Ⅹ 横浜港の巨船、霧の関門と和蘭陀(オランダ)人弁護士の算法
十一月の深い夜、神田駿河台の洋館の二階は、丁寧に糊付けされ、細く巻かれた一本の紙巻き煙草の乾いた煙と、硝子杯のなかで冷酷に白く濁っていくエメラルドグリーンのアブサン(緑酒)の強烈な薬草臭に支配されていた。
小室泰六は、窓外の雨が激しい風へと変わるのを聞きながら、緑酒の杯を冷淡に傾けていた。彼の脳内計算は、東京の都内を縛る、あの鉄壁の「軍部(陸軍工廠)」の堅牢な防衛網をいかにして迂回するかという、純粋な論理のパッチを組み立てている最中であった。
ぎしぎしと不穏な音を立てて木製の階段を駆け上がり、お上の官車を避けて部屋へ飛び込んできたのは、司法省の検事正(逮捕する側)であった。
その眼は焦燥のあまり血走り、顔色は泥のように土気色に変わっていた。
「小室殿! 都内は軍部の規律(ルート権限)が強すぎてこれ以上のハッキング(捜査)が完全に不可能だ!」
検事正は机を叩き、声を枯らした。
「だが先夜、横浜の外国人居留地において、私の長年の旧知であり、国際通商の法理を握る和蘭陀人弁護士・ファン・デデンが、何者かによって襲撃され、瀕死の重体(殺人未遂)に陥った!
異国の主権と不平等条約の防壁が絡む以上、お上の警察(我々)は公式には一歩も踏み込めない。
君の公式記録に残らない知性だけが、この巨大な空白地帯を動かせる唯一の独立端末なのだ!」
泰六は紙巻き煙草を深く吸い込み、細く白い煙を吐き出しながら、冷酷に微笑んだ。
「軍部があまりに強すぎるからこそ、舞台をその防衛網の外側へと強制移行(ポート移行)させる。
あぢち堂の最高顧問(モリアーティ教授)の算法は、どこまでも冷徹だな。……面白い、進一、横浜行きの夜行列車の時刻を調べなさい」
泰六は助手、和田進一を伴い、夜陰に乗じて鉄路を疾走し、異国の言葉が激しく行き交う港町・横浜へとサーバー(舞台)を移行させた。
横浜の外国人居留地に建つ、赤煉瓦の和蘭陀法律事務所。
泰六はその鋭い観察眼で、意識の戻らぬ弁護士の部屋の床に残された「特殊な異国軍艦用の防腐油の汚れ」、そして弁護士が命がけで硯箱の奥へ隠匿していた、ロンドン市場との外貨決済を担う「真鍮製の極秘暗号手形(送金認証キー)」の現物を瞬時にデコード(看破)した。
この和蘭陀人弁護士は、お上の政府が翌年に控えた大戦(日清戦争)の軍艦建造費(軍事費)をロンドンへ送金するための、国際法上の公式な代理人(法規の防壁)であったのだ。
あぢち堂の最高顧問は、自らは神保町の「あぢち堂」の暗がりに座したまま、横浜の異国商館の内部にいる特定の外国人の電信技師を買収し、弁護士を物理消去(暗殺)してその暗号手形を奪い、海の底を走る「海底電信線(水中ケーブル)」の送金ルートを、財閥の海外口座へと丸ごと書き換え(強奪)ようとしていたのだ。
もし不正送金が完了すれば、日本の国家財政はデフォルト(破滅)し、お上の警察権力は消滅、ホームズは東京の泥の中で完全に抹殺される。
「海外への不正送金が完了するまで、あと二十分。短くなった紙巻き煙草を横浜の潮風のなかに投げ捨て、泰六は電信が発する『周波数のバグ』から、手形を強奪した工作員が、港に停泊している英国籍の巨大郵船の船底に潜伏していることを完全に特定した」
「お上の警察は治外法権の壁に身構えるが、泰六は『英国船内での殺人未遂の追跡』という英国法の逆真名を検事正へ授け、抜刀隊を合法的かつ電撃的に船底へと突入させた」
電信の引き金が引かれる寸前、鉄扉が叩き割られた。
室内に広がったのは、あの築地でも嗅いだ異国の軍艦の油の悪臭。手形を強奪しようとしていた財閥の工作員と異国の技師たちは、その場で現行犯で公式に逮捕された。
国家の血液(外貨パケット)は守られ、和蘭陀人弁護士の無念は水際で完璧にデバッグされたのである。
再び、静まり返った神田駿河台の洋館の二階。
泰六は、短くなった紙巻き煙草の吸い殻を灰皿へと冷淡に押し付け、横浜から持ち帰ったアブサンの残りを硝子杯へと注いだ。
「軍部を避けて横浜へ舞台を移したところで、お前の吐き出す数理のインクの匂いは、この海の向こうまで筒抜けだったよ、モリアーティ」
この、日本の命運を分けた横浜港の国際為替ハッキング事件の全容もまた、お上の都合によって公式の正史からは完全に消去される。
そして後日、和田進一の筆によって、ただの『横浜港の巨船 ―― 翻案小説』という嘘の盾をまとって世の大衆へと放流されていくが 、
二大天才の知性の決戦は、いよいよ東京・神田の「あぢち堂」の最奥、真の終局へと引き戻されていくのであった。




