第10話 渡した仕事は取り返しません
翌朝、ハーディがベルメール支部の食堂で朝食を取っていると、クレールが訪ねてきた。
窓から朝の港が見える。薄い霧の中を漁船が戻り、埠頭では夜便の荷を降ろす鐘が鳴っている。食堂には焼いた平パンと魚のスープの匂いが満ち、ハーディの皿には半分に切った卵が残っていた。
クレールは昨日と同じ灰色の上着を着ているが、黒髪の端が少し乱れていた。夜まで記録を確認していたらしい。手には封をした書類袋を持っている。
「出発前に、追加で一つだけ確認を」
「朝食を食べながらでよければ」
「構いません」
向かいの席へ座り、書類袋から三枚の写しを出した。
一枚目は、問題の素材へ付いていた品質証明。二枚目は港の入荷記録。三枚目は南方商会からベルメールへ送られた積荷の明細だった。
「証明印は本物でした。ただし、証明を受けた荷と、店へ届いた荷の重量が合いません」
「途中で増えていますか」
「港へ入った時より、共同倉庫から出た時の方が腱糸三箱分多い」
「荷が勝手に増えることはないですね」
「減るなら鼠か盗難で説明できるんですが」
食べる鼠はいても、箱へ詰めて増やす鼠はいないだろうな。
ハーディは匙を置き、二枚目と三枚目の重量欄を指で辿った。
同じ荷なのに、三箱も増えるのか。端数を間違えたって量じゃないぞ。
「増えた三箱にも、同じ証明番号が付いているんですか」
「はい。そこが一致しています」
「それなら、倉庫で別の荷を足した?」
「可能性の一つです。帳面の誤記、別便との混同、入港前の申告漏れも調べます。今の段階では決めません」
どこかから三箱持ってきたのか、どこかで書き忘れたのか。前後の記録を比べれば、もっと絞れそうだな。腱糸だけ見てた時より、確かめる場所が見えてきた。帳面も森の足跡みたいに、追った先で増えそうだけど。
「大禍の山の集荷所には照会を出しました。箱が本当にそこから来たか、最近同じ素材をどこへ出したか確認します」
「返事はすぐには来ません」
「分かっています。だから、あなたを待たせません」
ハーディはスープを一口飲んだ。
「追加で確認したいのは、山蜥蜴の腱が危険物かどうかです」
「普通に使う分には危険ではありません。罠、弓具、荷紐には使えます。火蜥蜴の腱ほど熱に強くないので、耐熱素材として炉や防火具へ使うのが危ないんです」
「販売済みの品を全部回収する必要は?」
「火蜥蜴の上等品として売られた分は、用途を確認した方がいいです。普通の紐として使われているなら、急いで捨てる必要はありません」
「分かりました。危険度を分けて告知します」
全商品を一斉に危険物扱いすれば、必要のない混乱が起きる。反対に、単なる産地表示の問題だと軽く見れば、耐熱性を当てにした道具が事故を起こす。
使い方ごとに分けるのが一番手間なんだよな。でも、後始末は一番少なくて済むか。
「それと、これは市場組合からです」
クレールは小さな紙包みを机へ置いた。
中には、黒赤色の腱糸が二束入っている。
「検査済みの火蜥蜴の腱です。旅外套の留め紐を探していたのでしょう」
「代金は?」
「昨日の聞き取りへの謝礼として組合が出しました」
「一泊分も欲しいところです」
「それは宿へ交渉してください」
「言ってみただけです」
もらった腱糸は、表面から細い繊維が密に重なっている。曲げても灰白色の筋は出ない。
今度は表示通りみたいだな。
クレールは立ち上がり、書類を袋へ戻した。
「以後はこちらで調べます。大禍の山との関係が確認できれば、ヴァレーヌ当局とアルカン塔へ報告します」
「お願いします」
「結果の送り先は、塔の本部でよろしいですか」
「はい。混ざった理由と、この染料が普通に使われているものかも知りたいです」
クレールは書類袋へ手を掛けたまま、眉を上げた。
「染料も?」
「色を揃えただけなのか、別の加工のついでにこうなったのか、気になったので」
「覚えておきます。本当に、よく見ていますね」
そう言って、クレールは少し笑った。
「それでは、よい旅を」
「ありがとうございます」
検査官が去った後、ハーディは残っていた卵を食べた。
誰が混ぜたのかも、染料が何かも、まだ分からないか。まあ、結果が届けば続きを聞ける。質問は二つ増えたけど、調べる人も決まってるんだし、今日は出発だな。
昨日は見ただけのつもりで一泊延びたんだよな。大抵、見ただけじゃ済まないけど。今日はせめて、出発前に市場へ寄らないでおこう。
◇
帝都ヴァルディエ行きの馬車は、昼前にベルメールの北門を出た。
海から吹く風が城壁の旗を鳴らし、門の外には内陸へ向かう荷車が列を作っている。ハーディは後方の席へ座り、補修した外套の留め紐を確かめた。黒赤色の腱糸は強く引いても伸びず、結び目も緩まない。
今度は大丈夫そうだな。
同じ馬車には、帝都へ商品見本を運ぶ商人と、休暇帰りの役人、幼い子を連れた夫婦が乗っている。馬車が街道へ出ると、商人と役人は早速、帝都の噂を始めた。
「皇太子殿下が視察を切り上げて戻られたそうだ」
「第二皇子殿下の件だろう。婚約だけならまだしも、アルカン塔との契約まで切ったんじゃな」
「新しい塔の魔術師が来るという話もある」
「前の担当はどうした」
「夜会の翌朝には宮廷を出たらしい」
本人が同じ馬車にいるとは思わないよな。
ハーディは窓の外を見た。
海は少しずつ遠ざかり、街道の両側には低い林と畑が広がっている。帝都までは数日。到着したらアルカン塔の帝都支部へ立ち寄り、巡回の連絡とベルメールの報告を送る。
宮廷へ戻る予定はない。
「派遣契約を結び直すなら、宮廷の設備も全部見直しになるんじゃないか」
「魔法大臣の責任も問われるだろう。しばらく揉めるぞ」
役人は気の毒そうに首を振った。
大変そうだなあ。
以前なら、設備一覧か契約資料の確認が自分へ回ってきたかもしれない。今はマルチェロと、帝国側の担当部署がいる。
先輩は、契約書の何行目から始めるんだろうな。結果は聞きたいけど、あの机には戻らないぞ。俺の席は、もうこっちだ。
ハーディは揺れる座席へ背を預けた。
馬車が最初の坂を上る。振り返ると、ベルメールの白い城壁と帆柱が、海の光の中へ小さくなっていく。
素材の調査はベルメールに残した。
次は帝都ヴァルディエである。
故郷はまだ遠い。
それでも、道はきちんと西へ続いていた。




