第4話 帰任初日は登録と夕食だけです
塔の街へ入る頃には、古塔の背後へ日が沈みかけている。西の空は赤銅色で、その上へ薄紫の雲が細く伸び、夕日を背負った古塔は黒い影となって、東側の研究棟まで長く落ちている。
街道の両側には石造りの家と店が続き、開け放した工房から響く金槌の音に、熱した金属と炭の匂いが混じって流れてくる。向かいの薬材店では、店員が軒先の乾燥草を一束ずつ取り込み、仕事を終えたらしい塔員たちは、書類筒や道具箱を抱えて食堂や宿舎の方へ歩いていく。
三年前と同じ店もあれば、看板の変わった店もある。昔、同期と銅貨を出し合って焼き菓子を買った店は残っており、窓辺の籠には丸い菓子が積まれているが、値札だけは記憶より銅貨一枚分高い。
「値上がりしてる」
懐かしさより先に値段へ目が行った。
故郷は六年ぶりだし、もっと色々変わってるんだろうな。
歩いていくと、正面門の上で青白い光が一度またたいた。
そこは魔力を読む門で、人の背丈の三倍ほどある石柱が二本立ち、その間には扉も柵もない。代わりに、柱へ刻まれた幾重もの術式が、通る者の塔徽章と魔力を照合している。
ハーディが近づくと、右の柱を淡い光が上から下へ走った。
胸元の徽章がわずかに温かくなり、問題なく通れることを知らせた。三年間帝国にいても所属から外されたわけではない。当然のことだが、ハーディは少し安心した。
「待て」
通ろうとしたところで、門脇の詰所から声が飛んだ。
低い窓から、白髪交じりの短い髪をした男が顔を出している。太い眉と潰れた鼻、制服の肩を押し上げる厚い体つきには見覚えがあり、窓枠に置いた手も、昔と変わらず節が太い。
「徽章はちゃんと反応してますよ」
「見れば分かる。顔を見せてくれ」
ハーディが窓へ近づくと、男はランプを持ち上げた。橙色の光が目元を照らす。
「……ハーディか?」
「はい。お久しぶりです、ガレオさん」
「背が伸びたな。声も違う」
「三年経ちましたから」
門番のガレオは椅子から立ち、詰所の扉を開けた。向かい合うと、ハーディは男の顔へ少し目線を上げた。日に焼けた四角い顔には目尻の皺が増えている。
昔より腹回りも少し大きくなった気がする。
ガレオもハーディを頭から靴まで眺めた。
「帝国から戻るとは聞いていた。今週あたりだとな」
「ええ。山道で足止めもなくて、大体見込み通りです」
「雨に降られりゃ二、三日はずれるからな。無事に着いて何よりだ」
ガレオは詰所へ戻り、棚から木札を一枚出した。帰任者用の受付札だ。
「管理棟へ。日が暮れる前なら、まだ受付がいる」
「事情聴取は明日ですよね」
「その予定だ。今日は帰任の登録と寝床だけ決めろ」
「分かりました」
「それから」
ガレオが目を細めた。
「門の術式、気付いたか」
ハーディは右の石柱を見た。下から三段目の術線が、ほかより少し暗い。近づく途中にも気付いていたが、隣の術線が光を補っている。三年前にはなかった組み方だ。
「一箇所、薄くなっていますね」
「やっぱり分かるか。お前、十歳で来た初日にも同じことを報告しただろ」
「今も薄いなら、設備係へ伝えた方がいいですよ」
「もう修繕票を回してある。今夜直すそうだ」
「隣から補うように変えたんですね。前は一箇所薄くなると、その上も暗くなってました」
ガレオは柱を見上げ、口の端を上げた。
「そこまで見てたか。去年、工房が組み直した」
それなら書庫に図面もあるかな。帰って早々、見たいものが増えたぞ。
◇
正面門から管理棟までは、古塔を半周する。
石畳の中央を荷車が通り、研究棟から工房へ硝子器具の箱を運んでいる。箱の周囲には緩衝の術式が淡く光り、車輪が石の継ぎ目へ落ちても、中身はほとんど揺れない。
講義棟の前では、十歳ほどの子供たちが教師に追い立てられている。全員が同じ灰色の初等課程服を着て、両手に教材を抱えている。
「走らない! 術式板を落とした者は自分で直しなさい!」
聞き覚えのある叱り方だ。
ハーディも三年前までは、あちら側にいた。正確には、走っていた同期を止める側だった。術式板が割れる。教師が怒る。連帯責任で片付けをさせられる。その流れが見えていたからである。
十歳の頃から、やってることが変わってないな。
子供たちの一人がこちらを見て、胸元の徽章に気付いた。隣の子へ何か囁く。帝国帰りだと知っているわけではない。ただ、旅装の若い魔術師が珍しいのだろう。
ハーディが軽く手を上げると、こちらを見ていた子供も手を振り返しかけた。
その肩を教師が後ろから押し、列の進む方へ向け直す。隣で囁いていた子供も一緒に前を向かされ、二人は教材を抱え直して仲間たちの後を追った。
管理棟は古塔の東にある、四階建ての四角い建物である。装飾は少なく、正面の広い階段を人が絶えず上り下りしている。開いた窓から紙をめくる音と、誰かを呼ぶ声が漏れている。
玄関へ入ると、磨かれた床も、壁一面の案内板も、受付台の向こうに並ぶ書類棚も、三年前とほとんど変わっていない。変わったのは、受付台が以前より少し低く見えることだった。
「帰任の登録をお願いします」
木札と徽章を出した。
受付の女性は木札を見てから、ハーディの顔を見た。
「帝国派遣のハーディ?」
「はい」
「少し待って。帰任者の書類は……通常の棚じゃないわね」
女性は席を立ち、背後の棚を探し始めた。
まあ、通常じゃないよな。皇子が一晩で契約ごと消した帰任者なんて、そうそういないだろうし。専用の棚があっても、それはそれで心配だぞ、塔の外交。
待っている間に、受付台の端で小さな魔導灯が二度明滅した。
ハーディは明滅の間隔を二度数え、灯りから受付台の下へ視線を移した。供給線の接点だけが、灯りの消える直前に青く光る。
なるほど、そっちか。蓋を開ければ分かるんだけどな。帰任届も出してないのに、机の下へ潜るのはどうなんだ。
「この魔導灯、供給線か内部の術式がずれています。設備係に見てもらった方がいいですよ」
「ええ、さっきから調子が悪くて。連絡しておくわ」
「帰って早々、よく見てんな」
背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると、階段の下に一人の青年が立っている。
年は二十代前半で、ハーディより頭半分ほど背が高く、長衣の上からでも分かる体つきは細い。黒に近い茶色の髪を後ろへ撫でつけ、塔の長衣の上から灰青色の外套を羽織っている。旅装ではないが、腰には術具を収めた細い鞄があり、袖口から出た長い指には、消しきれない青い術式墨が残っている。
「マルチェロ先輩」
「三年ぶりでも、そういう光り方は見逃さねえのな」
「灯りが消える直前に、下の接点が光るんですよ。気になるじゃないですか」
マルチェロは受付台の下を一度見てから、ハーディへ目を戻した。
「原因が見えたら、自分でやった方が早いって顔だ」
「設備係へ伝えてもらいましたよ」
「聞こえてた。まず顔を見せろ」
マルチェロ・ヴァレンティは階段を下りてきた。
十歳で塔へ入った頃、生活棟の使い方から術式の組み方まで教えてくれた先輩である。あの頃は十七歳だった。今は二十三歳のはずだ。
三年ぶりでも、少し吊り上がった濃褐色の目も、遠慮のない口調も変わらない。
「久しぶりです」
「おう。久しぶりだな、ハーディ。でかくなりやがって」
マルチェロは返事をしてから、ハーディの両肩をつかんだ。一歩離した位置で、顔、胸元、腕、足元の順に眺める。
「で、怪我は?」
「ないですよ」
「呪いは。追跡術式は。変な契約印をくっつけられてねえだろうな」
「門は通れましたよ」
「門が見るのは敵意と徽章だ。何でも分かる便利な神様じゃねえよ」
そう言って、額へ指を当てられた。
細い魔力が皮膚から流れ込み、頭から足まで一度下りる。ハーディは動かず待った。
「よし。妙なもんはついてねえ」
「言ったじゃないですか」
「お前の『大丈夫』は、『帰り道には困りませんでした』くらいの意味だろうが。身体が無事かどうかは別に見る」
ひどい言われようだな。
反論しかけたところで、帝都で寝ずに引き継ぎをした夜を思い出した。ハーディは言いかけた言葉を飲み込んだ。
受付の女性が書類を抱えて戻ってきた。二人の間に置き、欄を指で示す。
「所属、氏名、帰着時刻。帝国の契約終了は本部で確認済みだから、派遣終了欄は記入しなくていいわ。宿泊は帰任者棟の三階、十二号室」
「以前の部屋ではないんですね」
「初等課程の部屋へ戻りたい?」
灰色の服を着た子供たちと同室になるところを想像した。
「十二号室でお願いします」
署名を終えると、受付の女性は木札と引き換えに真鍮の鍵を渡した。
その横で魔導灯がまた一度明滅し、ハーディとマルチェロは同時にそちらを見た。
「設備係へは今、連絡を入れたわ」
受付の女性が言い、ハーディはうなずいた。不調を伝えた以上、あとは設備係の仕事だ。
「ほら、行くぞ」
マルチェロがハーディの背中を押す。
「どこへ?」
「まず荷物を置く。腹が減ってるなら、その後で食堂だ」
◇
帰任者棟へ荷物を置いた後、二人は中央食堂へ向かった。
空はもう暗く、古塔の頂部には誘導灯が青く灯っている。研究棟の窓にも明かりが残り、開いた窓から薬液を煮る甘苦い匂いが流れてくる。石畳を横切る水路では、魔導灯の光が細かく揺れている。
中央食堂は、夕食の終わり際でも騒がしい。
高い天井の下に長机が何列も並び、研究者、工房員、学生、事務員が入り混じって座っている。食器の触れ合う音と話し声が重なり、奥の配膳口からは焼いた鶏と豆の煮込みの匂いが漂っている。
マルチェロは二人分の盆を受け取り、壁際の席へ向かった。
ハーディの盆には、黒パン、豆と肉の煮込み、葉野菜、焼いた白身魚が載っている。帝都の祝宴料理ほど品数は多くないが、こちらの方が落ち着いた。
「さて、と」
向かいへ座ったマルチェロが、パンを割った。
「吐け。どうやったら婚約破棄を止めに入って、帝国と塔の契約まで消える?」
「報告、来てないんですか」
「届いたさ。第二皇子が皇権代理杖で契約をぶった切りました、とな」
「そこに書いた通りですよ」
「で、理由の欄には『辺境伯令嬢の拘束を止めたところ、話が大きくなった』。お前な、三年間で報告書の書き方をどこへ捨ててきた?」
「必要なことは書いたつもりです」
マルチェロはちぎったパンを持ったまま黙った。
「一応聞くが、嘘は書いてねえんだよな?」
「書いてませんよ」
「だろうな。間違ってないのに何一つ分からん。妙な才能を身につけやがった」
「バルガスさんにも同じことを言われましたよ」
「明日の事情聴取じゃ、聞かれたことに最初から順番に答えろよ。『杖が二回鳴りました。以上』で済ませたら、俺が横から話を増やす」
「補足を二枚付けました」
「国同士の契約が吹っ飛んで六枚。ずいぶん紙に優しい事件だな、おい」
ハーディは煮込みの豆をすくった。
俺としては、かなり詳しく書いたつもりなんだけどな。
「エレナたちを止めなかったら、もっと長くなってましたよ」
「何が長くなるって?」
「報告書が」
内戦まで行ったら十枚じゃ済まないぞ。それを六枚で終わらせたんだから、成果じゃないか。
マルチェロは眉間を指で押さえ、そのまましばらく黙ってから、ゆっくり顔を上げた。
「お前が食い止めた可能性を書けって言ってんだよ、馬鹿」
「起きてないですけど」
「起きる前に止めたからだろうが」
マルチェロは持っていたパンを盆へ置いた。
「収監命令が成立していたら、エレナ嬢とリーネはどうした」
「多分、宮殿から出てます」
「歩いてか?」
「近衛が止めるなら、何人か壁に埋まってます」
「そこから先は」
「皇命への武力抵抗になります。辺境が二人を保護すれば、辺境伯家も命令に逆らった形にされる可能性がある。旧貴族派が軍の派遣を主張して、辺境側も備える。悪ければ衝突します」
「それだよ!」
マルチェロの声に、隣の机の学生が振り返った。彼は片手を上げて何でもないと示し、声を少し落とす。
「婚約が破棄されました。拘束は成立しませんでした。二人は帰りました。これだけ読んだら、お前が皇子の前へ出た意味が分からねえだろ」
「聞かれたら説明しますよ」
「報告書は、お前が横にいない時にも読まれるんだよ。むしろ、いない時に読まれるために書くんだ」
ハーディは豆の煮込みへ目を落とした。頭の中では、殿内をどう抜けて二人を逃がすかまで組み立てていたが、書く時には結果だけで済ませてしまっている。
あの場にいた俺には分かるけど、読む人はいなかったんだよな。バルガスにも言われたのに、まだそこが抜けてる。
「何枚くらい必要です?」
「今さら書くな」
予想と違う言葉が返ってきたため、ハーディは顔を上げた。
「書かなくていいんですか」
「明日、事情聴取で話せ。収監命令が成立した場合に何が起きたか、お前が何を避けようとしたか、今みたいに最初から順番にな」
「報告書は足りないままですけど」
「だから事情聴取をするんだろうが。今から六枚を十二枚に増やして、徹夜で持ってこられる方が迷惑だ」
朝までには書けるけど、言ったら本当にやることになるな。
ハーディは黙っておいた。
「分かったら今日は食って寝ろ。紙に触るな」
「はい」
帰ってきた翌日の仕事はまだ決まっていないが、少なくとも今夜、報告書が増えることはないらしい。
「三年で、面倒を報告書の枚数に換算する癖だけは立派になったな」
「宮廷じゃ役に立ったんですよ」
「それで役に立ちすぎて、最後は派遣契約ごと消したのか。豪快になったじゃねえか」
「そこまでは予定に入ってなかったです」
むしろ、それが一番予定になかったんだよ。
近くの机で椅子が引かれ、食事を終えた学生たちが立ち上がると、空いた窓から夜風が入り、食堂の熱気を少しだけ薄めた。
マルチェロはしばらくハーディを見ていたが、やがて息を吐いた。
「まあいいや。手足も揃って帰ってきた。それで十分だ」
「明日の事情聴取が終わったら、次の任地って分かります?」
「は? 次?」
「研究室とか、別の派遣先とか。山の調査でも。遠出なら荷物を解かない方が楽でしょう」
言うほど、マルチェロの顔が険しくなる。
「お前、今着いたばっかりだろ。もう荷造りの心配してんのかよ」
「明日より後の話ですよ」
「三年間、休暇はちゃんと取ってたのか?」
「規定分は。帝国の祝祭日と、月の休みです」
「休みの日は何してた」
「本を読んだり、街で食べたり。呼ばれた時は行きましたけど」
「最後の一言がなけりゃ安心できたんだがな。まあ、毎回じゃねえならいい」
毎回呼ばれたわけじゃないぞ。書店も菓子屋も十分回ったし、あれまで仕事扱いされたら困る。
ハーディは魚を一口食べた。表面は香草と塩で焼かれ、中はまだ柔らかい。
「本部は今、帝国と面倒な話し合いの真っ最中だ」
マルチェロが声を少し落とした。
「契約を結び直すにしたって、前と同じ条件にはならねえ。誰を放り込むかも決まってない。その横で、お前の次の仕事だけ先に用意するほど本部も暇じゃねえよ」
「じゃあ、事情聴取の後は?」
「当面は待機。次が決まるまで休みだ」
「どのくらいです?」
「さあな。帝国との話次第だが、数日は確実だろ」
「じゃあ明日は、事情聴取が終わったら街へ出ます」
「おう。街も三年で変わってるぞ。昔の教師にも顔を見せとけ」
数日あるなら朝寝もできるな。あの焼き菓子も買おう。知らない店も増えてるだろうし、明日の午後だけじゃ足りないか。
「書庫にも寄ります。門の新しい図面を見たいので」
マルチェロは呆れたように笑った。
「休みの予定に図面を入れるところは変わらねえな」
「気になるんですよ。あと、焼き菓子も買います」
◇
食堂を出ると、夜空には星が出ている。
古塔の石壁は誘導灯を受け、輪郭だけ青白く浮かんでいる。その周りを囲む新しい建物では、まだ幾つもの窓が明るい。どこかの工房から規則正しい槌音が聞こえ、書庫の前を本の束が台車で運ばれていく。
塔は眠らない、っていうか、誰かが勝手に起きてるだけなんだよな。
「先輩」
「何だ」
「北の工房、まだ槌が鳴ってます。あれ、固定具が緩んでる音じゃないですか」
「俺にも耳はある。今夜、設備班が交換してる」
「修理中だったんですか」
「なら平気ですね」
「そういうことだ。ほら、行くぞ」
ハーディは工房の明るい窓へ目を向けた。
交換するなら、新しい固定具は何を使うんだろう。今聞いたら邪魔だし、明日、図面を見るついででいいか。
マルチェロと並んで帰任者棟へ向かった。
帰任者棟の三階、十二号室は、寝台と机と衣装箱だけの小さな部屋である。窓を開けると、夜の街と古塔が見える。風がカーテンを膨らませ、遠くから食堂を片付ける食器の音が届く。
ハーディは背負い袋を床へ置いた。帝都の連絡所、大禍の山際の宿場、徒歩の旅人たちと泊まった山小屋と、何日も違う天井を見てきたが、今夜見上げるのは塔の宿舎で昔から使われている白い漆喰だ。寝台へ腰を下ろすと、思った以上に身体が沈んだ。
明日は事情聴取があり、それが終われば、しばらく休みになる。朝寝をして、焼き菓子を買い、昔の教師にも顔を見せるつもりで考えていくと、明日の午後から何をするか、予定が幾つかできた。
「……とりあえず、今日は寝るか」
窓の外では工房の槌音がまだ続いている。
新しい固定具は明日見せてもらおう。今は寝台の方がいいな。
ハーディは窓を閉め、外套を椅子へ掛けた。
塔へ帰った最初の夜は、久しぶりに呼び出しの心配をせず眠れそうだ。




