第1話 婚約破棄は料理の向こう側で
何代か前の皇妃の名を冠したエレオノーラ大祝宴殿のシャンデリアは、殿内すべてを照らすには少し光が足りていない。乳白色の魔導灯が幾百も灯っているものの、高い場所には薄い影が残り、二階回廊を歩く人影は時々そこへ溶ける。
殿内は百人を超える招待客で満ちている。中央の磨かれた床では宝石を飾った貴婦人と、儀礼剣を帯びた貴族たちが楽団の曲に合わせて踊っている。二階回廊では、欄干にもたれた若者たちが階下を眺め、壁際には家紋入りの上着を着た従者が並んでいる。
一方の壁には弦楽器と笛を持つ楽団。その反対側には白布を掛けた長卓が続き、銀皿へ盛られた肉、魚、焼き菓子、色の濃い果実が、魔導灯の光を柔らかく返している。香草を利かせた肉の匂いに、葡萄酒と香水の甘さが混じっている。
ハーディは料理卓の端で、薄く切った燻製肉をパンに載せた。十六歳で、成人の男たちに交じればまだ小柄な方だ。肩幅も狭く、膝下まで届く暗い青緑の長衣が細い体を包んでいる。柔らかな灰褐色の髪は仕事の後で少し乱れ、右目へ掛かる前髪の下では、灰緑の目が料理と殿内の人の流れを交互に追っていた。腰には杖ではなく、工具と術具を収めた小さなポーチが二つ下がっている。
三時間前には、エレオノーラ宮へ来るつもりなどなかった。本来の仕事を終えたところへ、営繕局から西回廊の魔導灯が明滅すると相談された。一定の間隔ではなく、隣の灯りが明るくなる度に暗くなる。それが気になって蓋を開けたら、中継器の組み方が悪かった。このまま夜会で一斉に点ければ、三つか四つは焼けただろう。
原因まで分かったんだし、人を呼んで説明するより俺が直す方が早い。……で、いつも帰るのが遅くなるんだよな。
放っておけば、魔導灯が焼け、貴婦人が悲鳴を上げ、警備が事故か襲撃かで揉める。誰かが念のため全系統を止め、真っ暗になったエレオノーラ宮へ夕食抜きのハーディが呼ばれるところまで想像できた。
担当外でも、結局呼ばれるのは俺か。先に直して正解だったな。夕食抜きはよくない。
西回廊の魔導灯を直し終えた頃には楽団の音が聞こえ、扉の向こうには料理が並んでいた。塔から派遣された宮廷魔術師の徽章はこういう時には便利で、少なくとも料理を一つ二つ取った程度では追い出されない。
「――エレナ・アルヴェイン!」
弦の音を割って若い男の声が響き、踊っていた男女の足が止まって、靴底が床を擦った。楽団の弓も不揃いに止まり、最後に笛の細い音だけが一拍長く残る中、ハーディはパンを口へ運ぶ手を止めた。
殿内の中央が空いている。人々が一歩ずつ退いた結果で、飾緒を掛けた礼装姿の第二皇子レオルドと、その正面に立つエレナの間だけ、磨かれた床が円形に露出していた。
レオルドは十九歳で、ハーディより頭半分ほど背が高い。明るい金髪は普段なら後ろへ整えられているが、今夜は一房だけ額へ落ち、青い目の上で揺れている。深紅の軍礼装には皇族を示す金糸の紋が入り、直線的な肩章と胸を横切る飾緒が身体を実際より大きく見せていた。頬は興奮で赤く、右手は腰の儀礼剣ではなく、隣に控える侍従の方へ伸びかけている。
向かいに立つエレナは十八歳で、淡い金髪を腰まで伸ばし、両側の髪を細く編んで後頭部でまとめている。切れ長の青灰色の目は皇子から逸れず、二十歩以上離れていても背筋が真っ直ぐなのは分かった。深い紺青のドレスには銀糸の刺繍が走り、高位令嬢の夜会服として十分な布量がある一方、裾は中央貴族の流行よりわずかに短い。低い踵の靴先も隠れていない。
あれなら走れるな。
エレナが帝都へ来たのは、第二皇子との婚約に伴い、皇弟妃候補として教育を受けるためだった。中央の伝統貴族へ配慮し、教師は彼らが選んだ者である。ただし講義の端々には、辺境の慣習や出自を見下す言葉が混じった。エレナは黙って聞き流す性格ではなく、誤りを指摘し、度が過ぎれば教師の方を叱責した。その結果、短期間で辞めた教師も一人や二人ではない。
レオルドの耳へ入ったのは、教師が辞めたという結果と、エレナが教えに従わなかったという報告が主だった。何を教えられ、何に反論したのかは抜け落ちている。二人の折り合いが悪くなるには、それで十分だった。
エレナの半歩後ろにはリーネがいる。濃い栗色の髪を低い位置で太い一本編みにし、墨色のワンピースへ生成りの前掛けを重ねた姿は、見たところ物静かな侍女である。ただし、重ねた両手とは裏腹に重心は低く、肩から腰までの軸もぶれていない。静かすぎるので、ハーディは燻製肉を噛みながら彼女の足元を見た。長いスカートの下には、足首を紐で固定した焦茶の短靴がのぞいている。
いつもの格好か。
ヴァレーヌから来た護衛はリーネ一人ではない。ほかの者はアルヴェイン家の帝都邸と皇宮の外側に詰めている。侍女を兼ねるリーネだけが、夜会の最中もエレナのすぐ後ろまで入れた。
「そなたとの婚約を、本日この場をもって破棄する!」
近くの貴婦人が扇を止めた。給仕は銀盆を胸の前で抱えたまま動かない。楽団も、いつの間にか演奏をやめている。
エレナは皇子を見返した。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「まだ白を切るか。ミレイユを階段から突き落とし、毒を盛り、魔術で害した。そのような者を皇族へ迎えることはできぬ」
人垣の皇子側に、淡い桃色のドレスを着た小柄な令嬢がいる。ミレイユは胸まである蜂蜜色の波髪を片側へ寄せ、くすんだ桃色のリボンと小粒の真珠で留めていた。肩を内側へ寄せて伏せた顔はよく見えず、丸い頬の横で睫毛が揺れ、薄いレースに包まれた肩だけが小さく震えている。その震えが恐怖なのか、罪悪感なのか、それとも別のものなのかは、離れた場所からでは判別できない。
ハーディには、どちらが嘘をついているか分からない。
ただ、毒と魔術犯罪を一緒に並べるなら、先に調べることが山ほどある。調べた形跡は、少なくとも宮廷の魔術部門にはなかった。
「証拠を拝見できますか」
「被害を受けた者の言葉が証拠だ」
「では、正式な調査をお願いいたします」
エレナの声は変わらない。
怒ってはいるだろう。右手の指が、ドレスの脇でゆっくり開いたから分かる。まだ雷は出ていない。
まだ、だけどな。
エレナの雷は、本人の資質に結びついた固有魔術だ。呪文や術式を学べば、訓練を受けた別の魔術師も使えるアルカナ魔術とは違う。
第二皇子の傍らでは、魔法大臣が難しい顔をしている。五十を越えた男で、黒に近い濃灰の髪には、こめかみから銀が大きく混じっていた。濃い眉の下の瞼は重く、短く整えた口髭の周囲には深い皺が刻まれている。厚い肩を包む濃紫の礼装は着慣れたものらしく、姿勢に乱れはないが、皇子を止める様子もない。辺境との婚約を快く思っていない人なので、そこまでは不思議でもない。
皇子が侍従へ手を差し出す。
差し出された長い杖を受け取った途端、殿内の空気が変わった。
杖身は艶のない黒で、石突には帝国の紋が刻まれ、先端の宝珠へは細い金の光が走っている。それを認めた途端、ハーディは道具の名と、これから起こることを理解した。
近くにいた者たちがさらに半歩退いた。衣擦れが重なり、空いた床の円が広がる。二階回廊でも話し声が消え、欄干から階下を見下ろす顔が並んだ。
皇権代理杖である。皇帝は今夜、城内の離宮におり、宮中を預けられた第二皇子には、使用者と期限と権限を登録したその杖が渡されている。婚約について正式な宣言を記録するつもりなのだと分かり、ハーディは宝珠を見た。
本当にあれを使う気か。
「皇帝陛下より預かりし権限において宣言する。第二皇子レオルドと、アルヴェイン辺境伯令嬢エレナとの婚約を――」
宝珠の光が強くなる。
「本日をもって破棄する」
杖の石突が大理石を打った。
カン。
乾いた音が、高い天井へ昇っていった。
宝珠から放たれた金の筋が杖身を一周し、帝国の紋へ吸い込まれる。音の余韻が消えても、誰もすぐには口を開かなかった。給仕の盆の上で、触れ合った杯だけが小さく鳴った。
これで婚約破棄は正式に記録された。明日の朝、皇帝も辺境伯も頭を抱えるだろう。皇帝が大臣を呼び、大臣が部下を呼び、部下が資料を探し、その資料に魔術的な確認事項が一行でもあれば、ハーディにも声が掛かる。
……明日の俺も大変じゃないか。
ハーディは冷めかけた果実水へ手を伸ばし、一口多く飲んだ。
婚約は政略で結ばれたものだ。破棄もまた政治の問題になる。だが、少なくともエレナ本人は自由になった。
後始末は、皇帝と辺境伯と、給料の高い人たちで頼む。俺まで呼ばないでほしいな。
「承りました」
エレナは膝を折り、正式な礼を取った。
「それでは、失礼いたします」
踵を返す。リーネも一礼し、後に続いた。
「待て」
二人が三歩進んだところで、皇子が呼び止めた。
「婚約を破棄したからといって、そなたの罪が消えるわけではない」
エレナが振り返る。
「ならば調査を」
「必要ない。既に明白だ」
皇子がもう一度、杖へ魔力を流した。
「この者を拘束し、地下牢へ――」
エレナの指先に、青白い光が走った。
小さな音だった。だがハーディには、リーネが重ねていた手をほどき、右足を半歩引いたのも見えた。
二人なら、近衛を殺さずにという条件を付けても、ここから出られる。エレナが正面を雷で開け、リーネが横から来る衛兵を廊下の壁へ並べ、二人はそのまま門を抜ける。翌朝には「辺境伯令嬢、皇命に武力で反抗」という報告書ができ、昼には辺境へ早馬が走り、夕方には誰かが軍の動員について口にするところまで、ハーディには想像できてしまった。
出られるから困るんだよ。幼馴染が暴れた後の心配まで、したくないんだけど。
婚約破棄なら政治危機で済む。正式な収監命令が記録された後、辺境伯令嬢が護衛と共に宮殿を武力突破すれば、皇命への反逆になる。辺境が二人を受け入れれば、氏族連合全体が皇帝へ逆らったという形まで作れてしまう。
そうなれば、朝まで放っておくわけにはいかない。
「殿下!」
ハーディは皿を料理卓へ戻し、人垣へ向かった。
貴族たちの間を抜けた。重なっていたドレスの裾が引かれ、儀礼剣を帯びた男たちが身体を横へ向ける。皆が避けてくれたので、思ったより歩きやすかった。磨かれた床へ、濃色の長衣の裾が擦れた。胸元には塔の徽章と、帝国宮廷魔術師の徽章が並んでいる。
「何者だ」
「魔法の塔派遣魔術師、ハーディです。魔術犯罪を理由に拘束されるのであれば、先に術式痕と被害者の状態を調べる必要があります」
レオルドは顎を上げ、杖を握る手へ力を込めた。
「下がっておれ」
魔法大臣が一歩前へ出た。濃紫の礼装の胸元で、金糸の刺繍が揺れる。
「お前の出る幕ではない。塔から派遣された技術者に過ぎん」
「その技術者が必要な容疑です。毒なら薬師と医師、魔術なら魔術師に調べさせてください。少なくとも陛下がお戻りになる朝まで」
話しながら、ハーディは左手を身体の横へ下ろした。
指先を二度曲げ、掌を外へ向けた。
幼い頃、森で使っていた合図だ。散れ。先に行け。
リーネの視線が一瞬だけ動いた。エレナの腕へ手を添え、何事もなかったように出口側へ半歩ずれる。
「貴様、辺境伯家を庇うのか」
第二皇子の声が近くなり、注意はこちらへ向いた。
これで二人を出せる。皇子に逆らったことで帝国から塔へ苦情が行けば、俺は担当を外されるかもしれないけど。
……待てよ。それなら宮廷勤務が終わるのか。内戦を避けられて、俺も帰れる。ずいぶん都合がいいな。
もちろん、苦情だけ届いて、塔から「お前が説明して収めろ」と返されるかもしれない。
それは勘弁してほしいな。せめて担当替えくらいで頼む。
「庇うのではありません。正式な手続きをお願いしています」
「同じことだ! 辺境は帝国の恩を忘れ、塔までそれへ加担する!」
「殿下、それと塔との関係は別問題です」
話が大きくなってきたところで、魔法大臣の声色が初めて変わった。
「この者の発言は派遣魔術師個人のもの。塔の意思ではございません」
「個人だと? 塔の徽章を付け、この場で私に逆らっているではないか」
エレナとリーネが人垣の外へ出た。出口まではまだ遠い。
もう少し時間が要るな。
「私への処分は塔へお申し入れください」
ハーディが言うと、皇子の顔から迷いが消えた。
「ならば、その必要ごとなくしてやる」
「殿下?」
魔法大臣の目が見開かれた。
「帝国には帝国の魔術師がいる。辺境を庇う塔など必要ない」
そこまでやれとは言ってない。担当替えでいいんだよ。なんで建物ごと燃やすような話になるんだ。
魔法大臣が杖へ手を伸ばした。
「殿下、それはなりません! 塔との派遣契約は外交上の――」
「大臣まで私を疑うのか」
杖が強い金色の光を放つ。
壁際の魔導灯が、その光に押されたように色を失った。魔法大臣の袖が杖へ伸び、傍らの侍従も遅れて皇子の肩へ手を掛けようとする。近衛たちは命令を受けておらず、剣へ手を添えたまま動けなかった。
ハーディは止めるべきか迷った。だが皇権代理杖を実力で奪えば、それこそ話が別になる。大臣と侍従が皇子の腕を押さえようとした時には、宣言が始まっていた。
「皇帝陛下より預かりし権限において宣言する。帝国は本日この時をもって、魔法の塔との魔術師派遣契約を破棄する!」
「お待ちください!」
石突が床へ落ちた。
カン。
二度目の音は、一度目よりずっと小さく聞こえた。
誰も動かない中、開いた扉から夜風が一筋入り、卓上の燭台の火を揺らした。温かい料理の匂いが残る殿内で、その風だけが妙に冷たい。
大臣は杖に伸ばした手を下ろせず、皇子の傍らで固まっている。二階回廊では、身を乗り出していた男がゆっくり手すりから離れた。
ハーディは自分の胸元に並ぶ、塔の徽章と宮廷魔術師の徽章を見た。
担当替えを狙ったら、勤務先との契約ごと消えた。加減ってものがあるだろ。……終わったんなら、こっちの徽章は外さないとな。
留め具を外し、帝国の徽章を掌へ載せた。三年使った金属は、手の熱をすぐに吸った。
「何をしている」
皇子が問う。
「契約が終了しましたので、宮廷魔術師の身分を返上します」
「今すぐか」
レオルドの眉が寄った。
「今、終わりましたから」
魔法大臣へ徽章を差し出すと、男はしばらくそれを見た後、無言で受け取った。
ハーディが出口を見ると、エレナとリーネの姿はもうない。二人が出られたのなら、ここに残る用事もなかった。
「これまでお世話になりました」
ハーディは一礼し、料理卓へ視線を戻した。
パンが一つ残っている。
……さすがに、今これを持って帰るのは違うか。
ハーディはパンのつまみ食いを諦めて、エレオノーラ宮を出た。
扉の外は、庭園に面した石造りの回廊である。柱の間から夜空が見え、刈り込まれた低木の向こうで噴水の水音がしている。エレオノーラ宮の明かりは開いた扉から長方形に伸び、ハーディの影を石床へ長く落としている。
扉が閉じ始める。細くなっていく光の向こうで、ようやく何人もの声が重なり始めている。
三年間続いた仕事は、二度目の乾いた音で終わった。




