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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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Ⅷ 築地の密造絹、治外法権の罠と信用の失墜

十一月の深い夜、隅田川の最下流に位置する築地港(つきじこう)は、海から這い上がってきた湿った塩硝の霧に完全に包み込まれていた。


外国人居留地の洋館が放つ微かな灯火も、この夜の底では冷酷な霧の遮断幕によって掻き消されている。

波止場に鎖で繋がれ、不気味に揺れる川崎財閥の巨大な運搬船。その船底の生臭い暗がりのなかで、お上の税関検査官が首を索で絞められ、床へどさりと崩れ落ちた瞬間、近代日本の交易システムには決定的な不具合が書き込まれた。


現場に残されていたのは、文字の並んだ紙の裏帳簿ではない。異国の最新鋭軍艦が機関部に使用する、特有の石油臭を放つ「耐水防腐油」が深く染み込んだ、一束の真っ白な生糸(きいと)の現物であった。


神田駿河台の洋館の二階。立ち込める安物の刻み煙草の紫煙の向こうで、小室泰六(こむろたいろく)は、その油塗れの生糸を小刀の先で弄んでいた。


「小室殿! この生糸の不具合(大醜聞)がロンドン市場へ漏れれば、我が国は終わりだ!」


部屋に飛び込んできた司法省の検事正(逮捕する側)は、焦燥のあまり書類を机に叩きつけ、声を枯らしていた。「築地で押さえた富岡の生糸の全てから、大量の異国軍用の汚染油が検出された。だが、お上の税関の通信網は完全に沈黙しており、異国への出荷を止めるタイムラインが合わんのだ!」


当時、お上の藩閥政府は、翌年に控えた大戦(日清戦争)への天文学的な軍事費を即時捻出するため、国営通信網(電話線)の払い下げと同時に、日本の外貨獲得の命綱である「富岡製糸場」を財閥(三井)へ売却(払い下げ)した直後であった。お上はこの富岡の「世界最高品質のブランド(信用)」を確固たる担保にして、ロンドン市場で軍事費のための外債(借金)を募る国家計画を進めていたのだ。


「検事正、貴方方はまた単なる財閥の嫌がらせだと思っている。だから真実を見落とす」

泰六は煙草から細い煙を吐き出し、小刀の先で生糸の白き繊維を冷酷に弾いた。ペイン、と湿った音が響く。


「奴が正規の輸出港である『横浜港』ではなく、あえてこの『築地港の外国人居留地』を密造所に選んだ理由(ロジック)を見落としてはならない。


横浜の税関であれば、お上の法規の網(警察権力)が全域に届いているため、不審な船があれば即座に強制捜査(臨検)ができる。

だが、築地港の居留地は、異国との不平等条約によって守られた『治外法権(ちがいほうけん)』の向こう側だ。お上の警察(貴方方)は、公式には一歩も踏み込むことができない『空白地帯』なのだよ」


泰六は、驚愕する検事正を冷たく見据え、助手である和田進一(わだしんいち)へ向けて、その乾いた歴史の因果(ソースコード)を解読してみせた。


「明治初期、我が国の生糸は各地の粗悪な業者が不正な品を混ぜて輸出したため、海外市場で『粗悪品(バグだらけの不良データ)』と酷評され、国家の信用は泥のように地に落ちていた。

お上が莫大な国費を投じてあの富岡製糸場を建設した真の目的は、世界に通用する完璧な標準生糸(純正データ)を製造し、日本の国際信用を修復(デバッグ)することに他ならなかった。

富岡の生糸は、この国が西洋列強に舐められないための、最後の防壁(セキュリティ)なのだよ」


あぢち堂の最高顧問(モリアーティ教授)は、その歴史の傷口と条約の規律(バグ)を、最も冷酷な算法(アルゴリズム)でハッキングしてきたのだ。

お上の法の手が届かない築地居留地の外国人ホテルの地下へと純正生糸を隠匿。


そこで軍事油を混入して「粗悪品」へと先祖返り(システムリバート)させ、居留地内の異国電信線を使って、お上の検閲を完全にすり抜けてロンドン市場へ「民営化された富岡の絹はすべて汚染された」という大醜聞を放流する。


そうなればお上はロンドン市場で軍事費を一切調達できなくなり、国家はデフォルト(破産)。

検事正の警察権力は途絶え、ホームズは東京の泥の中で完全な孤立無援のスタンドアロンへと追い詰められ、消去される。お上自身が縛られている条約の規律そのものを盾として利用する、宿敵のチェックメイトの手であった。


「ロンドン市場が始まるまで、あと一刻(二時間)。治外法権の壁を踏み破る段取り、対抗策はすでに組んである。築地へ走るぞ、進一」


泰六は進一を伴い、生糸に染み込んだ油の「粘度の変化ログ」を脳内で逆計算した。外国人交換手の回線をデバッグし、税関の通信を遮断していた財閥の工作員の位置情報(座標)を完全に特定した。


霧深い築地居留地の地下室の扉が、外交特権の隙間を突く検事正の手によって電撃的に叩き割られた。


室内に広がったのは、異国の軍艦の油の悪臭。

生糸を汚染していた油の樽と、手動の電信機でロンドンへ大醜聞を送信しようとしていた財閥の技師たちは、その場で現行犯で公式に逮捕された。


国家の信用を破壊せんとしたハッキングは、完璧な法執行の規律によって、水際で完全に相殺されたのである。


再び、静まり返った神田駿河台の洋館の二階。


泰六は、回収された白き生糸の現物から油の染みた端を小刀の先で切り落とし、煙草を巻き出した。


「教授は、この国がかつて世界から『粗悪品』と侮られた歴史の傷口そのものを武器にして、私を殺しに来た。……だが、今回のチェスも私の勝ちだ、進一」


この、近代日本の国際信用を揺るがした前代未聞の生糸汚染事件の全容もまた、お上の都合によって公式の正史からは完全に消去(フォーマット)される。


そして後日、和田進一の筆によって、ただの『築地の密造絹 ―』という嘘の盾(カモフラージュ)をまとって世の大衆へと放流されていくが、神田の夜風の中に、あの富岡の白き生糸を汚した、苦い油の残り香が漂い続けるのであった。

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