第6話 次の帝国担当は先輩らしい
休養期間の三日目、ハーディは二度目の朝の鐘で目を覚ました。
窓の外はよく晴れている。薄い雲が古塔の向こうへ流れ、開けた窓から乾いた風が入ってくる。街路では店の鎧戸が上がり、荷車の車輪が石畳をゆっくり鳴らしている。
最初の鐘も聞いた気がするけど、起きる理由もなかったし。聞かなかったことにしておこう。
寝台から出て顔を洗い、昨日買ったパンを窓辺で食べた。蜂蜜を塗り、温め直さずそのままかじった。
帝国宮廷の朝なら、既に一件目の相談が届いていた時間だが、今朝届いたのは、扉の下から差し込まれた食堂の献立表だけだった。
「昼は魚か」
悪くないな。
事情聴取を終えた日には、マルチェロと焼き菓子を食べ、翌日は昔使っていた講義棟を見て回って、初等課程の教師へ顔を出した。
教師は灰色の短い髪を耳へ掛け、焦茶色の長衣の袖を肘までまくった小柄な女性である。六年前より目元の皺は増えていたが、墨の付いた指を腰へ当ててハーディの背を見上げる姿は変わらず、再会の挨拶より先に聞いた。
「版図外で固有魔術へ逃げる癖は直ったの?」
直っていないと答えると、三年前と同じように眉を寄せ、長くため息をつかれた。
午後は街の共同浴場へ行った。浴槽へ首まで浸かり、明るいうちから湯上がりの果実水を飲んだ。
休暇って、やってみれば難しくないな。
今日は書庫で旅行記を探すつもりだった。帝国にいた三年間で新しく入った本もあるだろう。昼まで読んで、魚を食べ、その後はまだ決めていない。
外套を羽織ったところで、扉が二度叩かれた。
「ハーディ、起きてるか」
マルチェロの声だ。
「今起きたところです」
「そうか。休んでるところ悪いが、昼前に管理棟へ来い」
「何かあったんですか」
「帝国が頭を下げ直した」
扉の向こうで、楽しそうに言った。
◇
管理棟へ向かう頃には、日差しが石畳を白く照らしている。
古塔の周囲には、講義を終えた学生たちが広がっている。木陰で術式板を見せ合う者、工房前の露店で飲み物を買う者、階段へ座り込んでパンを分ける者。それぞれの長衣の色と徽章で、所属する課程や研究室が分かった。
噴水の縁では、小さな風の術式が水滴を持ち上げている。水滴は一度丸くまとまったものの、次の瞬間には術者の顔へ戻った。周りの学生が笑い、濡れた本人が術式板で顔を隠す。
ハーディはつい首を傾けた。水滴が崩れる直前、術式板の右端だけが強く光った。そばの教師も同じ箇所を指している。
風を止める順番が逆なのかな。そこを先に落とすと、どうなるんだろう。
次の試みに目を向けたところで、管理棟の時計が目に入った。
……見学してる場合じゃなかった。
ハーディは階段へ向かった。
三階の会議室には、既にマルチェロとリヴィア・オルシーニがいる。
先日の事情聴取に使った部屋より小さい。窓際に丸机が一つあり、その上へ帝国と塔の紋章が入った書簡、古い派遣契約の写し、数枚の地図が広げられている。
窓からは街の北側が見える。赤い瓦屋根の先に、大禍の山の峰が薄青く連なっている。晴れていても、最も高い峰には白い雪が残っている。
「座ってください」
リヴィアが向かいの椅子を示した。
マルチェロは既にくつろいでいる。背もたれへ身体を預け、帝国の封蝋を指で転がしている。
「帝国から、新しい派遣契約について正式な協議の申し入れがありました」
「早かったですね」
「皇権代理杖による破棄を有効と認め、その上で改めて契約を結びたいとのことです。皇帝名義の謝罪文も届いています」
リヴィアが書簡をハーディの方へ回した。
厚い紙には整った文字で、第二皇子へ代理権を与えた皇帝自身の責任、監督役を務めた魔法大臣の失態、塔との関係を一方的に断ったことへの謝罪、各国と同じ形式で一から協議を始めたいという要請が並んでいる。なかったことにはしておらず、その点は、ハーディが帝都を出る前に予想した通りだった。
「辺境については?」
「エレナ・アルヴェイン嬢を逃亡犯として扱わないこと、犯罪の嫌疑を正式に調査すること、辺境へ別途使者を出したことが添えられています」
「エレナたちの居場所は」
「塔では把握していません。少なくとも帝国に拘束されたという連絡はない」
書簡の端を押さえていたハーディの指から力が抜けた。
それなら大丈夫か。リーネがいれば、追手がいても先に気付くだろうし、追いつかせないだろう。追いついたら、無事に帰れないのは追手の方だ。お互いのためにも、追いつかないでほしいな。
「それで、塔は再契約するんですか」
「協議には応じます」
リヴィアは契約書の写しを指で押さえた。
「塔にとっても、帝国との連絡窓口を失ったままにする利益はありません。ただし、以前と同じ契約をそのまま戻すつもりもありません」
「所掌を明確にする」
「それも一つです」
帝国で返した温水器や保温器の記録を思い出した。
緊急の魔法事案、高度な術式への助言、塔との連絡。それが本来の派遣者の仕事だ。宮殿設備の日常点検や、帝国の部署だけで終わる鑑定まで引き受ける契約ではない。
「それから、次の派遣者は帝国出身者にしません」
リヴィアが続けた。
「前回、塔は帝国への配慮として、帝国の言語、慣習、社会を知るあなたを送りました。その配慮がどう扱われたかは、今回の協議で明確にしておく必要があります」
ハーディは隣を見た。
マルチェロが封蝋を机へ置き、にやりと笑う。
「次の帝国担当、俺だってよ」
「先輩が?」
「嫌そうな顔すんな」
「してませんよ。帝国の人たちが大変そうだと思っただけです」
「お前より親切にしてやるよ。仕事の持ち主を一件ずつ調べて、全部返してやる」
それは多分、親切とは言わないな。必要ではあるけど。
「マルチェロは半島都市国家の出身で、領主家の第四子です」
リヴィアが言った。
「帝国の事情に詳しくない者を送る、という意味ではありません。派遣先で職務の境界を明確にし、必要な時には交渉できる者を選びます」
「まだ決定じゃねえけどな」
マルチェロは机上の契約書を指で弾いた。
「条件を飲まなきゃ、俺は行かない。向こうも、それくらいは分かってるだろ」
「俺から引き継ぐものはありますか」
「正規の所掌だけ、後日確認します」
リヴィアの返事は早かった。
「宮殿設備の不具合一覧は、帝国の営繕局へ返却済みです。あなたからマルチェロへ渡す必要はありません」
「それなら、魔力観測の記録と、宮廷の術式で変わった箇所ですね。俺の控えもあります」
「そっちをくれ。変な揺れ方してた所には、お前、印付けてるだろ」
マルチェロが身を乗り出した。
「西の観測台です。雨の翌日だけ値がずれるので、地下の水路と比べました」
「分かった。それは後で詳しく聞く」
あっちは面白かったな。保温器の点検表より、話したいこともずっと多い。
◇
「ここからが、あなたの話です」
リヴィアは帝国の書簡を脇へ寄せ、机の中央へ別の地図を広げた。
半島と大禍の山。西に帝国。そのさらに西南にヴァレーヌ辺境伯領。南には広い魔の森。海を隔てた島々まで、一枚に収められている。
「休養期間の後、すぐ別の宮廷へ固定派遣する予定はありません」
「はい」
「代わりに、巡回視察を考えています」
「各地の術式や魔物を、現地で見られるんですか」
ハーディは机へ少し身を寄せた。
「各地の支部、協力する魔術師、都市国家を訪ね、魔法環境と最近の異常を確認する任務です。新しい術式、固有魔術、魔物、ダンジョン、アルカナ魔術が不安定な地域。現地でしか分からない情報を集め、本部へ報告してもらいます」
図だけ見てた魔法も、実物を見られるのか。使ってる人に聞けるし、場所を変えて試せる。……この地図だけで、もう三箇所行きたいんだけど。
「期限は?」
「当面は定めません。ただし、各地の支部へ着くたびに報告し、支部へ着かない期間も、最寄りの連絡所か協力拠点から少なくとも月に一度は本部へ連絡してください。現在地、引き受けた依頼、現地の担当者、未処理の問題を記載すること。本部にも確認担当を置き、職務範囲の判断や必要な支援を返します」
「帝国にいた時には、ありませんでしたね」
リヴィアは地図から目を上げ、ハーディを正面から見た。
「ええ。塔側の反省点です。現地で判断に迷う案件があれば、本部も一緒に検討します」
「新しい術式を見つけた場合も?」
「報告してください。関連資料や、詳しい研究者を紹介できます」
それはありがたいな。帝国じゃ、誰に聞けばいいか調べるところからだったし。
「旅費は出ますか」
「規定内で」
「経路は?」
「本部から優先地域は示しますが、細かい道順は任せます。旅の途中で興味のある土地へ寄っても構いません」
海沿いの都市国家、半島南部の森、島々、皇国へ続く道。地図の端にある支部では、風だけで船の向きを変える術式を使うと旅行記にあった。
あれも見たいな。次もどこかの宮廷かと思ってたけど、ずいぶん話が変わったぞ。悪くない。というか、かなりいい。
「最初の優先地域は、ヴァレーヌ辺境伯領です」
リヴィアの指が、地図の西南へ置かれた。
そこは大禍の森の北側にある、ハーディの生まれた土地だ。
「魔物の目撃数が増えています。辺境側は既に異常発生の可能性を疑い、森とダンジョン周辺の調査を始めています。塔にも情報提供の依頼が来ました」
「里帰りを兼ねていいんですか」
「むしろ、帰ってきてください。あなたは十歳で故郷を離れてから、一度も正式な帰省をしていないでしょう」
「はい」
故郷を離れて六年になる。手紙は出し、家族からも届いたし、辺境の者が塔や帝都へ来た時には伝言や荷物を受け取ることもあった。それでも、自分の家へ帰ったことはない。
「休養期間を終えてから、巡回視察を兼ねて向かってください。ベルメール、帝都ヴァルディエ、サン=ロシェ、モンテールを経由する道なら、各地の支部にも寄れます。ヴァレーヌへ着いた後は、家族と過ごす時間を優先して構いません。森の調査は辺境側と日程を合わせてください」
「分かりました」
返事はすぐに出た。久しぶりに父と母へ会い、家がどう変わったかも見られる。エレナとリーネが先に戻っていれば、夜会の後にどう逃げたのかも聞ける。
森の様子はその後だな。まずは家に帰ろう。
「嬉しそうだな」
マルチェロが言った。
「六年ぶりですから」
「そういや、お前が塔へ来た頃は十歳か」
「先輩も十七歳でした」
「今と大して変わらねえな」
「かなり変わってますよ」
主に口調がね。遠慮がなくなったんだよな。
「正式な任命は、休養期間の終了時に行います」
リヴィアが地図を畳んだ。
「それまでは休養期間です。必要な旅具は支給一覧から選んでください」
「測定器は、小さいものも借りられますか。山道で魔力の変わり方を記録したいので」
「工房へ確認しておきます」
「土産の入る場所も空けとけよ」
マルチェロが横から言った。
「そっちが先です。母の分を忘れたら、測定器の説明どころじゃないので」
◇
会議を終えて管理棟を出ると、昼の鐘が鳴った。
噴水の周りにいる学生たちが、一斉に食堂の方へ動き始める。風の術式を失敗した学生は、髪を半分濡らしたまま友人に笑われている。
空は朝より青く、大禍の山の輪郭もはっきりしている。その向こうに帝国があり、マルチェロは近いうちに帝都ヴァルディエへ向かう。ハーディもいずれ同じ帝都を通るが、まずは港町ベルメールへ出て、幾つかの都市を巡りながら西南の故郷を目指すことになる。
「先輩」
「何だ」
「帝都の食堂で、料理長が休みの日は魚の香草焼きを避けた方がいいです」
「まずいのか」
「代わりの人が塩漬けの香草を使うのに、普段と同じ量の塩も振ります」
「誰か教えてやれよ」
「二度言いました。昔からこの作り方だそうです」
「じゃあ避けるわ」
「これは正規の引き継ぎですか?」
ハーディが尋ねると、マルチェロは少し考えた。
「生活上、重要だから採用」
所掌かどうかは知らないけど、あの塩加減は先に聞いておいた方がいいだろ。食べてから水差しを探しても遅いし。
二人は学生の流れへ混じり、食堂へ向かった。
ハーディの休養期間はまだ残っている。昼食の後は書庫へ行き、ベルメールからヴァルディエ、サン=ロシェ、モンテールを経て故郷へ至る道を調べるつもりだ。出発を急ぐ必要はないが、行き先だけはもう決まっている。




