11話:醤油があった
※挿絵にAI生成イラスト画像を使っています。苦手な方はご注意ください。
この世界に醤油はない。
……はずだった。
休日の市場はいつも通りにぎやかだった。朝はよく冷えるようになったが、昼になればまだ日差しが暖かい。
野菜を値切る声。ホウホウ鳥の鳴き声。どこかの屋台で焼いている肉の匂い。
その端っこに見慣れない露店が出ていた。
台の上に手のひらほどの小瓶がずらりと並んでいる。中身は黒い。光に透かすと、少しだけ赤っぽい。
……そんなバカな。
「これ、何ですか」
「黒だれだよ。料理にちょっと垂らすと、味がぐっと締まる」
「黒だれ」
「王都で仕入れてきた品でね。なんでも、向こうの商会の若旦那が考えたんだとさ」
「へえ……」
「舐めてみるかい?」
差し出された木の匙を、震える手で受け取った。
ひと舐めする。
しょっぱい。そして奥の方に丸い旨みがある。
醤油だ。
唐揚げを作ったとき、手の届く範囲は一通り探した。探しても探しても見つからなくて、塩と沢ニラでどうにかごまかしたのだ。
なかったはずの醤油が目の前にある。
香りは少し弱い。塩気は少し強すぎる。でも、間違いなく醤油だった。
「……一本ください」
「毎度。銅貨十枚ね」
塩ひと袋のだいたい三倍の値段だった。
普段の俺なら、絶対に買わない。楽して安く暮らすのが俺の生き方だからだ。
でも醤油は別だ。唐揚げと同じ枠である。
気づいたら、財布を開いていた。
◇ ◇ ◇
下宿に帰って、小瓶の栓を抜いた。
懐かしい匂いがした。前世の台所の匂いだ。
指につけて舐めて、もう一度舐めて、三回目で我に返った。
……待て。
これ、誰が作ったんだ?
この世界の誰かがたまたまこれにたどり着いた。そう考えるには、味がよくできすぎている。
こういうときこそ、質問の型だ。
《醤油を一から作るには、何が必要で、どれくらいの期間がかかりますか。簡潔に。わからない点は、わからないと書いてください》
《主な材料は、大豆、小麦、塩、そして麹菌です。大豆は蒸し、小麦は炒って砕きます。それらに麹菌を繁殖させて麹を作ります。麹を塩水に仕込み、半年から一年ほど寝かせて熟成させます。温度や清潔さの管理が、品質を大きく左右します》
麹。半年から一年。
つまりこれを作った誰かは、麹という仕組みを知っていた。しかも一年がかりで仕込む準備をしていたことになる。
待てよ。麹菌ってたしか日本独特のものじゃなかったか。
気になったので、もう一問使った。
《麹菌は日本以外にもいますか。日本の麹菌がない環境で、醤油に近い調味料を作ることはできますか。簡潔に。わからない点は、わからないと書いてください》
《醤油づくりに使われる麹菌は、日本で長い年月をかけて選び抜かれてきたものです。一方で、カビの力を使った発酵は中国や朝鮮半島でも古くから行われています。適したカビを見つけ、温度と清潔さを保てれば、醤油に近い調味料を作ることは可能です。なお、お住まいの地域にどのような菌がいるかは、わかりかねます》
つまり、できなくはない。でも、狙ってやらなければまず無理だ。
どんなカビを探せばいいのか。どれくらいの温度で、何ヶ月寝かせればいいのか。答えを知っている人間でなければ、何年かかるかもわからない賭けになんて出られない。
鍋に何かを放りこんで、たまたまできた。そういう代物じゃない。最初から醤油を作るつもりで作っている。
前世で醤油蔵の職人でもやっていたのだろうか。それとも転生特典か。
念のため、裏も取っておく。
この世界のことはこの世界の人に聞くのが一番だ。キノコで学んだ。
「おばあさん、この黒だれって昔からありました?」
「黒だれ? どれどれ」
大家のおばあさんは小瓶をのぞきこんで、首を横に振った。
「そんなもん、この辺じゃ見たことないね。最近急に出回りはじめたんだよ」
「そうですか」
「なんだい、あんたも買ったのかい。高いのに」
「……つい」
おばあさんにあきれられた。
でも、これでほぼ確定だ。
俺以外にも、前世の知識を持っている誰かがいる。
普通なら、喜ぶところだと思う。
同じ世界から来た仲間がいる。話が通じる相手がいる。醤油で飯がうまくなる。他の調味料も作ってくれるかもしれないしな。
でも俺の頭に最初に浮かんだのは、別のことだった。
そいつが目立てば目立つほど、「妙な知識を持った人間」が世間の話題になる。
そうなれば、同じような人間を探そうとする者も出てくるかもしれない。領主様とか、王都の偉い人とか。
探されたら、見つかるかもしれない。普通の臨時書記であるはずの俺が。
俺の平穏にとって一番の危険は、俺より目立つ転生者だ。
とはいえ。醤油には何の罪もない。
◇ ◇ ◇
俺は小瓶を懐に入れて、樽の底へ向かった。
「唐揚げ、一皿ください。あと小皿もお願いします」
「おう」
揚げたての唐揚げが出てきたところで、小瓶を取り出した。小皿に黒い液体をとろりと垂らす。
「なんだこの黒い水は」
「気になります? つけて食べてみてください」
「……変なもんじゃねえだろうな」
「大丈夫です。今回は、ちゃんと裏を取ってあります」
ドルフは疑わしそうに唐揚げを一つつまみ、黒だれにちょんとつけて口に放りこんだ。
しばらく黙って噛んでいた。
「……おい。これ、どこで売ってた」
「市場の端の露店です。王都の商会から仕入れたんだとか」
「店で使いたい」
唐揚げのときとまったく同じ流れだ。
ただ今回は俺が考えたものじゃない。名前を伏せてくれと頼む必要もない。気が楽だ。
「一本、いくらだ」
「銅貨十枚でした」
「……結構するな」
ドルフが低くうなった。
「唐揚げ一皿に、どれくらい使う」
「ちょっと垂らすくらいなら、一本で二十皿はいけるかと」
「なるほどな。……考えとく」
ドルフは腕を組んで、厨房の方をにらんでいた。頭の中で計算盤を弾いているらしい。
「これ、塩の代わりに下味をつけるのにも使えそうですね」
「……ありだな」
「あと、焼いた肉に塗ってから炙ると香ばしくなりますし、豆の煮込みに少し垂らしても化けますよ。それから——」
「おう」
「卵焼きに入れても、魚を煮るときにも」
「おう」
ドルフが相づちを打つたびに、口が勝手に回る。
気づけば、醤油の使い道を十個は並べていた。
……あれ。
俺、さっき何て言ってたっけ。
俺の平穏にとって一番の危険は、目立つ転生者。
その転生者の商品を、頼まれてもいないのに使い道まで添えて売りこんでいるのは、どこの誰だ。
調子に乗る癖は、死んでも治らなかった。どうやら、うまいものを前にしても同じらしい。
まあいい。いや、本当はよくない。でも、醤油はうまい。差し引き、わずかに黒字ってところか。
皿に残った唐揚げに、俺はたっぷり醤油をつけた。
ざくっとした衣に黒い塩気がしみこんでいく。
ぱくりと一口で頬張る。
うまい。
うますぎて、怖い。
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