐の夜陰の中へと脱出(退避)したのである。
「追うぞ、進一! 奴らの足音の規律が、まだ神田の泥の中に残っている!」
泰六は助手、和田進一と共に、吹き荒れる暴風雨のなか、着の身着のままで逃走するあぢち堂一味のログを猛烈な速度で逆探知した。
辿り着いたのは、駿河台とお茶の水(本郷台地)を繋ぐ、あの木造の旧い「お茶の水橋(お茶の水橋)」の真上であった。
のちに東京に路面電車(都電)の鉄路が敷設され、車輌がぎしぎしと轟音を立てて疾走することになる、その鉄路の未来の座標(レールの真上)。
激しい雨が、二人の天才の仮面を濡らすなか、泰六はついに、盲目の主の衣服の裾をがっちりと捕縛した 。
「ここまでだ、モリアーティ! お前の犯罪ネットワークは、すべて私がデバッグした!」
「フム、さすがだね、シャーロック」
盲目の主は、雨に濡れた光なき双眸を泰六へと向け、悪魔のように微笑んだ 。
「だが、お前が私の数式を解いたところで、この国の未熟なインフラの寿命までは書き換えられまい」
逃げ道を断たれた教授は、凄まじい力で泰六の外套を掴み返した。
嵐の暴風が吹き荒れ、足元のはるか十丈(約三十メートル)下では、増水した神田川の濁流が泥の地鳴りを上げて渦巻いている。
お茶の水橋の鉄路の真上、剥き出しの肉体と肉体が激しく衝突し、凄絶な揉み合いが始まった 。
一味の工作員たちが銃や短刀を抜く暇すら与えず、二人の天才の知性と肉体は、完全に一つの不具合(混線)として同期した。
「いいだろう、モリアーティ。
お前という巨大な悪を葬る事ができるなら、この借り物の肉体ごと消去されるのも悪くはない!」
泰六は、口に咥えた紙巻き煙草の火光が嵐の雨粒のなかで激しく明滅し、最後の一閃として二人の顔を照らし出すなか、冷酷に微笑んだ 。
次の瞬間、二人の肉体は互いを組み伏せたまま、お茶の水橋の欄干を越え、明治のお茶ノ水の真っ黒な人工地獄谷の深淵へと、真っ逆さまに崩落(落下)していった。
翌朝、お茶の水橋の下、激流の引いた神田川の水面からは、へし折られた紙巻き煙草の吸い殻の現物だけが発見され、二人の遺体(現物)はついには、未発見のまま処理された
そして、盲目の蜘蛛が潜んでいたあの神田神保町の古書肆「あぢち堂」の跡地は、お上の手によって完全に敷地にされ、のちに東京中から人々が美味なる香りに誘われて集まる、小さな「西洋伽哩屋」の店舗へと書き換えられていくことになるが、当時の書生たちでそれを知る者は誰もいなかった。
国家を揺るがした前代未聞の終局戦の全容もまた、お上の都合によって公式の正史からは完全に消去される。
そして後日、一人洋館の二階に取り残された助手・和田進一の筆によって、涙と共に、ただの『駿河台の終局 ―― 翻案小説』という嘘の盾が神田の印刷所の輪転機から世の大衆へと放流されるが 、その原稿の最後の頁の隅には、進一の眼にだけ同期する、泰六が遺した暗号コード(第二シーズン・復活への伏線)が確かに刻まれており、物語は新たなる起動(再起動)のタイムラインへと接続されるのであった。




