第8話 故郷へ帰る道は一直線ではない
アルカン塔を出て四日目の夕方、ハーディは大禍の山南側の宿場へ着いた。
街道沿いの低い家々の向こうに、山が青黒い壁となって迫っている。西日を受けた峰には雪が残り、その下を雲が横切っていた。広場にはここから先へ進めない荷馬車が並び、木箱と樽が駄獣の背へ移されている。革帯を締める掛け声に、蹄の音と馬の鼻息が重なる。
塔へ帰る時にも通った場所だが、逆から見ると、荷を積む側と下ろす側が入れ替わっている。
道の両端で毎回これをするのか。そりゃ、山を越えるだけで高くなるよな。
宿で北へ向かう荷運びの隊へ加わり、翌朝、空が白み始める頃に出発した。先頭の護衛は、黒髪を首の後ろで束ねた女性である。日に焼けた頬へ短い傷があり、腰の剣より先に、長い棒で道の端を確かめていた。
道は山塊の端を回り込み、岩肌と丘陵の隙間を縫っている。峰を越える道よりは安全だが、人と駄獣が一列で通るのが精一杯で、馬車を持ち込めば最初の曲がり角で詰まる。斜面の木々の下からは、水音だけが聞こえていた。
山は半島を守る壁でもある。荷馬車一台を通せない道へ、軍の補給車列が入るはずもない。ただ、守ってもらう側も、塩や布を背負って歩くことになる。
便利なところだけ使わせてはくれないか。
二日目の昼、隊は沢沿いの休憩小屋へ入った。
石積みの壁に囲まれた小屋は屋根の半分が新しく、入口には削りたての木の匂いが残っている。奥では荷運びの男が共同の湯沸かし器を前に座り、青くなったり暗くなったりする灯りを睨んでいた。器の縁からは、細い湯気が一筋しか上がっていない。
ハーディは水筒へ栓をしながら、灯りを見た。消える度に、下の留め具から小さな音がする。魔力が足りないのではなく、途中で切れている。
「蓋、開けてもいいですか」
「直せるか?」
「接点だけなら」
返事を聞くより先に、手は腰の道具入れへ向かっていた。男が器をずらすと、ハーディは膝をつき、下側の蓋を外した。浮いた留め具を締め直す。灯りが落ち着き、すぐに湯気が太くなった。
「助かった。昨日から叩いてたんだ」
「叩いたら、また緩みますよ」
蓋を戻してから顔を上げると、護衛の女性が自分の茶椀を持って立っている。
「塔の魔術師は、そういうのも直すんだな」
「これなら、魔法を使うより早いので」
男が礼に茶を淹れ始めた。
説明して人を呼ぶより、留め具を二つ締める方が早い。そこは間違ってないよな。
茶が淹れられるまでに、ほかにも調子の悪い器具があると相談された。
早く済ませるつもりだったんだけどな。
荷運びの男が挙げたのは宿場に置いてきた灯具で、今ここで見ることはできない。使っている時の光り方と、どこへ伝えればいいかだけ話し、ハーディは茶を飲んだ。
食後には、沢のそばでマルチェロの短杖を試した。同じ灯りの術式でも、岩壁へ近づけると魔力の流れがわずかに乱れる。杖を通すと、その揺れが手元で収まった。今度は向きを変え、沢の側でもう一度試した。
水と岩、どっちで変わるんだろう。そこが知りたいんだよな。
「そろそろ行くぞ」
護衛の声に、ハーディは顔を上げた。荷の革帯はもう締め直されている。手帳へ場所と感触を書き留め、杖を腰へ戻した。
これなら歩きながらでも比べられるな。いい物をもらった。
三日目の午後、道が下りに変わり、木々の切れ間から山北側の宿場が見えた。帝国の旗の下に馬車が何台も並び、その向こうでは、広い街道を荷車が並んで進んでいる。
あっちなら座って行けるな。山道も面白かったけど、そろそろ足を休ませたい。
◇
塔を出て八日目の朝、ハーディはようやく乗合馬車の席へ収まった。
隣には染料を扱う商人、向かいには籠を抱えた老夫婦が座っている。山道を先導した黒髪の護衛も、ベルメールまでは同じ隊に付くという。今は剣を膝へ立て、窓際の席で目を閉じていた。
車輪が整えられた街道へ出ると、ハーディは地図を広げた。最初の目的地は港町ベルメール。そこから帝都ヴァルディエ、サン=ロシェ、モンテールを経て、故郷へ向かう。
地図の線だけ見れば遠回りだが、海辺の素材市場は一度見てみたかった。書庫の見本棚にはないものが、店先に並んでいるという。
「里帰りかい?」
向かいの老婆が、土産鞄へ目を向けた。
「はい。六年ぶりです」
「そりゃ、お母さんが待ちくたびれてるよ」
「森へ寄らず、家へ帰れと念を押されました」
「寄り道しそうな顔をしてるのかねえ」
老婆が笑い、隣の老人も目を細めた。ハーディは地図を畳んだ。
町の市場までは禁止されてないからな。聞いたら余計な一文が増えそうだし、母さんへの手紙には書かなかったけど。
窓の外には低い丘と葡萄畑が続いている。石垣の上で小さな蜥蜴が日を浴び、刈り取りを終えた畑には鳥が集まっていた。馬車が坂を下る度、前方に青い海が少しずつ広がっていく。
誰も揉めていない。馬も元気で、車輪から異音もしない。
いい旅だな。荷物を背負わずに景色を見ていられるだけでも、今はありがたい。
ハーディは座席へ背を預け、借りてきた旅行記を開いた。
◇
ベルメールへ着いたのは、塔を出て十一日目の昼過ぎだった。
街道が最後の丘を越えると、白灰色の城壁の向こうに港が広がった。湾内には大小の帆柱が並び、沖へ出る船は帆を張り、入港した船は帆布を畳んでいる。海鳥の声と荷役人の掛け声が風に乗り、潮の匂いへ魚、香辛料、濡れた縄、獣脂の臭いが混じっていた。
城門を入った先は、馬車二台が並べる広い通りである。石造りの倉庫には商会ごとの旗が下がり、荷車には木箱、樽、皮を巻いた長物、網をかけた魔物の骨が積まれている。道端の食堂では貝と豆を煮る鍋から湯気が上がっていた。
アルカン塔のベルメール支部は、港を見下ろす坂の中腹にある。
三階建ての細長い建物で、海側の壁には塩害を防ぐ白い塗料が使われ、入口の上へ古塔と星の印が掲げられている。扉を開けると、外の潮風に代わって乾燥薬草と紙の匂いがした。
受付で任命札を見せると、支部長のオリヴィエ・マルタンが二階の執務室へ案内した。
四十代半ばの男で、薄茶の髪を短く整え、紺色の長衣の袖口には白い塩の跡が残っている。机の脇には港の地図と潮位表が貼られ、窓辺の棚には形の違う魔石が瓶ごとに分けられていた。
「巡回視察員を迎えるとは聞いていましたが、まさか今日とは」
「山道で足止めされずに済みました。北側の馬車も、うまく乗り継げたので」
「道中で問題は?」
「足止めはありません。山道の小屋の湯沸かし器は直しましたが、留め具が緩んでいただけです」
オリヴィエはペンを持ち直しかけ、笑った。
「それは道中の事故には数えませんね」
「俺もそう思います」
ネジ二つで報告が一枚増えるところだった。危ないな。
支部からの報告も、急を要する内容はなかった。湾内の魔力観測値は季節の範囲内。倉庫の保冷術式は塩気で接点が傷みやすいため、定期交換を行っている。沖で小型海魔が見られたが、漁船を追う様子はない。
ハーディは保冷術式の交換記録を読み、海側の倉庫ほど交換が早いことに目を留めた。
潮風だけで、こんなに違うのか。
「外した接点は、まだありますか」
「工房に見本を残しています。ご覧になりますか」
「ぜひ。交換用の部品も見たいです」
記録の写しを受け取り、工房の場所も教わった。
宿へ行く前に寄れそうだな。港でしか傷まない部品まで見られるのか。こういう楽しみは、地図だけじゃ分からないよな。
「一泊して、明日の午後に帝都へ向かう便へ乗ります」
「ベルメールを見て回らないのですか」
「午前中は市場へ行くつもりです。外套の留め紐に予備が欲しいので」
「それなら港の素材市場がいいでしょう。魔物素材なら帝国中から集まっています。ただ、観光客向けの店は値札をよく見た方がいい」
「高いんですか」
「港の景色代が入っています」
景色は自分で見るから、その分は要らないんだけど。
宿の場所と市場への道を教わり、ハーディは支部の工房へ寄った。窓際の台には外した部品が並び、海へ向いていた接点の片側だけが白く荒れている。交換品は覆いを一枚増やし、塩気が内側へ入りにくい形にしていた。
これなら辺境の森でも使えそうだな。あそこも湿ってるし。
手帳の余白へ断面を描き足した。
支部を出て坂を下るにつれ、人の声と荷車の音が大きくなる。軒先には乾燥させた海藻、色鮮やかな布、角や爪を加工した装飾品が並び、通りの向こうには午後の日を反す海が見えた。
夕食にはまだ早いな。荷物を宿へ置いたら、港を歩こうか。焼いた貝の匂いも気になるし。
巡回の最初の町から、事件なんか起きなくていいからな。
この時のハーディは、そう思っていた。
◇
翌朝の素材市場は、宿の窓が明るくなる頃には開いていた。
大屋根の下に細い通路が何本も延び、革、牙、角、骨、腱、薬草、鉱石、魔石が種類ごとに並んでいる。塩漬けの皮を扱う区画では獣と薬品の臭いが強く、魔石の区画では検査用の術具が青や緑の光を明滅させていた。
ハーディが探しているのは、旅外套の留め具へ使う耐熱性の腱糸である。火口の近くでも縮みにくく、濡れても強度が落ちにくい物がいい。
二軒目の店で、目的に合う品が見つかった。
透明な蓋の箱へ、赤茶色の細い腱糸が束ねてある。札には、南方の島に棲む火蜥蜴から採った上等品と書かれていた。値段は高いが、品質が表示通りなら長く使える。
ハーディは店主へ声をかけ、一本だけ手袋越しに持たせてもらった。山蜥蜴の腱より細いのに、値札ではずっと強いとある。
どんな繊維になってるんだろう。
軽く曲げると、予想より硬い手応えが返ってきた。
表面の染料が伸びたところで、内側に灰白色の筋が現れた。
指で撚ると、三本に分かれた繊維が同じ方向へ戻ろうとする。微かに石と獣脂の匂いもした。
見覚えがある。
大禍の山で採れる山蜥蜴の腱だった。子供の頃、罠の跳ね紐や弓具の補修に使った。丈夫ではあるが、火蜥蜴ほど熱には強くない。
火を扱う術具へ使えば、悪ければ切れる。
「この表示、合っていますか」
ハーディは箱の札を指した。
店主は禿げ上がった額へ皺を寄せた。赤い前掛けを着た五十代ほどの男で、片眼鏡を鎖で首へ下げている。
「商業組合の証明付きだ。仕入れ書もある」
「火蜥蜴の腱には見えません」
「鑑定術を使ったのか?」
「いいえ。撚り方と内側の色です。地元で使っていた物と同じ特徴があります」
「どこの地元だ」
「ヴァレーヌです。これは多分、大禍の山で採れる山蜥蜴の腱です」
店主は腱糸とハーディの顔を見比べた。
「大禍の山の安物を、島産の上等品として売っていると言いたいのか」
「染めた山蜥蜴の腱に見えます。証明と現物を確認してください」
店主は箱の縁へ手を掛け、自分の方へ引いた。
「証明はあると言ってるだろう」
声が大きくなり、隣の店の客が振り返った。
ハーディは腱糸を箱へ戻した。
一言聞いただけで、周囲に人が集まり始めている。
ここで産地を言い争ったら、午後の馬車に間に合わないぞ。後で書面を出して、証人を探して、買ってもいない商品の代金まで聞かれるかもしれない。留め紐一本で増える予定じゃないだろ、これ。
「市場の検査担当を呼んでもらえますか。俺が間違っていれば、それで終わります」
「逃げるなよ」
「帝都行きは午後なので、昼まではいます」
「時間を区切るところか?」
区切らなかったら、本当に一日潰れるだろ。
店主が裏の通路へ店員を走らせた。
ハーディは大屋根の向こうに見える港の空を見上げた。
晴れている。
馬車は出るだろうな。あとは、昼までに終わるかどうかか。




