第5話 起きなかったことも報告してください
翌朝、ハーディは鐘が鳴る少し前に目を覚ました。
帰任者棟の天井は、昨夜見た通りの白い漆喰だ。窓の隙間から細い朝日が差し、椅子へ掛けた外套の裾まで届いている。
身体を起こすと、遠くで鳥が鳴いた。扉を叩く音も、廊下を走る足音もなく、魔導具の不具合を知らせる呼び鈴も当然ながら置かれていない。まだ鐘の前である。
「もう少し寝られるな」
ハーディは毛布を引き上げた。
次に目を開けた時には鐘が鳴り終わり、廊下を歩く人の声がしている。事情聴取は朝食後なので、指定された時刻までは十分に余裕がある。
急いで起きなくていい朝って、いいな。
◇
夜の中央食堂は賑やかだったが、朝は人の流れが速い。
開いた高窓から冷たい風と日差しが入り、長机の表面へ明るい四角を作っている。研究者は片手で書類を読みながらパンを食べ、学生たちは講義の開始時刻を気にして粥をかき込んでいる。配膳口では、焼きたてのパンを載せた籠が次々に運ばれている。
ハーディは豆のスープと卵、蜂蜜を薄く塗ったパンを盆へ載せた。
帝国宮廷の朝食より簡素だが、自分で量を決められる。果物を一つ追加しても、給仕から「次の皿がございます」と止められないため、ハーディは窓際の席へ座り、途中で誰にも呼ばれることなく最後まで食べた。
それだけで少し得をした気分になった。
食堂を出る頃には、朝の冷たさが薄れている。昨夜は暗くて色の分からなかった花壇に、青と白の小さな花が咲いている。管理棟へ続く石畳では、箒を持った作業員が落ち葉を集めている。
ハーディは古塔の頂を見上げた。晴れた空を背景にすると、石壁の欠けや細い窓までよく見える。周囲の新しい建物より高いが、実際に使われる部屋は多くなく、象徴、資料庫、古い儀式の場という役割が主である。初めて来た十歳の頃には、あの中で偉い魔術師が一日中魔法を使っていると思っていたが、実際には、地位の高い魔術師ほど管理棟で書類を読んでいる。
今日は俺も、あっちの仲間入りか。
◇
事情聴取は管理棟三階の会議室で行われた。
部屋は長方形で、中央に濃い色の長机が置かれている。南向きの窓から古塔と中庭が見え、壁際には記録用の書架と水差しが並んでいる。
華美な装飾はなく、人を脅すためではなく、話を聞いて記録するための部屋だ。
それでも、机の向こうに三人並んでいると少し入りづらい。
中央に座るのは、塔の対外派遣を取りまとめるリヴィア・オルシーニ。銀の混じった黒髪を隙なく後ろで束ねた四十代半ばの女性で、細い銀縁の眼鏡の奥から、黒い目を静かにこちらへ向けている。背筋は椅子の背に触れないほどまっすぐで、飾りのない濃灰色の長衣にも皺がなく、ハーディを帝国へ送る前の面談にいた時とほとんど変わらない。
右には監査部門の老魔術師が座っている。薄くなった白髪と骨張った頬を持つ男で、褐色の指には長年使った術式墨が染み込んでいる。左の記録官は三十歳ほどの女性で、赤褐色の髪を顎の辺りで切り揃え、既に白紙の束へ日付と出席者を書き込んでいた。
マルチェロの姿はない。
代わりに扉の外で、「聞かれたことへ順番に答えろよ。枚数の話はするな」と念を押された。それから彼は「俺まで呼ばれてねえから」と笑って階段を下りていった。
「座ってください、ハーディ」
リヴィアに促され、向かいの椅子へ腰を下ろした。
机の上には、帝都で書いた六枚の報告書が置かれている。端が揃えられ、補足二枚には別の色の印が付いている。
「これは処罰を前提とする審問ではありません」
リヴィアは眼鏡越しにハーディを見た。
「帝国との派遣契約終了に至った経緯を確認し、塔としての対応を決めるための事情聴取です。記憶にないことは、ないと答えてください。推測は推測と分けること」
「分かりました」
「まず、夜会へ出席した理由から」
「仕事が終わった時に音楽が聞こえたので、夕食を食べに行きました」
記録官のペンが止まった。
リヴィアが報告書を見る。
「招待を受けていたのではなく?」
「宮廷徽章があれば入れました。料理も余っていました」
「……続けてください」
最初からという指示なので、ハーディは西回廊の魔導灯を直したことから話した。料理卓の端にいたこと、第二皇子がエレナへ犯罪の嫌疑を告げて婚約を破棄したこと、そして皇権代理杖が一度鳴ったことまでを、起きた順に説明していく。
「婚約破棄の宣言には介入しなかったのですね」
監査の老魔術師が尋ねた。
「はい」
「エレナ・アルヴェイン嬢とは親族で、幼馴染でもある」
「そうです」
「それでも?」
「婚約は皇帝陛下と辺境伯が決めた政治上の話です。破棄されれば大きな問題にはなりますが、エレナ自身が拘束されるわけではありません。俺が夜会の中央で口を挟んでも、話が余計に増えます」
そもそも、もっと静かな場所でやってほしかったな。魔術師が口を出す話じゃないけど。
記録官のペンが紙を走る。窓の外では、初等課程の子供たちが中庭を横切っている。教師を先頭に二列で歩き、昨日見かけた灰色の服が朝日に明るく見える。
「状況が変わったのは、いつですか」
リヴィアが尋ねた。
「殿下が、エレナを調査なしで収監すると宣言しようとした時です」
「その時点では、宣言は成立していない」
「はい。杖へ魔力を流していましたが、内容を言い終えていません。石突も床へ打っていませんでした」
「なぜ止める必要があると判断しましたか」
昨日、マルチェロに聞かれたところだ。今度は紙の枚数を考えず、ハーディは順番に話した。
「命令が成立すれば、エレナは正式な皇命で拘束されます。でも、本人は従わなかったと思います」
「根拠は?」
「指に雷が出ていました」
老魔術師が眉を上げた。
「感情的な比喩ではなく?」
「本物です。エレナの固有魔術です」
「威力は」
どこから説明するべきか考えた。
「宮殿の正門なら壊せます」
記録官のペンが、また止まった。
「そしてリーネ・フェルナーが一緒にいました。あいつは身体強化を使います」
「二人で宮殿から脱出できると?」
「近衛が殺さずに捕らえようとするなら、かなり高い確率で」
「近衛側の被害は」
「二人も殺すつもりはなかったはずです。ただ、壁や床に埋まる人は出たかもしれません」
老魔術師が咳払いをした。
リヴィアは表情を変えず、先を促した。
「正式な収監命令の後に二人が実力で脱出すれば、皇命への武力抵抗になります。辺境が二人を保護すれば、辺境伯家も皇命に逆らった形へ持っていかれる。旧貴族派が軍の派遣を求め、辺境側がそれに備えれば、悪くすると衝突します」
「そこまでを、あの短時間に考えたのですか」
「細かい順番までは。でも、拘束命令を成立させたらまずいことは分かりました」
婚約破棄なら政治上の危機で済むが、正式な命令を受けた後の武力脱出となれば、軍が動く理由になる。そこまで結果が違えば、考える時間はそれほど必要ない。
リヴィアは報告書の一頁をめくった。
「この可能性が、提出された報告書にはありません」
「起きなかったので」
「あなたが食い止めたから、起きなかったのです」
昨日と同じ話だ。こっちは言い方が丁寧だけど。
「はい」
「報告書には、行動の理由と判断材料も必要です。次から気を付けてください」
次か。皇子が国同士の契約を切るような次は、来なくていいんだけどな。
「あなたは二人へ、退出するよう合図を送った」
「はい。子供の頃、森で使っていた合図です」
「その時点で、エレナ嬢への退去禁止命令は?」
「ありません」
「拘束命令は?」
「成立していません」
「あなた自身が二人の脱出を助けたり、衛兵を妨害したりしましたか」
「していません。殿下と魔法大臣へ、魔術犯罪には調査が必要だと話しました」
リヴィアが老魔術師を見る。老魔術師は手元の紙へ短く何か書き、首を横へ振った。
「現時点で、塔の規則に反する行為は確認できません」
処分なし、と聞こえたが、まだ話は終わっていなかった。
「次に、帝国と塔の派遣契約が破棄された経緯です」
ここは短い。第二皇子は、ハーディが塔の魔術師として辺境を庇っていると受け取り、魔法大臣が別問題だと止めても、皇権代理杖を使った。そして、石突が床へ落ちた。
「カン、と鳴りました」
「音の説明は報告書にもあります」
リヴィアの声が少しだけ低くなった。
「その宣言を誘導しましたか」
「していません」
「予測していましたか」
「苦情が塔へ行けば、帝国担当を外されるかもしれないとは途中で思いました」
「それは、エレナ嬢の拘束を止める前ですか、後ですか」
「止めに入った後です」
「派遣契約そのものが破棄される可能性は?」
「考えていませんでした」
本当に、そこまでやれとは言ってないんだよ。
リヴィアは眼鏡を外し、目頭を一度押さえた。
「第二皇子は、塔との契約を独断で破棄した。あなたはそれを要求も示唆もしていない。魔法大臣は制止した。確認は以上でよろしいですね」
「はい」
記録官が新しい紙へ移る。
「最後に、帝国での職務について確認します」
机へ別の書類が置かれた。貸与品の返却一覧、継続案件の一覧、帝国側へ返した業務の記録である。
「宮廷内の保温器、温水器、照明設備、魔術文書の簡易鑑定。これらは派遣契約の所掌に含まれていません」
「はい。帰任手続きの時、バルガスさんにも言われました」
「なぜ担当していたのですか」
「灯りの揺れ方とか、温水器の音とか、気になると原因を確かめたくなるので。分かったものは、担当を呼んで説明するより自分で直した方が早かったんです。放っておいて事故になれば、結局俺も呼ばれますし」
「依頼を本来の部署へ返す選択は?」
「返している間に直せるものが多かったです」
「その結果、依頼する側は、あなたの職務だと認識したのではありませんか」
ハーディは業務の一覧へ目を落とした。保温器一台を直した時には、厨房からの礼だけだった。二台目からは、故障すれば自分が呼ばれるようになっている。
「そうなりました。一回の修理を早く済ませることしか考えていませんでした」
直すのは早いんだよ。次も俺が直すことになるのは、もっと早かったけど。
「気になった点は伝えます。でも、次の点検まで俺がするかは別ですね」
「そうしてください」
リヴィアは書類を閉じかけ、手を止めた。
「塔も、あなたがどこからどれだけ依頼を受けているか、定期的に確かめるべきでした。十三歳で送り出した派遣者へ、現地での判断を任せすぎています。次の任務では、本部にも確認と支援の担当を置きます」
ハーディが顔を上げると、リヴィアは目を逸らさずに続けた。
「危険が迫っているのに、契約外だからと放置しろという意味ではありません。ただし、緊急対応と日常的な肩代わりは別です。塔の派遣者が他国の行政組織へ恒常的に入り込むことは、外交上も好ましくありません」
「分かりました」
「以上で事情聴取を終わります。現時点で、あなたを処分すべき行為は認められません」
これで正式に処分なしだと分かり、ハーディの肩から少し力が抜けた。
「今後については、帝国との協議が終わるまで待機です。宿舎と食堂は利用できます。通常の外出に制限はありません」
「休暇扱いですか」
「帰任後の休養期間として扱います」
「分かりました」
明日も朝寝ができるな。
ハーディは素直にうなずいた。
◇
会議室を出ると、廊下の窓から入る日差しはすっかり高くなっている。
中庭の子供たちはもういない。布をかぶせられた術式板も片付けられ、石床に撒かれた砂だけが白く残っている。
階段を下りると、玄関脇の長椅子にマルチェロが座っている。
足を組み、薄い本を片手で読んでいる。灰青色の外套は脱いで脇に置かれ、黒に近い髪が朝の間に少し崩れて額へ落ちていた。隣には紙袋が置かれ、甘い匂いがする。
「待ってたんですか」
「菓子を買いに行った帰りだ。ついでだよ、ついで」
昨日見た、値上がりしていた店の袋だ。
「処分は?」
「なしです」
マルチェロは本を支える指を緩めた。
「だろうな。報告不足で説教は?」
「ありました」
「だろうな」
マルチェロは本を閉じ、紙袋を持って立ち上がった。
「昼飯には少し早い。茶でも飲むか」
「休暇になりました」
「そりゃ結構」
「数日は確実だそうです」
「顔が明るくなったな」
「休めるなら休みますよ」
「知ってる。お前、面倒が追ってこない場所じゃ、普通に寝るからな」
二人で管理棟を出た。
正午前の日差しが石畳を白く照らし、朝より暖かくなった風が花壇を揺らしている。工房からは金属音、講義棟からは教師の声、食堂の方からは鍋を動かす音が聞こえる。
誰もハーディを呼ばず、今日はたとえ呼ばれても行く仕事がない。
結構なことじゃないか。
「その菓子、昨日より高くなってました」
「三年前より、だろ。昨日一日で値上がりしたみたいに言うな」
「一枚増えてました」
「お前が帝国で給金を貯めてる間に、こっちも色々あったんだよ」
マルチェロが紙袋を開く。丸い焼き菓子が三つ入っている。
「一つやる」
「ありがとうございます」
「その代わり、明日はお前が買え」
ハーディは焼き菓子を持ったまま、軽く肩をすくめた。
「休暇中なのに仕事が決まりました」
「菓子を買うのは仕事じゃねえ」
明日は俺の番か。
まだ温かい焼き菓子を一口かじると、縁は記憶より薄く、さくりと割れた。
焼き方も変えたのかな。値上がりの理由を聞くついでに、そっちも確かめよう。
ハーディはマルチェロと食堂とは反対の道へ歩き出した。




