第2話 それぞれの夜、そして朝
エレオノーラ宮を出ると、夜気は思ったより冷たく、薄い長衣の袖から入り込んで仕事の熱を奪っていく。建物同士を結ぶ石畳の上へは庭園の木々が長い影を落とし、背後の扉が閉まっても、中の騒ぎは厚い壁を抜けてかすかに聞こえる。
雲の切れ間に月があり、濡れたような銀色の光が噴水の縁をなぞっている。回廊の壁灯は一定の間隔で並んでいるが、次の建物との間には暗い場所も多い。夜勤の衛兵が二人、遠巻きにハーディを見てから、何も言わず道を空けた。
エレオノーラ宮の扉からは別の侍従が飛び出し、裾を押さえながら本宮側の回廊へ走っていく。
今夜はまだ、何人もあそこから走るんだろうな。
ハーディは胸元へ手をやった。指先に触れるのは銀色の塔の徽章だけで、三年間、円形の宮廷徽章と二つ並んでいた場所は、布地まで妙に軽く感じられた。
「本当に終わったのか」
皇権代理杖は二度鳴っており、聞き間違いではない。まず塔の帝都連絡所へ報告するべきだが、その前に官庁区画の執務室へ寄る必要があった。私物が残っているうえ、途中まで手を付けた仕事もある。
もう俺の仕事じゃないけど、分解したままの魔導具はな。誰かの手元で破裂したら、寝覚めが悪い。
◇
執務室では、机の上の魔導灯だけが点いている。官庁区画は既に静まり、長い廊下にはハーディの編み上げ靴の音だけが返ってきた。閉じた扉の下から細い明かりが漏れている部屋もあり、夜会の仕事を終えた部局と、終えられなくなった部局の違いがそのまま廊下へ表れている。
机へ近づくと、紙の山が出た時より増えていた。留守の間に誰かが置いていったらしく、書類の角は揃っておらず、急ぎを示す赤い紐も一本混じっている。
窓の外には、エレオノーラ宮の明るい窓が庭園越しに見える。その前を小さな人影が何度も横切っている。こちらの部屋には、紙とインクと、冷えた石壁の匂いしかない。
ハーディは外套を椅子へ掛け、一番上の依頼書を手に取った。東棟の温水器が不安定。次は法務局から魔術文書の簡易鑑定。その下には倉庫の封印具についての相談。
いつものように三つへ分けようとして、手が止まった。
「……これ、もう俺の仕事じゃないじゃん」
声にすると、ようやく意味が追いついた。
温水器は営繕局、文書は法務局付き魔術官の担当で、封印具は内容によって塔へ照会してもいいものの、今夜中である必要はない。
ここで一件やると三件になる。三件やると十件になる。魔物より静かに増えるんだよな、こいつら。
ハーディは依頼書を元の位置へ戻し、窓際の保温器へ目を向けた。
あれだけは片付けるか。誰かが動かしたら、説明に呼び戻される。契約が終わった翌日に出勤するのは嫌だぞ。
机の引き出しから、筆記具、替えの手袋、読みかけの本といった私物を出した。三年間いた部屋なのに、並べてみれば木箱一つへ収まり、机の広さだけが急に目立った。
窓際の作業台には、昨日厨房から持ち込まれた小型の保温器が、分解したまま置かれている。外した真鍮の覆いが魔導灯を映し、内部の細い術線が青白く光っていた。作業台の端には工具が大きさ順に並び、途中で呼ばれた時のまま、留め具が一つ布の上へ置かれている。
これは途中まで自分が触った物だ。
ハーディは紙を一枚取り、故障箇所と、外した部品の戻し方を書いた。試運転前に冷却環を接続すること。その一行には二本、線を引いた。
新しい仕事はしない。俺が始めた分で、誰かが火傷しないようにはしておく。
これを放っておいたら、誰かが説明を読まずに動かして、料理長が怒って、最後は俺の引き継ぎ不足になるんだろうな。もう退職してるんだけど。
そこまで見えたので、注意書きの文字を一回り大きくした。
その境目を決めてしまうと後は早く、ハーディは書類を担当部署ごとに積み直し、進行中の案件へ短い引き継ぎを添えた。夜半を過ぎる頃には、積み上がった紙の下から机の木目が見えている。
「こんなに広かったんだな」
ハーディは最後に魔導灯を消し、暗くなった部屋を振り返った。
特に感慨は湧いてこない。
明日の朝も来そうだな。来ても、もう座る場所はないけど。
廊下へ出ると、窓の外で雲が月を隠した。庭園も向かいの建物も一度暗くなり、少し遅れて壁灯の光だけが石床へ浮かぶ中、ハーディは扉を閉め、鍵を当直へ返した。
◇
その頃、エレナとリーネは、エレオノーラ宮の外で合流した護衛長を含むヴァレーヌの護衛三人とともに皇宮南門の内側にいる。月明かりの下では、エレナの淡い金髪と銀の髪飾りが夜会の名残を見せる一方、リーネの濃い栗色の編み髪と墨色の服は門楼の影へ紛れやすい。護衛たちは外套の下へ剣を戻し、一人が先を見て、二人がエレナの左右後方へ付いている。
門楼の灯りに照らされ、槍を持った衛兵が四人立っている。その前を、第二皇子付きの侍従が塞いだ。
高い門扉は半分だけ開き、その隙間から帝都の下り坂と、軒を連ねる家々の灯りが見える。門楼の上では見張りの兵が持ち場を行き来し、鎧の金具が規則的に鳴っている。夜風が通り抜ける度、エレナのドレスの裾とリーネの白い前掛けが揺れる。
「殿下は、アルヴェイン嬢に宮中へ留まるよう望まれております」
「正式な命令ですか」
リーネは、侍従から視線を外さずに尋ねた。
リーネの声も姿勢もエレオノーラ宮にいた時と変わらず、丸みのある輪郭にも焦りは出ていない。それでも琥珀茶の目は、侍従、四人の衛兵、半開きの門扉の順に動き、エレナの袖を支える手だけがいつでも引ける位置にある。
「殿下のご意向です」
「皇権代理杖に記録された退去禁止命令でしょうか」
「それは……」
「拘束命令は成立しましたか」
侍従は答えない。拘束命令は成立しておらず、ハーディが間へ入った後、レオルドは塔との契約へ話を逸らし、そのまま破棄を宣言した。
「わたくしは婚約を正式に解かれました」
エレナは、半分開いた門扉を一度見てから言った。
「罪の調査を拒んでもおりません。正式な召喚には応じます。ですが、今夜ここへ留まる義務はないはずです」
「しかし殿下は――」
「正式な命令をお持ちください」
リーネはそれだけ言って門を見た。衛兵たちは互いに視線を交わし、命令なしで辺境伯令嬢と三人の護衛を拘束する覚悟まではないらしく、一人が脇へ退くと他の三人も続いた。開いた門扉の向こうには、夜の帝都がある。
坂の両側に並ぶ店は大半が鎧戸を閉じている。宿屋と酒場だけは黄色い明かりを残し、開いた戸口から笑い声と焼いた肉の匂いが流れてくる。遠くの港には船の灯が浮かび、暗い海の上でゆっくり上下している。
一行が門を抜けても、侍従は追ってこなかった。
大通りへ出るまで歩き、最初の角を曲がったところで、エレナが息を吐いた。指先に残っていた青白い光が消える。
「ハーディを置いてきたわ」
「本人の指示です」
「分かっているから従ったのよ」
エレナは足を止めずに答えた。石造りの家々は既に窓を閉ざし、通りを行くのは遅い辻馬車と夜警くらいだ。護衛の一人が十歩ほど先を歩き、残る二人は会話を妨げない距離を保って後ろを固めている。
「あの子、何をしたの」
「殿下の注意を引きつけました」
「それだけ?」
エレナの眉が寄った。
リーネはエレオノーラ宮を出る時、追手の気配を拾うため、固有魔術の身体強化を聴覚へ寄せていた。
短時間なら、強化を一つの感覚だけへ絞ることもできる。
その耳で、閉まりかけた扉と遠ざかる人垣の向こうから、レオルドが塔との契約破棄を宣言する声と、杖の石突が床を打つ音を聞いている。
エレナは指先に集まりかけた雷を抑えながら、前方の人波と出口を見ていた。リーネのように聴力を強める術もない。あの距離では、皇子の声までは聞こえても、宣言の内容までは拾えなかったのだろう。
「魔法の塔との契約がなくなりました」
予想していなかったらしく、エレナの靴音が一つ乱れた。
「……どうしてそうなるの?」
「私も詳しく伺いたいです」
リーネは道の先へ目を向けた。アルヴェイン家の帝都邸へは戻れない。正式な命令がなくても、場所を知られている屋敷へ入れば朝まで見張られ、使用人だけでなく、ここにいる三人とは別に邸へ残した護衛たちまで巻き込むことになる。エレナが予定の時刻を過ぎても戻らない場合、彼らは決めてある手順で邸を離れる。今から迎えに戻る必要はなかった。
「東門へ向かいます。途中で服を替え、商人街を抜けます」
「辺境は西よ」
「ですから、最初は東へ」
追う者は西街道を見る。いったん反対へ抜け、夜明け前に川沿いの道へ移る。
エレナは意図を理解するまで少し黙り、それからうなずいた。
「任せるわ」
「雷はお控えください」
「まだ何もしていないでしょう」
「なさる前に申し上げました」
エレナが横目で侍女を見ても、リーネは前を向いたままである。一行はそれ以上言い合わず、歩調を速めた。
最後尾の護衛が小さく舌を鳴らした。後方の角へ、同じ外套を着た男が二人現れている。
◇
追跡を撒くのに、戦う必要はない。
夜市の広場では、商人たちが天幕を畳み、売れ残った籠を荷車へ積んでいる。踏み潰された香草と果物の皮が石畳へ張り付き、水を撒く音と、木箱を重ねる音があちこちから聞こえる。
リーネはその荷車の間を抜け、閉店間際の衣料店で二人分の外套を買った。店内には染料と新しい布の匂いがこもっている。エレナの髪を布で隠し、自分の侍女服も表裏を返した地味な外套の下へ収める。護衛たちは元から旅装に近い外套姿なので、徽章と剣帯を布で隠すだけでよかった。
運河沿いでは荷役人に混じり、東門の手前で荷馬車の陰へ入った。追手が表通りを駆け抜けた後、脇道から南へ折れる。
「今なら一人くらい捕まえられるわよ」
エレナが肩越しに、追手の消えた通りを見た。
「捕まえた後の扱いに困ります」
「聞いて、帰せばいいでしょう」
「殿下の周囲へ、こちらの位置も一緒に持ち帰ります」
「不便ね」
強ければ大抵の相手には勝てるが、勝った後の政治まで消えてくれるわけではない。今夜は、それがひどく面倒だった。
この場にハーディがいれば、多分「だから暴れないでくれ」と言っただろう。
いないのに何を言うか想像できる辺り、普段から同じことを言われすぎていた。
夜市を抜けたところで、護衛二人は囮となって別の道へ分かれた。追手を南へ引きつけた後、北の街道にある最初の継走所で合流する手筈である。護衛長だけが、エレナとリーネのそばへ残った。
三人は夜明け前、東門から出る野菜商の荷車へ金を払い、空の籠の間へ乗せてもらった。門衛は荷を一つずつ調べなかった。
荷車の板は夜露で冷え、籠には土と青菜の匂いが残っている。馬が歩き出すと車輪が石畳の継ぎ目を拾い、身体の下から細かな振動が伝わってくる。
帝都の城壁が遠ざかってから、リーネはようやく背を伸ばした。御者台に近い籠の陰では、護衛長が外套の隙間から街道の後方を見張っている。
空の東端は群青から薄紫へ変わり始めている。振り返れば、城壁の上の灯が一つずつ消え、その向こうに皇宮の屋根と塔が黒い輪郭を作っている。
「ここから北へ回ります」
「西ではなく?」
「まだです」
エレナはようやく力を抜き、籠へ背を預けた。
「帰ったら、ハーディに話を聞くわ」
「その頃には塔でしょう」
「なら、その後で」
怒っているというより、心配している声だ。
リーネはそれを指摘せず、薄明るくなり始めた街道を見た。
◇
夜明けの離宮では、侍女がカーテンを開ける前に扉が叩かれた。城内の端に建つ離宮はまだ青い朝の影に沈み、庭の池には靄が薄く漂って、水鳥が葦の間で羽を鳴らしている。寝室には昨夜焚いた香の匂いが残り、暖炉の熾火はほとんど灰になっている。
皇帝は寝台の上で目を開けた。五十代半ばの顔には睡眠の浅さを示す皺が残り、短く整えた鉄灰色の髪も、額の片側だけ寝具に押されている。人前へ出る時の威儀はまだ整っていないが、淡い灰色の目は扉の向こうの声を聞いた時点で覚めていた。
予定より早い。しかも、扉の向こうで待つ侍従の声が固い。
「陛下。本宮より、至急のご報告がございます」
一件だけなら離宮までは来ないと察し、皇帝は身を起こした。
本宮へ戻る馬車の中で、最初の報告を聞いた。
馬車は離宮の庭を抜け、白い石の道を本宮へ急いだ。窓の外では、朝番の衛兵が交代し、侍従たちが廊下の窓を順に開けている。夜の冷気が残る宮内へ、東から淡い光が差し込み始めている。
「レオルドが、アルヴェイン嬢との婚約を破棄した?」
「昨夜、エレオノーラ宮にて」
「余の杖は」
「使用されました」
皇帝は目を閉じた。私的な口論ではなく、正式な破棄である。辺境伯へ何と説明するか考え始めたところで、侍従が続けた。
エレナを帝都へ迎えた名目は、皇弟妃候補としての教育だった。伝統貴族が推す教師を選んだのも、婚姻によって彼らの立場が脅かされるわけではないと示す配慮のつもりである。教師が何人も辞めたことは聞いていたが、中央と辺境の作法が合わないのだと考えていた。講義の中で何が語られ、エレナが何を叱責したのかまでは上がっていない。
その婚約を一方的に破棄したうえで、調査もなく罪人として拘束すれば、辺境には最初から教育ではなく人質として呼んだのだと受け取られる。説明を一つ誤れば、今朝のうちに済む話ではない。
「殿下はさらに、同嬢へ傷害、毒殺未遂、魔術犯罪の嫌疑を告げ、収監を命じようとなさいました」
「調査は」
「確認できておりません」
「収監命令も杖へ記録したのか」
「いいえ。塔の派遣魔術師ハーディが、正式な調査を求めて止めました」
そこで初めて、皇帝にとって少しましな報告が来た。
「嬢は」
「侍女と共に退出しております。正式な拘束命令も、退去禁止命令もございません」
「なら逃亡ではない。追うな」
「既に殿下付きの者が一部を――魔法大臣が呼び戻しております」
馬車が石の継ぎ目を越え、車体が揺れた。
皇帝は向かいの宰相を見た。夜明け前に起こされた老人は、痩せた身体へ灰紺の正装を隙なく着込み、白い髪を後頭部で短く束ねている。細い鼻の上には読み物用の眼鏡が掛かり、節の目立つ指は、膝の上の書板へいつでも記録を始められるよう羽根ペンを添えていた。
「まだあるな」
宰相が侍従へ先を促すと、その顔が強張った。
「殿下は、ハーディの言動を魔法の塔による辺境への加担と見なし……塔との魔術師派遣契約を破棄なさいました」
言葉が途切れた車内には、車輪の音だけが続いた。
「杖を使ったのか」
「はい」
「記録は」
「成立しております」
皇帝は額へ手を当てた。派遣契約は、単に若い魔術師一人を借りるためのものではない。未知の魔術事案が起きた時に塔の知識へつながる窓口であり、諸国と共通の形式で結ばれた外交関係そのものだ。
「ハーディは」
「契約終了に伴い、宮廷魔術師徽章を返却しました」
「それはそうだろう」
契約を切っておいて、働き続けろとは言えない。そこは問題ではない。
問題ではないのだが、報告を聞くほど問題が増える。
皇帝は昨夜、離宮へ移る前に未決書類を三件残してきた。朝一番で片付けるつもりだった。
今となっては、その三件がひどく懐かしい。
本宮へ着く頃には、朝日が正面階段の上段まで届いている。赤い絨毯の両脇で侍従たちが頭を下げる。その間を抜けた先、執務室の前では、魔法大臣が同じ場所を何度も往復している。
髪は整えられているが、目の下には濃い影がある。濃紫の上着も昨夜と同じものらしく、袖口に小さなしわが残っている。一晩で十歳ほど老けたように見える。
「陛下」
「お前をあれに付けたのは何のためだ」
大臣は皇帝の視線を受け、深く頭を下げた。
「弁明の余地もございません」
「弁明ではなく経緯を聞く。なぜ婚約破棄を止めず、どこで塔との話になった」
皇帝は机へ着くと、傍らで書板を開いた宰相へ目を向けた。
「婚約破棄と契約破棄は、いったん成立したものとして扱う。都合が悪いから杖の記録を無効にすれば、今後あの杖を誰も信じなくなる」
「御意」
「塔へ事情説明と謝罪、協議の申し入れを。再契約は新たに交渉する。帝国だけを特別扱いしろとは言うな」
宰相は短くうなずき、すぐに筆を動かした。
「辺境へも使者を出せ。アルヴェイン嬢は逃亡犯ではない。嫌疑は正式に調べる。毒、傷、術式痕、証言者。全部だ」
「第二皇子殿下は、いかがなさいますか」
「まず余の杖を返させろ」
これ以上持たせておけば、昼までにどこかの国との国交まで切りかねない。
口には出さなかった。出せば、本当に可能性があると認めるようで嫌だった。
皇帝は窓の外を見た。夜の雲はすっかり流れ、朝日は本宮の白い壁を明るく照らしている。中庭では噴水が動き始め、窓を開ける侍従の姿が見え、空はよく晴れている。
それでも今日は長くなる。まだ朝食も取っていないのに、既に十分長かった。




