Ⅸ 新橋駅の黒煙、臨時運行表の論理 改訂版
十一月の深い夜、日本の陸上交通の絶対的な大動脈である新橋停車場(旧 新橋駅)は、蒸気機関車が吐き出す真っ黒な煙と、じっとりと湿った石炭の臭いに支配されていた。
操車場の奥、張り巡らされた鉄路の転轍機の傍らで、特別列車の運行を統御する天才信号手が、高架下へと不自然に転落死(強制終了)させられた瞬間、お上の最高中枢を乗せて疾走する鉄の塊は、制御不能の破滅へと舵を切った。
信号手が冷たくなった指の間に命がけで握りしめていたのは、裏帳簿ではない。信号を物理的に固定する一本の「真鍮製の切り替えレバーの鍵」。
底には、鋭い小刀で細かく「不自然な数字の羅列(時間コード)」が刻み込まれていた。
神田駿河台の洋館の二階。小室泰六は、丁寧に糊付けされた一本の紙巻き煙草に火を点け、細く白い煙を吐き出しながら、検事正が持ち込んできたその真鍮の鍵の表面を、一滴の感情も交えぬ冷徹な眼光で見つめていた。
「小室殿! あと一刻(二時間)で、内閣総理大臣・青井敬俊首相、および松方大蔵大臣の一行を乗せた特別編成列車が新橋駅へと入着する!」
部屋に飛び込んできた司法省の検事正(逮捕する側)は、焦燥のあまり声を枯らしていた。
「だが、信号手が殺され、操車場の全ての電信網が完全に沈黙しているのだ。
このままでは、後続の重積貨物列車が同じ鉄路へと突入し、総理大臣ごと国家の中枢が新橋駅のホーム手前で大衝突を起こして吹き飛ぶ!」
当時、青井総理率いるお上の内閣は、翌年に控えた大戦(日清戦争)の兵員配置と軍事費調達のため、緊迫したタイムラインの中で全国の鉄道インフラの特別巡検を行っていた。
「検事正、落ち着きなさい。この数字の羅列は、衝突を回避するための唯一の正しい時間規律だ」
泰六は紙巻き煙草を深く吸い込み、冷淡に言い放った。
「あぢち堂の最高顧問(モリアーティ教授)の狙いは、単なる嫌がらせではない。軍事費に焦るお上の隙を突き、国家の頭脳(青井総理たち)を物理的に丸ごと消去すること。国家のサーバーが機能停止に陥ればお上の警察システム(貴方方)の防壁は消滅し、私はこの東京の泥の中で完全な孤立無援のスタンドアロンへと追い詰められ、消去される。
鉄路の衝撃から目覚めたあの蜘蛛が、今度は新橋の鉄路の衝撃で私を殺しに来たのだよ。……
一秒の遅れも許されん、新橋へ走るぞ、進一」
泰六は助手、和田進一を伴い、蒸気と黒煙が立ち込める新橋駅の信号塔の闇へと潜入した。
泰六の計算は、鍵に刻まれた数字が「一五分(かつてのロンドン駅の信号規律)」ずらされているバグを看破。教授が中央交換所の交換手を使い、駅の電信線をハッキングして「運行ラインに異常なし」という偽のパケット(電信ログ)を内閣へ掴ませ、大衝突のタイムラインを自動航行させていたことを突き止めた。
特別列車が新橋駅の分岐点へと突入し、大衝突を起こすまであと三分。
信号塔の奥へと駆け込んだ泰六は、教授に買収されていた内通者の操車手を冷酷に組み伏せた。そして、短くなった紙巻き煙草を冷淡に床へ踏み消しながら、真鍮の鍵を信号レバーへと叩き込み、教授の仕掛けた偽の信号規律を完全に逆計算して、レバーを力ずくで正常な位置へと切り替えた。
ガチャン、と硬質な鉄の音が響く。
次の瞬間、闇の向こうから猛烈な轟音と黒煙を上げて突入してきた青井総理の特別列車は、衝突寸前で別の鉄路へと鮮やかに回避され、日本の国家中枢は水際で完璧に救われた。
同時に、操車場で教授の売買電信を操作していた、あぢち堂の工作員たちは、検事正率いる警察の手によってその場で公式に逮捕された。
国家の崩壊という最悪のバグは、完璧な法執行の規律によって完全に相殺されたのである。
すべてが終わり、煤煙の引いた新橋駅のホーム。
車窓から姿を現した内閣総理大臣・青井敬俊の、威厳に満ちた、しかしどこか冷酷な政治家の横顔を遠目に見つめながら、泰六の脳内メモリに、ライヘンバッハの深淵すら超えた、凍りつくような奇妙な未来のエラーログ(予感)が一瞬だけ過った。
(この青井という男。今回は私の論理で救ったが……この男の肉体には、いずれ再び、どこか遠い異国の『鉄路の駅舎の煙のなか』で、誰かの凶弾によって命のログを強制終了される、消せない不具合(宿命)が刻まれているのではないか)
「小室さん? どうかしましたか、そんな恐ろしい眼をして」
進一の声に、泰六はフッと冷たく笑い、新しい紙巻き煙草に火を点けた。
「いや、何でもない。ただの計算の端数だよ、進一。さあ、洋館へ戻ろう。今回のチェスも、私の勝ちだ」
この、新橋停車場を恐怖に陥れた前代未聞の列車大衝突未遂事件の全容もまた、お上の都合(国家の威信)によって公式の正史からは完全に消去される。
そして後日、和田進一の筆によって、ただの『新橋駅の黒煙 ―― 翻案小説』という嘘の盾をまとって世の大衆へと放流されていくが、東京の夜の底で、二人の天才の知性の戦いは、さらにその深度を深めていくのであった。
泰六の悪癖、駿河台の緑酒(アブサンの算法)
十一月の雨が上がる夜、神田駿河台の洋館の二階は、安物の紙巻き煙草の煙と、それとは全く異なる「むせるような薬草のアニスの匂い」で満たされていた。
小室泰六は、机の上の硝子杯を見つめていた。
そこには、築地の居留地の薬館から進一に極秘裏に買い付けさせた、仏蘭西の劇薬――「アブサン(緑酒)」の現物が、怪しげなエメラルドグリーンの光を放って揺れていた。
泰六がそこへ一滴の冷水を垂らすと、透明だった緑の液体は、まるで思考の回路が混線するように、不気味に白く濁り始める。
「小室さん……! 頼むからその悪魔の毒水を煽るのはやめてください!」
助手である和田進一が、青ざめた顔でその硝子瓶を遠ざけようとした。
「それは欧州の画家や詩人たちが脳を狂わせて身を滅ぼした、お上の医師も眉をひそめる劇薬リキュールですよ。これ以上脳細胞に過負荷をかけて、もし泰六さんの肉体が完全に壊れて(機能停止して)しまったら……!」
泰六は何も答えず、短くなった紙巻き煙草を冷淡に灰皿へ押し付けると、白く濁った緑酒を一気に舌先へと流し込んだ。ニガヨモギの強烈な苦味が、借り物の肉体の神経を一瞬でハッキング(覚醒)していく。
「進一、パニックは思考のノイズにしかなりません。……事件がないのだよ」
泰六は虚空を見つめたまま、乾いたハードボイルドな声で呟いた。
「東洋の雑音が止み、私の頭脳の歯車が退屈という最悪の錆でフリーズ(停止)しかけている。
この猛烈な思考速度を維持するためには、お上の規律のすり抜けたこの『緑のインク(アブサン)』で、脳内メモリを強引にハッキングし続けるしかないのだよ」
「紙巻き煙草の焦げる匂いと、アブサンの白く濁るエメラルドグリーン。
お上の法律をすり抜けた緑の劇薬を燃料にして、モリアーティ(あぢち堂)との次なるチェスを待つホームズ」であった。




