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第11話 三年住んでも知らない街です

 ベルメールを出て四日目の午後、街道の先に帝都ヴァルディエの城壁が見えてきた。

 丘を下るにつれ、白い石壁の向こうへ屋根が重なり、その上に皇宮の塔が現れる。海は建物に隠れているが、風には潮の匂いが混じっている。城門の前では荷馬車が二列に分かれ、御者たちが荷台の書類を門衛へ渡している。

 乗合馬車の御者も列の後ろで手綱を引いた。隣に座っていた商人は、膝をさすりながら座り直した。

「やっと着いたな。もう当分、馬車には乗りたくないよ」

「俺もです。早く降りて、脚を伸ばしたいですね」

 ハーディは足元の鞄を少し寄せた。商人も自分の荷物を抱え、降りる支度をした。

「君は、帝都で降りるのかい?」

「はい。今夜は泊まって、明日の朝サン=ロシェへ向かいます」

「そうか。まだ旅の途中なんだな」

 御者に促され、ハーディは旅券を出した。門衛は名前と行き先を確かめ、次の乗客へ手を伸ばした。

 三年前は、この門を通るだけで背筋が伸びたんだけどな。

 馬車が城内へ入ると、街路の音が近くなった。鉄輪が石畳を鳴らし、店先では干した布が風にはためいている。角のパン屋には、以前と同じ丸い看板が下がっていた。その向かいの靴屋は、店先へ置く長椅子を新しくしたらしい。

 終着の広場で馬車が止まると、役人は書類鞄を抱えて立ち上がった。

「私はここで降ります。明朝から役所へ出るので」

 そう言って馬車を降りた役人は、集まった荷車を避けながら官庁街の方へ歩いていった。ハーディも商人と一緒に荷物を受け取った。

 土産の布鞄を肩へ掛けた。焼き菓子の箱は、馬車を降りる度に確かめている。今日も潰れていない。

 帝都まで来て、箱の形だけは出発した時のままだ。中身もそうだといいんだけど。

 ハーディは鞄の口を閉じ、塔の帝都支部へ向かった。


 ◇


 帝都支部は、街の者には今も塔の連絡所と呼ばれている。

 坂の中腹にある玄関には、見覚えのある古塔と星の印が掲げられている。扉を開けると、受付の奥から紙を揃える音が聞こえる。壁際には荷物の運搬に使う木箱が積まれ、窓辺の長椅子では、旅装の魔術師が片方の靴紐を結び直している。

 受付で任命札を見せ、到着の連絡を頼んだ。二階へ上がると、バルガスが執務室の扉を開けたところだった。

「来たか」

 短い髭に囲まれた口元が緩んだ。バルガスはハーディの顔を見てから、背負い袋と、埃の付いた外套へ目を移す。

「前にここを出た時より、よく寝た顔をしてるな」

「塔では昼まで寝た日もありました」

「そうか。それはよかった」

 バルガスは机の向かいの椅子を引いた。窓は開いていて、港から荷役人の掛け声が届いている。以前は書類で隠れていた机の端に、今日は茶の盆が置かれている。

 ハーディは荷物を床へ下ろし、ベルメールで書き留めた報告を出した。

 素材の表示と現物が一致しなかったこと。市場検査官のクレール・デュランが調査を引き受けたこと。正規の証明書が付いていても、流通途中の重量記録に不一致があること。具体的な混入方法と関与者は、まだ分かっていない。

「結果は本部へ送ってもらいます。こちらは、俺が見た物と説明した内容の控えです」

「ベルメール支部からも第一報は来ている。これも本部への書類便に回そう」

 バルガスは報告を受け取り、脇の箱へ収めた。ハーディは続けて、次にサン=ロシェ、その後モンテールを経由する予定を伝えた。

 到着と今後の経路は、支部の連絡網から先に送ってもらうことにした。道中の宿場で足止めされたことも、追加で引き受けた依頼もなかった。

 報告を終え、ハーディは茶を飲んだ。茶碗を両手で包んでいると、窓の外で海鳥が鳴いた。

「皇太子殿下が戻られたと、馬車で聞きました」

「ああ。視察を切り上げてな。宮廷からも、殿下の帰還後に調査の記録を取りまとめると連絡が来た」

「夜会の件で?」

「それも含めて、だろう。第二皇子殿下の説明と、各部署の記録を照合しているそうだ。こちらにも、お前が帰任前に出した報告の写しを求められた」

 バルガスは机の脇に綴じられた往復書簡へ目を向けた。

「塔の本部へ確認して、提出済みだ」

「エレナへの嫌疑は?」

「正式な調査を続けている。それ以上の結果は、まだこちらには来ていない」

 ハーディは頷いた。二人から無事の連絡があったことは、塔で聞いている。ヴァレーヌへ着いたという知らせは、まだない。

 先に帰り着けたら、二人を迎える側だな。

「マルチェロ先輩は、まだ塔ですか」

「まだ着いていない。本部からの連絡では、再契約と受け入れの確認を進めている。あいつからも、帝国側へ質問が来た」

「何を聞いてました?」

「宮廷からの依頼を取りまとめる責任者は誰か、だ」

 ハーディは茶碗を持ったまま笑った。

「先輩らしいですね」

「一度に六つの部署から別々に話が来たら、同じ説明を六度することになるからな」

 六つで済めばいいけど。先輩が着いた日に、七つ目が挨拶へ来そうだな。

 窓の下を荷車が通り、積まれた空樽が軽い音を立てた。バルガスは書簡の束を棚へ戻し、椅子へ座り直した。

「今夜はどうする」

「空きがあれば、寝台を借りたいです。明日の朝には西門から出ます」

「二階の小部屋が空いている。前に使った所だ」

「ありがとうございます」

「夕食は?」

「まだ決めていません。荷物を置いて、馬車の席を取ってから考えます」

「なら、港へ下りる途中の細い坂を通ってみろ。串焼きを出す店がある。魚も野菜も、あそこはうまい」

 バルガスが窓から見える道を指した。皇宮へ向かう大通りの、一つ手前で分かれる坂だった。

「あそこに食堂がありましたか」

「あるぞ。お前が来る前から」

「何度も通ったんですが」

「通っただけだったんだろう」

 ハーディは窓へ近寄った。大通りの角まではよく知っている。そこから先も、皇宮へ上る石段なら数えられそうだった。

 横の坂に何があるかは、ほとんど思い出せなかった。


 ◇


 小部屋へ荷物を置き、顔を洗って外へ出ると、日が西へ傾き始めている。

 いつもの角で、ハーディは坂を下った。

 頭上へ張り出した家々の間に洗濯紐が渡され、窓辺の鉢から細い葉が垂れている。大通りより石畳の幅が狭く、荷を積んだ驢馬とすれ違う時には壁へ寄らなければならない。少し下りると視界が開け、屋根の間に海と、斜めに重なる帆柱が見える。

 炭の匂いがした。坂の曲がり角に、庇を広く出した食堂がある。軒先の炉には魚と玉葱を刺した串が並び、その串が、どれもゆっくり回っている。

 ハーディは炉の横で足を止めた。串の端は細い軸へつながり、その上では小さな金属の羽根車が回っている。炉を囲う覆いの内側から、温かい空気が煙突へ抜けている。店主が炭を足すと、しばらくして羽根車の回転が少し速くなった。

 火の強さで回る速さも変わるのか。

「串を回しているのは、上の羽根ですか」

 声をかけると、炉の向こうにいた女が顔を上げた。髪を布で包み、厚手の前掛けを着けている。長い火箸を持った腕は、日に焼けていた。

「そう。炉から上がる熱い空気で回してるんだよ」

「魔石は使わずに?」

「使わない。風が逆に入る日は止まるから、その時は手で回すけどね」

 女は軸の端に付いた小さな取っ手を指した。ハーディは炉から離れた側へ回り、邪魔にならない位置から軸のつながりを見た。

「ずいぶん細い軸ですね」

「太いのは重くて、うまく回らなかったんだってさ。作った職人が、三度取り替えに来たよ」

 ハーディはもう一度、並んだ串を見た。魚の身から落ちた脂が炭へ触れ、短く火が立つ。皮の焼ける匂いが濃くなった。

 火加減を見ながら、一本ずつ返さなくていいのか。炭はどうせ使うんだし、面白いな、これ。

「食べるかい。それとも、まだ見る?」

「食べます。魚を一本と、玉葱を」

「パンも付ける?」

「お願いします」

 空腹まで思い出させてもらった。危うく、焼く仕組みだけ見て帰るところだったな。

 店主は焼けた串を軸から外し、皿へ移した。ハーディは庇の下の長机に座り、焼き魚をパンで挟んだ。皮の端がぱりっと割れ、白い身から湯気が出る。玉葱には甘みがあり、焦げた所だけが少し苦い。

 通りでは、空の籠を重ねた少年が店先へ戻ってきた。女は新しい串を軸へ掛けながら、裏で手を洗うよう声をかける。店の奥からは皿を洗う水音が聞こえた。

「この店、ずっとここですか」

「四年になるね。その前は港の市場にいたけど」

「俺、三年この街に住んでました」

 店主は火箸を止め、ハーディを見た。

「じゃあ、三年分食べ損ねたねえ」

「今、そう思いました」

「もう一本どうだい」

 そこへつながるのか。まあ、うまいけど。

 ハーディはもう一本頼んだ。今度は魚だけで食べ、皿の端に付いた香草の汁を、残ったパンで拭った。


 食堂を出た後は、そのまま港まで下りた。

 夕方の波止場では、入ってきた船の綱が杭へ掛けられ、荷役人が桟橋へ板を渡している。倉庫の陰には網を繕う人々が座り、海と河川の神を祀る小さな祠の前を、濡れた長靴の船員が通り過ぎた。

 皇宮の窓から見た時には、どの船も帆の色くらいしか分からなかった。近くでは、同じように見えた船でも、船腹の丸みや帆の掛け方が違う。帆柱の根元には、太い金具がいくつも巻かれている。

 あれだけ長い木を揺れる船の上で立てるんだから、根元にも何か工夫があるんだろうな。

 荷を運ぶ列が途切れないので、ハーディは桟橋へ入らず、岸壁沿いを西へ歩いた。

 荷役人の手が空いたら聞けそうだけど、今日は馬車の席を取らないとな。

 次の港でも、船は見られるか。

 西門へ向かう途中、衛兵の詰所で、男が掲示板に紙を貼っていた。衛兵募集とある。隣にも同じ貼り紙があったが、新しい方には受付日が二日分増えていた。

「募集、増えたんですか」

「ああ。ヴァレーヌへ帰る連中が、このところ少しずつ増えてな。先週は騎士が一人辞めたし、兵にも退役の手続きをしてるのがいる。うちも空いた持ち場を埋めなきゃならん」

 男は貼り紙の端を押さえ、詰所の中へ顎をしゃくった。

「あそこで帳面をつけてるのもヴァレーヌの出だ。あいつはここに残るそうだがね」

 夜会のことが頭をよぎった。帰る者の中に、あれを聞いて決めた人もいるんだろうか。ハーディは詰所の中をちらりと見た。帳面をつけていた衛兵が顔を上げ、道を尋ねに来た荷運び人に西門を指している。

 帰る人も、ここで続ける人もいるか。俺だって、帰りたいと思ったしな。

 ハーディは貼り紙の前を離れ、西門へ歩き出した。

 西門近くの乗合宿で、翌朝のサン=ロシェ行きの馬車を予約した。受付の男は座席の図へ印を付け、出発は朝の二度目の鐘だと教えた。海沿いの道を進み、途中の宿場で馬を替える便だ。

「大きな荷物は?」

「背負い袋と、小さい鞄が一つです」

「鞄は手元へ。背負い袋は後ろに積む」

 ハーディは頷き、受け取った札を内ポケットへしまった。

 明日の席も取れた。今日は予定通りだな。魚が一本増えたのは、まあ、うまかったから仕方ない。


 ◇


 支部へ戻ると、二階の廊下へ夕日が差し込んでいる。

 小部屋の窓からは、皇宮の塔の上の方だけが見える。前に泊まった時には、夜遅くまで報告書を書き、朝は呼び出されるまで寝ていた。机の横に釘が打ってあり、外套を掛けられることにも、今気付いた。

 ハーディは外套を掛け、机に手帳を開いた。炉の覆いと羽根車、細い軸の位置を、覚えているうちに描きとめた。その横に、女が言っていた職人の試行錯誤も短く書き添えた。

 最初の軸は、どのくらい太かったんだろう。職人に会えたら、そっちも見せてもらいたいな。

 別の紙には、マルチェロへの私信を書いた。もらった杖は山道でも役に立ったこと。銀環の調整はまだ崩れていないこと。それから、今日の食堂の場所を簡単な略図にした。

 魚の話ばかりになるけど、先輩も食べる物には困らない方がいいだろ。

 書き終えた紙を畳み、翌朝、書類便へ一緒に入れてもらうため、荷物の上へ置いた。

 窓の外で鐘が鳴った。坂の下では店の庇が畳まれ始め、夕日を受けていた壁が、一軒ずつ影へ入っていく。

 ハーディは靴を脱ぎ、寝台へ横になった。

 明日の朝は、皇宮と反対の西門へ向かう。道順を頭に描くと、その途中に今日見つけた食堂もある。

 朝は串焼きを出してないだろうけど、今度通る時には寄れるな。

 三年いたんだから、知ってるつもりだったんだけどな。

 窓から入る風が、机の上の手帳を一枚めくった。ハーディは起き上がって頁を押さえ、窓を少し狭めた。港から聞こえる声も遠くなる。

 次の町では、どの道を歩こうか。

 考えながら寝台へ戻り、今度は明かりを消した。


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