16話:ない袖は振れない
※挿絵にAI生成イラスト画像を使っています。苦手な方はご注意ください。
醤油が買えない。
仕事帰りに市場の端へ寄ると、いつもの親父の露店の前に人が集まっていた。
列ではない。みんな札の前で立ち止まっているのだ。
小瓶の値札が書き換えられていた。銅貨十枚の上に線が引かれて、その横に三十枚。
しかも台の端には木の札が下がっている。
売り切れ。
「……親父さん、これどうしたんですか」
「どうもこうもねえよ。王都のハーゲン商会がな、注文を取りすぎたらしい」
「注文?」
「酒場だの料理屋だのから山ほど予約が入ってな。うちに回す分はもうないとよ」
「次の分はいつ入るんですか」
「樽が開くのは春だとさ」
「春」
「らしいぞ。俺はもう黒だれはやめだ。他のもんを売ることにするさ」
今は収穫祭が終わったばかりの秋だ。
春まで、あと半年近くある。
帰り道、俺は頭の中で状況を整理した。
醤油は仕込んでから熟成まで、半年から一年かかる。すぐには増やせない。
それなのに、酒場や料理屋から注文が殺到した。
樽の底が醤油を唐揚げに使いはじめてから、よその店も真似をしたのだろう。唐揚げに醤油は、それくらい強い。
……待てよ。
樽の底に醤油を持ちこんだのは誰だ。調子に乗って使い道を十個も教えたのは誰だ。
黒だれブームに火をつけたのは、たぶん俺だ。そう考えるとなんだか申し訳ない。
とはいえ、実際に注文を受けたのは商会だ。手元の樽で足りるかどうか、確かめないまま注文を受けたのが悪いわけで……。
そう自分に言い聞かせておく。
前世でもよくあった話だ。限定品の予約を受けすぎて、発送が半年遅れる通販とか。営業が張り切りすぎて、納期が死ぬほど短くなった案件とか。
なぜか俺も、お詫び行脚に同行させられたっけな。
ハーゲン商会の若旦那は、作るのに一年かかるものを、売れるだけ売ってしまった。
五年後の市場を語っていた男が、目の前の在庫を数えていなかったわけだ。
「全社展開も考えてみてよ」と言われて浮かれた夜の俺と同じだ。こっちが恥ずかしくなるくらいには。
あいつは転ぶ。そう思ったのは間違いじゃなかった。
ただ、思っていたより派手に転びそうなんだよな。
おだてられて木に登った豚は、よっぽど上手く降りないと大惨事になる。前世の俺が証拠だ。
◇ ◇ ◇
樽の底に入ると、カウンターで常連のおじさんが文句を言っていた。
「おいドルフ、黒いのはどうした。黒いのがねえと物足りねえよ」
「もうほとんどない。もったいなくて使えねえ」
「あるなら使えよ」
「じゃあ唐揚げの値段、三倍な」
「……塩でいいや」
ドルフは黙って唐揚げに塩を振った。
俺もカウンターの端に座って、同じものを頼んだ。塩の唐揚げだ。これはこれでうまい。
うまいけど、一度醤油を思い出した舌には何かが足りない。
「……お前」
ドルフが低い声で言った。
「あの若旦那に、何か言えねえのか」
「知り合いじゃないですよ」
「そうか」
「そうです」
「お前なら、ああいう奴の考えることがわかりそうな気がしたんだがな」
返事が出てこなかった。
わかりすぎるくらいわかる。
でも、それを言うわけにはいかない。
俺は気まずくなって、残りの唐揚げを包んでもらった。
◇ ◇ ◇
帰り道、ろうそくと塩を買いにベルタさんの店へ寄った。
ベルタさんの店でも、少し前から醤油の小瓶を置くようになっていた。帳場の横の、一番目立つ棚だ。
その棚が空っぽになっていた。
「ああ、あんたかい。黒だれならないよ」
「入ってこないんですか」
「こないねえ。常連さんから、次の分の予約までもらってたのにさ」
ベルタさんは空の棚を見て、ため息をついた。
「楽しみにしてたお客さんに、謝ってばっかりだよ。あたしが作ったわけでもないのにね」
「……大変ですね」
「まあ仕方ないさ。ほら、ろうそくと塩ね。刻み目入れとくよ」
割符に刻み目が一本増えた。
ろうそくと塩を受け取って、店を出た。
約束しすぎたのは王都の商会だ。でも頭を下げているのは、この街の小さな店だ。
ドルフには世話になりっぱなしだ。唐揚げしかり、三人組の夜しかり。
ベルタさんにもお世話になっている。あの店が続いてくれるだけで、俺の暮らしはずいぶん楽になる。
困ってるのは顔の見えない誰かじゃない。俺の恩人たちだ。
あの若旦那は、それを知っているんだろうか。
下宿に戻って、包んでもらった唐揚げを食べた。
うまい。普通にうまい。
でも、ちょっとまずいな。
味じゃなくて、状況が。
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