第3話 帰任
朝の帝都には、昨夜の騒ぎなどなかったように鐘が鳴っている。白い石壁の間へ日が差し、坂の下には青い海が見え、商人は店の鎧戸を上げ、荷車は港へ向かっている。
宮廷の契約が一つ消えても、街は普通に朝になるんだな。
ハーディは塔の帝都連絡所、その二階の小部屋で目を覚ました。
昨夜は第一報を送り、空いていた寝台を借りた。服を着たまま横になったため、暗い青緑の長衣は肩の辺りにしわが寄り、短い灰褐色の髪も右側だけ寝具に押されている。顔を洗って食堂へ下りるつもりだったが、その前に連絡所の責任者から呼び出された。
◇
「……もう一度聞くぞ」
机の向こうで、中年の魔術師が額を押さえている。帝都連絡所を預かるバルガスは、背丈こそ小柄なハーディと大きく変わらないが、長年の外勤で首と肩に厚みがある。日に焼けた四角い顔を短い髭が囲み、焦げ茶色の髪には耳の上から白いものが混じり始めていた。朝食の途中だったらしく、机の端には半分齧られた黒パンと、湯気の消えた茶が置かれている。
「第二皇子殿下が、エレナ嬢との婚約を破棄した」
「はい」
「その後、拘束しようとした」
「正式命令になる前に止めました」
「なぜお前が止めた」
ハーディは少し考えた。昨夜の殿内を思い出した。
「正式な拘束命令が下った後で、二人が力ずくで暴れれば、皇命に背いたことになりますから」
「暴れるのか」
「エレナとリーネですよ」
バルガスは口を閉じた。二人の実力を知っている者にはそれで足りる。エレナ一人でも近衛を抜けられ、リーネまで付けば、止める側の被害を心配するべきだ。
「出なければ、自分たちの意思で帰るだけです。出た後では、辺境まで巻き込まれます」
「それを避けるために、お前が殿下の命令を止めた」
「はい」
「それで殿下が腹を立てた」
「多分」
「その結果、帝国宮廷への魔術師派遣契約が、皇権代理杖による正式な宣言で打ち切られた」
「はい」
「……なんでそうなる?」
「なんででしょうね」
俺に聞かれてもな。そこまでやるとは思わないだろ。
ハーディの予想では、皇子が怒り、魔法大臣が塔へ苦情を書き、塔が事情を聞いた後で担当が替わるはずだった。
皇子が怒るところまでは合ってたんだけどな。その後が全部おかしい。エレナたちを出して、ついでに俺も担当を外れられたら、そのくらいでよかったんだよ。
「杖は確かに鳴ったんだな」
「ちゃんと鳴りました」
「聞きたくなかったな、その情報」
「俺は、契約を打ち切る宣言の方を聞きたくなかったです」
カン、という音は今も耳に残っている。
バルガスはしばらく天井を見た後、深いため息をついた。
「もし二人に何かあれば、お前も加勢する気だったのか」
「大っぴらにはしません」
「しないとは言わないんだな」
バルガスは机の引き出しから数枚の用紙を出した。
「お前は帰任だ」
突き放した内容に比べて、響きは穏やかだった。
「やっぱりですか」
「派遣先との契約がなくなったんだ。帝都に残して何をさせる」
「ですよね」
バルガスが押し出した用紙が一枚、机を滑ってきた。
「宮廷からの貸与品は?」
「全部返しました。徽章も返却済みです」
「帝国側にある塔の物品」
「一覧にしました」
「未完了の仕事は」
「引き継ぎが必要なものだけ残してきました」
書類へ向かっていたバルガスの手が止まった。
「早いな」
「昨日の夜にやりましたから」
「寝たか?」
「少し」
男は一度、窓の外を見た。何か言いたそうだったが、結局は書類へ羽根ペンを走らせた。
「本部へ第一報は送ってある。帰還後に正式な事情聴取を受けろ。処分があるかは、俺には分からん」
「はい」
「ただ、今聞いた範囲では、お前を何の件で処分するのかも分からん」
「それなら助かります」
「安心するのは事情聴取が終わってからにしろ」
処分がなければ次の任地を命じられ、処分があればそれはそれで仕事が増える。どちらへ転んでも本部へ提出する報告書はなくならない。
仕事が逃げないように、よくできてるなあ。
ハーディは差し出された用紙へ署名した。三年前、十三歳の自分はここで反対の書類に署名し、緊張して名前を一文字間違え、最初から書き直したが、今度は間違えなかった。
「これで帰任の決定は終わりだ」
「早いですね」
「決めるだけならな」
バルガスは机の脇から、先ほど署名したものより明らかに厚い、別の紙束を持ち上げた。
「宮廷へ貸し出した塔の物品確認。帝国側へ残す記録の写し。お前が扱った継続案件の照合。帰還用の旅券と通行証。それから、本部へ送る詳細報告」
「今、終わったんじゃないんですか」
「帰任が決まったと言った」
「手続きは」
「今からだ」
昨日辞めたばかりなんだけど。なんで、もう次の山が出てくるんだ。
「引き継ぎ以外も多いですね」
ハーディが紙束へ目を向けると、バルガスは一番上の物品一覧を指で叩いた。
「任期満了で後任と交代するんじゃない。契約を打ち切られて、塔が宮廷から手を引くんだ。貸与品は回収し、残る仕事は帝国側へ返す。その確認を、現場を知るお前がいるうちに済ませる」
「交代じゃなくて、撤収の作業ですか」
「そういうことだ」
「何日くらいです?」
「三日で終わらせろ。帝国側も混乱している。今日中に担当者が揃うとは思うな」
三日で終わらなければ帰任が延びる。ハーディは紙束を受け取った。
重さまで昨日と同じかよ。
「……分かりました」
「三日後の朝、終わっていたら帰れ、ハーディ」
「はい」
帰っていいとは言ったけど、すぐ帰れるとは言ってないのか。
◇
三日間、ハーディは帝都連絡所と皇宮の間を往復した。
初日の朝は薄い雲が海から流れ込み、帝都の白い壁を鈍く曇らせている。
連絡所から皇宮までは、坂を二つ上る。魚籠を担いで港から戻る男たちとすれ違い、開店前の店先を抜けた。昨日までなら宮廷の徽章を見せて通った外門で、今日は塔の徽章と臨時の入構証を出した。
門衛はハーディの胸元を一度見たが、何も聞かなかった。
皇宮の中も、祝宴の翌朝らしい片付けだけなら普段と変わらない。給仕たちが空の酒樽を運び、庭師が石畳に落ちた花びらを掃いている。一方、官庁区画の廊下では、書類を抱えた官吏がいつもより速く歩いている。
自分と目が合うと、さらに速くなる者もいる。
捕まえて話を聞きたいのか、見なかったことにしたいのか。どっちなんだろうな。
初日の仕事は、宮廷へ貸し出していた魔術計測器と封印具の確認だ。
地下倉庫は朝でも薄暗い。壁の魔導灯は一つ置きにしか点いておらず、石段を下りるほど空気が冷たくなる。木箱と金属棚が狭い通路を作り、乾いた木と防湿薬の匂いがこもっている。
一覧には二十七点あるのに、倉庫にあったのは二十六点で、一点足りない。
棚の前で帳簿をめくり、倉庫番の記録を遡った。二年前、西棟の術式漏れを調べるため持ち出され、そのまま営繕局の棚へ収められている。
営繕局は地下倉庫から中庭を二つ挟んだ反対側にある。雲の切れ間から日が差す頃、ハーディたちは道具箱と板材の積まれた作業室へ入った。
「なぜ、そこに?」
立ち会った官吏が、棚の最上段を見上げた。
黒い計測器の上には、指で線を引けるほど埃が積もっている。
「作業が終わったら戻すよう頼みました」
「戻ってないようですね」
「ええ。ですから、回収に来ました」
脚立へ上がって下ろすと、埃が朝の光の中へ舞った。ハーディは袖で鼻を覆い、外装と内部の術式を確かめた。壊れてはいない。
箱へ戻し、倉庫へ運び、三人分の確認印をもらった。地上へ出た時には雲が切れ、中庭の日時計の影は昼を過ぎていた。
二日目は朝から細かな雨が降り、坂道の石を黒く濡らして、荷車が通る度に車輪の跡へ水を溜めている。ハーディは外套の雫を連絡所の玄関で払い、二階へ上がった。
窓ガラスには水筋が絶えず流れている。その向こうで港も海も灰色に霞んでいる。
この日は継続案件を引き継ぐため、ハーディが残した注意書きについて、帝国側の各部署から担当者が連絡所へ集まった。濡れた外套が玄関の掛け具を埋め、廊下には湿った革靴の跡が増えていく。
窓際の長机には、保温器の図面、東棟の温水器の点検記録、西回廊の中継器の交換予定表が並んだ。
帝国の営繕官は、一番上の図面に添えられた注意書きを読み上げた。
「試運転前に冷却環を接続。接続箇所は図面の印の位置。これで間違いありませんね」
「はい。温水器の方は三日に一度、魔力の揺れを確認して、基準を超えたら――」
「待て」
部屋の奥からバルガスの声が飛び、ハーディは図面を指したまま顔を上げた。説明を聞いていた営繕官も振り返る。
「何です?」
「今のは引き継ぎじゃない。三日に一度確認しろというのは、今後の点検指示だ」
「その保温器と温水器は、塔との契約に含まれていた仕事か」
「いえ。厨房と営繕局から頼まれたものです」
「では、契約が終わった後の点検方法を、なぜお前が決める」
「俺が途中までやっていたので」
「今後の担当は誰だ」
ハーディが向かいの営繕官を見ると、相手もこちらを見返した。説明を止める様子はなく、手には記録用のペンが握られている。
「営繕局へ」
「なら、現在の状態と危険箇所を渡せば終わりだ。その後の手順は営繕局が決める。それは塔からの引き継ぎではなく、帝国の仕事を元の部署へ返す作業だ」
雨粒が窓を細かく打っている。室内では濡れた外套から落ちた水が、床板へ小さな染みを作っている。
ハーディは机の上を見た。保温器は厨房の備品で、温水器と中継器は営繕局の設備である。どれも帝国の部署だけで扱えるのだから、塔の派遣魔術師が担当しなければならない理由は最初からない。
「……これ、最初から営繕局の仕事ですね」
「今気付いたのか」
「直す方が早かったので、そのまま続きを考えてました」
「途中までやった分は記録へ残せ。そこから先は向こうの仕事だ」
バルガスは図面の束を指先で二つに分けた。
「塔の所掌だった案件は引き継ぐ。所掌外の案件は、元の部署へ記録ごと返す。それ以上やれば、契約が終わった後まで塔が面倒を見ると受け取られるぞ」
向かいの営繕官は何も言わなかった。否定もしない。
ハーディが説明を続ければ、そのまま最後まで聞き、次の派遣魔術師にも同じ仕事を求めたかもしれない。
温水器の魔力が揺れた原因も、保温器の冷却環を別にした理由も、話を聞いた時から気になっていた。
調べて直せば終わるはずだったんだけどな。部品を一つ外しただけで、なんで俺の予定に次の点検まで入ってるんだ。
「では、危険箇所だけ確認します」
ハーディは今後の点検案を手元へ戻し、現在の状態を記した図面だけを営繕官の前へ置いた。
「保温器は注意書きに記載した冷却環だけです。つながずに動かすと、使用者が火傷します。以上です」
営繕官が、まだ何か続くと思った顔で待っている。
「後は?」
「営繕局でお願いします」
口にしてみるとそれだけで済み、雨はまだ降っているが、机の上の紙は半分近くまで減っている。
三日目には雨が上がり、洗われた屋根瓦が朝日に光っている。軒からは残った雫が一定の間隔で落ち、開けた窓からは、港で帆を上げる掛け声と焼いたパンの匂いが入ってくる。
午前中、帝国の書記官が皇権代理杖の記録から作った契約終了時刻を持ってきた。紺色の上着には一つもしわがなく、厚い封筒には赤い封蝋が押されている。
書記官が読み上げ、ハーディが時刻を照合し、バルガスが記録の写しを確かめた。その時刻より後に処理した案件がないことを確認し、三人が順に署名した。
書記官が帰った後、部屋には急に静けさが戻った。
午後の日差しが机の上をゆっくり横切る間、ハーディは本部宛ての詳細報告を書いた。
婚約破棄、収監命令未成立、エレナとリーネの退出、塔との契約破棄と、事実だけを順に並べると紙四枚になった。
夕方、向かいの屋根が橙色に染まる頃、バルガスが読み終えた。最後の頁から顔を上げる。
「短いな」
「余計なことは書くなと言ったじゃないですか」
「そうだが、これだけの騒ぎが四枚か」
「杖が二回鳴っただけです」
「その二回の間に何があったかを書いているんだろうが」
バルガスは机の端に残っていた、昨日の図面と注意書きの束を指した。
「保温器一つの引き継ぎには、故障箇所から外した部品の戻し方まで書いたんだろ。そっちに比べて、これは随分と雑じゃないか」
「事故が起きたら困りますから」
「この報告は本部が帝国と話す材料になる。俺なら、分からないところを口頭で聞けば済むと思ったか」
言われて、ハーディは四枚の報告書を見下ろした。
……その通りだ。バルガスなら分からないところを聞いてくれるし、俺の癖も知ってる。それに甘えて、書く手間を省いたんだな。
「……手を抜きました」
「分かってるなら書き足せ」
結局、魔導灯を点けてから補足を二枚加えた。
窓の外が藍色に変わり、坂道の店々に明かりが灯る。六枚になっても、起きたことは少しも分かりやすくならない。
◇
四日目は風のある朝で、雲は高く、海から吹き上げる風が坂道の旗と店先の日除けを鳴らしている。夜の間に乾いた石畳には、低い朝日が建物の影を長く落としている。
やっと帝都を出られるな。
三年間住んだ割に荷物は少なく、着替え、外套、旅道具、筆記具、本が数冊、それに塔から支給された魔術用品を加えても、背負い袋と小さな鞄へ収まる量だった。
連絡所を出ると、風に潮の匂いが混じった。坂の下の港には帆柱が並び、朝日にきらめく水面を小さな漁船が横切っている。防波堤の外へ出た船の後ろには、白い航跡が長く伸びている。
連絡所の玄関では、バルガスが腕を組んでハーディを待っている。
「今度こそ帰れ、ハーディ」
「はい」
三日前にも聞いた気がするな、それ。今度は書類を渡されなかったし、多分本当か。
この街へ来たのは十三歳の時で、初日は宮殿の廊下を二度間違え、魔法大臣には子供扱いされ、宮廷魔術師からは塔が寄越した見習いだと思われた。それから三年が経ち、長衣の袖も一度伸ばしている。
「まあ、色々あったな」
昨日までなら、この時間には宮廷にいた。朝一番の不具合報告を見て、担当部署へ行き、昼までに二、三件片付けていた頃だろう。
東棟の温水器を誰かが直しただろうかと考えかけて、ハーディはやめた。
あれはもう向こうの仕事だ。門を出てまで温水器の心配をしなくていいだろ。次の仕事も塔が決めるんだし。
ハーディは荷を背負い直し、帝都の門へ向かった。
◇
帝都から塔のある半島へ向かうには、大禍の山の端を回り込み、山裾と丘陵の隙間を縫う細道を通る。
雪を戴く峰、深い谷、斜面へ張り付く森林。その中へ踏み入れる山越えではなく、討伐隊の目も届くため比較的安全な道ではある。ただし、人が歩いて通る分には足りても、馬車が通るには狭すぎた。荷は道の手前で駄獣か人の背へ積み替えなければならず、大禍の山そのものが帝国と半島の流通を阻む壁になっている。
軍にとっては、もっと厄介である。大部隊を広げられず、補給の馬車も通せない。守る側は細道を押さえるだけでよく、山は半島を外敵から守る天然の要害でもあった。
魔物そのものは大禍の森の深部ほど強くなくても、谷を越えられれば追えず、洞窟へ入れば狩る側と狩られる側が簡単に入れ替わる。放置すれば魔物は北の帝国領にも、南の都市国家群にも下りるため、アルヴェイン家からも定期的に討伐隊が送られている。
ハーディには馴染みのある話だ。子供の頃、エレナの家の兵が何度も山へ向かうのを見ている。
ハーディは街道を東へ進み、宿場を幾つも越えた。宮廷では決まった時刻に食事が出たが、旅では昼を食べ損ねる日もあれば、宿の主人が余った煮込みを山盛りにする夜もある。
不便かと言われると、そうでもないんだよな。
ある夕方、風に草が倒れる街道で、ハーディは立ち止まった。
街道には馬車もおらず、人の声も聞こえない。宮廷ではどこへ行っても誰かがいて、何かを直せば次の依頼が来て、問題を見つければ大きくなる前に片付けるのが普通になっていたが、今は誰もハーディを呼ばない。
「……静かだな」
移動中なんだから、これでいいのか。何も起きなければ、日暮れ前に宿へ着いて、温かい物を食べて寝られる。夕食の途中で呼び出されることもないし、今夜は煮込みを最後まで食べられそうだな。
ハーディは少しだけ歩調を緩め、次の宿へ向かって歩き続けた。
◇
大禍の山が見え始めた頃には、帝都を出て何日も経っていた。
最初は地平線の上の雲に見えた。それが日ごとに高くなり、やがて空と地面を分ける青黒い壁になった。
山際の宿場では、旅人が細道を通るための隊を組み、護衛を雇っている。広場にはここから先へ進めない荷馬車が並び、荷運び人が木箱や樽を駄獣の背へ移していた。壁際の掲示板には、崩落箇所、最近確認された魔物、避けるべき谷が並んでいる。
塔の印を押した紙の隣には、子供の頃から見慣れているアルヴェイン家の紋章がある。
「また来てるのか」
討伐隊が一つ、今も山へ入っているらしい。
エレナとリーネは、もう辺境へ向かっただろうか。帝都に三日残った間にも、捕まったという知らせは連絡所へ届かなかった。正式な拘束命令がない以上、帝国が大っぴらに追う理由もない。
「まあ、リーネもいるし」
心配するなら追手の方だな。怪我でもしたら、あの二人に非がなくても報告書になって、塔から俺に照会が来る。帝都を出ても仕事は追いつくのか。狭い世界だなあ。
山裾の細道へ入ると、針葉樹の枝が頭上で鳴った。片側には岩肌が迫り、もう片側は木々の間へ落ち込んでいる。人と駄獣なら一列で通れるが、馬車を持ち込めば最初の曲がり角で車輪が岩に当たるだろう。隊の護衛たちは口数を減らし、斥候が道を確かめる。
ハーディも歩きながら周囲の魔力の動きを探った。
斜面の林の奥に、魔物のものらしい魔力の揺らぎが一つある。距離はあり、こちらへ近づく様子もない。
こっちへ来ないなら、放っておいていいか。
「魔物か?」
ハーディの視線を追った護衛が聞いた。
「林の奥に一体います。こちらへ来る様子はありません」
「何の魔物か分かるか?」
「遠すぎて、そこまでは」
「近づかないならいい」
山では魔物がいること自体は異常ではない。問題は、それがこちらへ来るかどうかだ。
岩肌を回り込む道を眺めていると、黒く平らな道が山を貫き、馬のいない箱形の乗り物が何台も走っている光景が不意に浮かんだ。
転生前の記憶だった。日本のような場所で高校生だったことや、教室にいたことは断片的に覚えている。だが、自分の名も、今思い出した道がどこにあったのかも出てこない。白い線を引かれた黒い路面だけが妙に鮮明で、その先は霧に沈んでいた。
あっちでは山に穴を開けてたんだな。こっちで言ったら、工事より先に魔物の巣の数を聞かれそうだ。考えるだけで会議が増えるぞ。
ハーディは記憶を頭の隅へ戻した。
山肌に沿って進むにつれ、周囲の魔力の感触も変わった。アルカナ魔術が使えないほどではないが、平地と同じでもない。
ハーディは塔で習った術式を頭の中で組み立てた。成立はするが、平地より少し合わせにくい。
アルカナ魔術は、定められた呪文や術式を学べば、別の魔術師も同じ形で使える。手順を共有できるため、複数人で一つの術式を組んだり、誰かが設置した魔導具を別の者が保守したりするのにも向いている。その代わり、周囲の魔法環境に合わせて術式を調整しなければならない。
塔の一流なら気にも留めないだろう。ハーディも複数の魔術師と術式を合わせるなら、きちんと使う。
一方、固有魔術は本人の感覚だけで扱えても、そのまま他人へ教えたり、同じ術式として共同運用したりはできない。
一人なら固有魔術でいいんだけどな。……これ、十三歳の時にも言って怒られたな。
「……変わってないな」
変わっていない自分がおかしくなり、ハーディは少し笑った。
◇
数日をかけて山塊の端を回り込み、細道を抜けると、視界が開いた。
眼下へ街道が下り、その先で何本にも分かれている。遠くには城壁の街。別の丘には違う旗を掲げた街。さらに向こうにも塔や城壁が点々と続く。
国境を示す一本の線はなく、街が変われば法も統治者も変わり、時には互いに争うこともある。それでも山から魔物が下りれば協力し、どうにもならなければ塔へ話が持ち込まれる。塔は国ではないと自分たちはずっと言っているが、この辺りでそれを額面通りに受け取る者は少ない。
さらに南へ進むと、見覚えのある土地が増えた。昔、同期と菓子を買った宿場。十三歳の出発日に昼食を取った店。
店が一軒なくなって別の建物になっており、三年は短いようで、それなりに長いのだと分かる。
夕方、丘を越えたところでハーディは足を止めた。
夕日に染まり始めた空の下に、一本の古い塔が立っている。
高いが、帝都の宮殿ほど巨大ではない。石造りの、ひどく古びた塔だ。その周囲には研究棟、講義棟、工房、書庫、宿舎、治療院、管理棟が広がり、さらに外側に職人や商人、家族の暮らす街がある。
外国人は古塔だけを見て「魔法の塔」と呼ぶが、実際には、あれはもう象徴に近い。
始祖の魔術師が、魔法を発展させ、魔術師を守るために建てた最初の塔。何百年もの間に人と建物が増え、今の組織になった。
ハーディは十歳から十三歳まで、あそこで暮らした。
「帰ってきたな」
声にすると、ようやく懐かしさが追いついた。
明日は本部へ出頭する。昨夜の一件を報告し、事情を聞かれ、必要な手続きをする。それが終われば、またどこかへ派遣されるのだろう。
研究室かもしれない。別の国かもしれない。大禍の山の調査もあり得る。
決めるのは塔だと、少なくとも、この時のハーディはそう思っていた。
事情聴取を受け、報告書を書き、次の任地を聞く。
今度は担当部署が自分の仕事をしてくれる場所がいいな。それくらいなら、高望みじゃないだろ。
背負い袋を直し、夕暮れの街道を歩き出した。
古塔のさらに南には、人の土地を呑み込む魔の森がある。西には大禍の森。海の向こうには地図でしか知らない国々がある。
そのどれも、まだ自分が歩く場所には見えていなかった。




