第7話 里帰りは仕事のついでではありません
休養期間の最後の日、ハーディは昼過ぎから荷造りを始めた。
帰任者棟の窓は開け放してある。白いカーテンが風を含んでは戻り、机の上に置いた経路図の端を小さく持ち上げている。
眼下の通りでは、果物売りが荷車を引いている。熟した柑橘の甘い匂いが三階まで届き、向かいの屋根では灰色の鳥が二羽、日向を取り合っている。
急いで支度をする必要はない。この数日は書庫で旅行記を読み、昼寝をし、食堂で新しい料理を試し、共同浴場へももう一度行った。昨日は目覚ましの鐘を二つとも聞き流して昼前まで寝ている。
休暇としては、かなり正しく使えたんじゃないか。
寝台の上には、着替え、雨除けの外套、野営用の薄布、水筒、火口箱、保存食、塔から借りる小型の術式板と魔力測定器、筆記具、薬、予備の靴紐と、旅へ持っていく物が用途ごとに並べてある。その隣に置かれているのは、家族への土産だ。
母には塔の街で織られた肩掛け。父には金属部品を細かく測る器具。兄弟たちには焼き菓子と、土産物屋で売っていた古塔の木彫りを買った。
前と同じ物じゃ喜ばないかな。六年あれば、背も好みも変わるだろうし。これをもらって喜ぶ年は、もう過ぎてるかもしれないな。
調査器具と土産を同じ背負い袋へ入れると、焼き菓子が測定器の下になる。
六年ぶりに帰って、最初に渡すのが粉になった菓子じゃなあ。
ハーディは背負い袋から測定器を出し、もう一度入れる場所を考えた。
扉が三度叩かれた。
「開いてます」
「不用心だな、おい」
入ってきたマルチェロは、寝台の上を見て眉を上げた。今日は塔の長衣ではなく、袖を肘までまくった白いシャツに細身の黒いズボンという格好で、黒に近い茶髪もいつもほどきっちり撫でつけていない。片手には革張りの細長い箱を持っている。
「荷造りしてんのか」
「明日、正式任命を受けたら出ますから」
「ちゃんと休み切ってから始めたのは偉い」
「子供みたいに褒めないでくださいよ」
「十歳の頃から見てると、十六なんて大体子供だ」
マルチェロは勝手に椅子へ座り、箱を机へ置いた。
「餞別」
蓋を開けると、中には黒褐色の木を腕の長さほどに削った短い杖が収まっている。握りの部分には銀の環が三つはめられ、宝石も彫刻もないが、先端に刻まれた術式だけは、角度を変えると薄青く光る。
ハーディは手に取った。
見た目より軽く、重心は握りの少し先にある。ハーディが魔力を通すと、銀の環が順番に温かくなった。そこで一度魔力を絞り、もう一度、少し速く流した。環の間で揺れが収まり、先端へ抜ける感触が滑らかになる。
「補助杖ですか」
「アルカナ術式の安定用だ。森の深い所じゃ焼け石に水だが、街道や浅い所なら役に立つ。俺が昔使ってた」
「環の間で合わせるんですね。出力を変えても、先がぶれない」
ハーディは握りを返し、銀環の内側へ目を近づけた。
「構造が見たくても、今ばらすなよ」
「見てるだけですよ」
できれば図面も欲しいな。……餞別をもらったそばから、注文まで増やすのはどうなんだ。
「もらっていいんですか」
「今の俺には短すぎる。倉庫へ戻しても、学生用の貸し出し棚に放り込まれるだけだ」
銀環の一つには細い傷があり、長く使い込まれた跡が残っている。
「ありがとうございます」
「折ったら直せよ」
「そこは大事に使えじゃないんですか」
「大事にしてても折れる時は折れる。生きて持って帰りゃ、杖くらい直せる」
マルチェロは杖から目を離し、開いた窓の外を見た。
荒っぽい餞別だな。先輩らしいけど。
ハーディは杖を布で包み、測定器の横へ収めた。
これで、ますます菓子の場所がないぞ。
「それ、土産か?」
「はい」
「別の袋にしろよ」
考え続けていた問題を一言で片付けられた。
「荷物が増えます」
「潰した菓子を渡して空気を悪くするより軽いだろ」
まあ、帰って早々に謝るよりは、袋一つ持つ方がいいか。
ハーディは棚から小さな布鞄を出した。
◇
翌朝、古塔の鐘が一度鳴る頃には、管理棟の廊下へ朝日が差し込んでいる。
窓枠の影が磨かれた床へ長く伸び、開いた窓から紙と乾いた草の匂いが入ってくる。夜のうちに本部へ届いた連絡文が、書記たちの手で各部署へ運ばれている。
リヴィア・オルシーニの執務室には、前回見た地図が壁へ掛けられている。
机の正面にハーディが座り、少し離れた窓際にはマルチェロが立っている。本人は付き添いではなく、帝国との再契約に関する書類を届けに来ただけだと言っていた。
届けた後も帰らないんだから、付き添いだよな、それ。
「本日付で、ハーディを塔の巡回視察員に任命します」
リヴィアは一枚の任命書を読み上げ、机の上へ置いた。
任地は固定せず、各地の支部、協力者、領主、都市の要請を確認し、魔法環境、魔物、ダンジョン、術式上の異常を調査する。
各地の支部へ着くたびに報告し、支部へ着かない期間も、最寄りの連絡所か協力拠点から少なくとも月に一度は本部へ連絡する。報告するのは、現在地、引き受けた依頼、現地の担当者、未処理の問題だ。
本部の確認担当は内容を検討し、職務範囲の判断や必要な支援を返す。先日聞いた条件が、そのまま任命書に記されていた。
「職務の境界も文書にしました」
次に差し出された紙には、四つの項目が並んでいる。
現地の状況を観察して記録すること、現地の責任者から要請があれば魔法に関する技術支援を行うこと、目の前で人命に危険がある場合は要請を待たず緊急対応してよいこと。そして、領地の指揮権を引き受けず、行政、軍事、外交の決定を代行しないこと。
最後の文字だけ、大きくないか。
「俺だけ書式が違いますか」
「巡回視察員に共通の書式です」
「お前向けに、最後を二度読み合わせたけどな」
窓際から余計な補足が入った。
「現物の確認と、魔法の調査は俺ですね。修繕や運用を続けるのは現地の担当、と」
「その場で直せても、あと十台あるって言われる前に相談しろよ」
マルチェロが腕を組んだ。
「一台目の原因は、見れば確かめたくなるでしょう」
「なる。だから二台目の前に相談しろって言ってんだ」
リヴィアが頷いた。
「調査結果を共有して、必要な人数と器材を決めましょう。本部から手配します」
十台とも同じ原因なら、一台直してやり方を渡せばいいか。全部違ったら……それはそれで気になるんだよな。
ハーディは署名し、塔の印が入った任命札を受け取った。
任命札の表面には古塔と星、裏面には各地の支部へ協力を求められることが細かな文字で刻まれており、帝国で着けていた宮廷徽章より軽い。
「次に、ヴァレーヌ辺境伯領から届いた最新の資料です」
リヴィアが革紐で綴じた紙束を置いた。
ハーディの前へ、厚い紙束が滑ってきた。
休暇明けなんだから、もう少し薄くてもいいんだけど。
「目撃報告だけで二十七件。うち十二件は、同じ群れを別の場所から見た可能性があります」
「整理済みですか」
「日時と場所は一覧にしてあります。現地でも照合中です」
二十七件を最初から読み比べなくていいのか。それは助かるな。
一覧には、ゴブリン、角猪、鎌爪狼、名前の分からない大型の虫が記されている。いずれも大禍の森にいること自体は珍しくなく、問題は目撃された場所だった。
「北へ寄っていますね」
「はい。通常の狩り場より外へ出ています。家畜の被害が三件。人の死者はありません。森沿いの集落では、夜間の見張りを増やしています」
ハーディは地図の印を指で追った。
ばらばらに見える印は、古い谷道と水場に沿っている。森の奥から出た群れが餌を求めて動くなら不自然ではないが、種類の違う魔物が近い時期に同じ方向へ移動している点は気になった。
餌が減ったのか、増えすぎたのか。それとも、奥から何かに追われてるのか。最後のは勘弁してほしいな。弱いのが前へ出てきたら、後ろには弱くないのがいるんだよ。
森も、一種類ずつ順番にしてくれたらいいのに。
「辺境側の見立ては?」
「異常発生の初期段階を疑っています。ただし断定はしていません。討伐隊は入口周辺の確認を始めていますが、現時点でダンジョン深部へ入る予定はないそうです」
その判断なら妥当だ。入口の外で増えた群れを数え、足跡と移動方向を調べるのであって、いきなり奥へ入り、原因らしきものを見つけるまで帰らないという話ではない。
「ハーディも、最初は入口周辺の調査に加わってください」
「魔力を測った場所は分かりますか。群れが出た場所と比べたいです」
ハーディは目撃地点の印と、その奥の谷を指で結んだ。
「記録に添付されています。ただし、深部の値はありません」
「じゃあ、まず外側ですね。前の記録からどれだけ変わったか見ます」
「新しい数値が出たからって、その場で奥の値まで取りに行くなよ」
マルチェロは笑いながら、地図の谷道を指で塞いだ。
「ここで変わってたら、先も気になるとは思いますけど」
「思うのはいい。隊と準備を揃えてからにしろ」
準備が要るのは分かってる。でも、この印だけでも確かめたいことが三つあるんだよな。家に着く前に、調査用の紙が足りなくなるぞ。
リヴィアは資料の下から、折り畳んだ小さな紙を一枚出した。
「アルヴェール支部から、私信も預かっています」
広げると、「エレナとリーネから無事の連絡あり。帰着はまだ」「ハーディは森へ寄らず、先に家へ帰ること」という短い文が二つ並んでいる。
下の一文だけ、別の筆跡で二重に線が引かれている。
「誰からですか」
「一つ目は支部長。二つ目は、あなたのお母上です」
「まだ何もしてません」
「六年分の信用だな」
マルチェロが笑った。
ハーディは紙を畳んだ。
家へ帰る途中で見慣れない足跡を見つけ、日暮れまで追ったことはある。
よく覚えてるな、母さん。六年前なんだけど。今度は先に土産を渡そう。足跡があっても、場所だけ覚えておけばいいか。
◇
塔の正面門には、朝の荷車が列を作っている。
染料を積んだ商人の車、薬草を空箱へ替えて帰る車が順番を待ち、その間を旅装の学生や護衛が行き来している。
石壁の上では青い旗が風を受け、門柱へ刻まれた術式が、通る荷物へ淡い光を走らせている。
ハーディは灰色の旅外套を着て、背中に荷物、肩に土産の布鞄を掛けている。短杖は腰の左側へ吊った。
まず半島の街道を北へ歩き、大禍の山際の宿場で荷運びの隊へ合流する。馬車の通れない山裾の細道を抜け、帝国側へ出てから乗合馬車でベルメールへ向かう予定だ。帰任の時に通った道を、今度は逆へ辿る。
その先は帝都ヴァルディエ、サン=ロシェ、モンテールを経て、故郷のアルヴェール。遠回りだが、途中の支部には見てみたい術具も、聞いてみたい話もある。
巡回視察員って、案外俺に向いてるんじゃないか。
「忘れ物は」
見送りに来たマルチェロが聞いた。
「確認しました」
「任命書」
「内ポケットです」
「金」
「分けて持ってます」
「食い物」
「背負い袋です」
「土産」
「潰れない鞄にしました」
マルチェロは指を折って四つまで数え、土産鞄の口まで目で確かめた。
「よし」
初等課程の遠足じゃないんだけどな。
「先輩は、いつ帝都へ?」
「早くて十日後だ。契約の文言が固まって、向こうが受け入れの責任者を決めてから」
「決まらなかったら?」
「行かねえ」
返事が早いな。俺なら話してる間に、目についた術式の方を見てただろうに、先輩はまず契約か。帝国の人たち、同じ塔の魔術師だと思って頼むと、入口から躓くぞ。
「向こうで喧嘩しないでくださいよ」
「お前に言われたくねえよ。宮廷を辞めるついでに国家間契約を吹っ飛ばした奴が」
「吹っ飛ばしたのは第二皇子です」
「その場にいたのはお前だろ」
その場にいたら俺のせいなのかよ。
「それから、家へ着いたら連絡しろ」
「支部から送ります」
「森へ入る時もだ。帰った時も送れ。長く音沙汰がなけりゃ、こっちから確認を出す」
「帝国にいるのに?」
「連絡くらいできる。俺じゃなくても本部がやる」
マルチェロはそう言い、ハーディの肩を一度叩いた。
「じゃあな。土産渡す前に仕事すんなよ」
「しませんよ」
「家族の顔を見て、飯食って、寝てから調査へ行け」
「分かってますよ」
「お前のお袋さんにも同じこと書かれてただろ」
母さんの分まで言われてる気がするな。少しうるさいけど、悪い気はしないか。
ハーディは背負い袋の紐を締め、門を抜けた。石畳の先には朝露の残る畑が広がり、北へ向かう街道が低い丘の向こうへ続いている。歩き始めると、短杖の先が外套の裾へ軽く触れた。
振り返れば、マルチェロが片手を上げている。その背後には古塔がそびえ、朝日に照らされた石壁の上を鳥の群れが回っている。
ハーディも手を上げてから、前を向いた。遠い山並みの上には、まだ雪の白さが見える。
今度はあの道で、もらった杖も試せるな。
三年前、帝国へ向かった時は、決められた場所へ行き、決められた部屋で働くための旅だった。
今回は故郷までの道そのものが巡回になる。海沿いのベルメール、三年暮らした帝都、新しい港町、かつて国境を支えた市場都市。その先にも、森の近くの村や地図でしか知らない国があるのだと考えると、自然に頬が緩んだ。
街道を行く荷車の軋み、畑の柵に絡む見慣れない蔓、道標に刻まれた古い文字。歩いていると、窓からなら通り過ぎるものまで目に入る。
全部確かめてたら、最初の宿場にも着かないな。
気になった蔓の葉を一枚だけ手帳へ挟み、ハーディは歩調を戻した。
調べるのは休憩の時でいいか。宿の煮込みは食べ損ねたくないし。




