第八話「俺の知ったこっちゃない」
来た。
なに…?
今日は、黒髪だ…。
嫌な予感がした。根拠はない。黒髪が悪いわけではない。黒髪の者が何か悪いことをしたわけでもない。私は黒髪に恨みがない。恨みがないのに、嫌な予感がする。これは偏見か。偏見だとしたら私は黒髪に謝罪すべきか。謝罪する手段がない。謝罪する手段がないまま偏見を抱いている。最低だ。しかし嫌な予感は消えない。消えないということは、これは偏見ではなく予感だ。予感と偏見の違いは何か。的中するかどうかだ。つまり今日この黒髪が何事もなく薬草を持ち帰れば私の偏見であり、何か起きれば私の予感だったということになる。今日が終わるまで、私は自分が偏見の持ち主かどうか分からない。裁判で言えば判決未決定のまま被告席に座り続けている状態だ。不快だ。非常に不快だ。
それより今日で、一、〇四八、五七六回目だ。
待て。今何と言った。私が今何と言ったか、聞こえたか。
一、〇四八、五七六回目だ。一、〇、四、八、五、七、六。七桁だ。七桁の薬草依頼を、私はこなしてきた。七桁。百万を超えている。超えているどころではない。今朝、目を覚ます…いや、覚まさないが、夜明けと同時に、この数字が私の中に座っていた。おはようとも言わずに座っていた。なぜこの数字を知っているのか、分からない。なぜ今日がその日なのか、分からない。ただ確かに、ある。岩のようにある。七桁の岩が、夜明けから私の胸の上に乗っている。倒れている者の胸の上に岩が乗っている。これを踏んだり蹴ったりと言わずして何と言うか。設計者に問いたい。問えないが。
動揺した。
動揺するな、と自分に言い聞かせた。言い聞かせた直後にまた動揺した。一〇四八五七六、と改めて眺めると、やはりどう見ても普通の数字ではない。百万回以上、同じ十七文字を言ってきた。この事実を誰かに伝えたい。伝える相手がいない。しかし伝えたとして、何になるのか。「すごいですね」と言われたいのか。百万回薬草を頼んだことの、どこがすごいのか。すごくない。全くすごくない。ただ倒れていただけだ。百万回倒れていただけだ。これを偉業と呼ぶ者がいるとしたら、その者の偉業の基準を一度拝見したい。表彰状でもあるのか。「百万回薬草を頼んだ男」。飾りたくない。飾る壁がないが。
やめた。考えるのをやめた。今日も倒れている。今日も頼む。今日も終わる。七桁だろうと八桁だろうと、やることは同じだ。黒髪への嫌な予感も、七桁の岩も、今日が終われば消える。消えるはずだ。消えてくれ。
黒髪が近づいてくる。
まっすぐに来る。迷わない。目がきらきらしている。希望に満ちた目だ。黒髪でも目の条約は有効らしい。目だけは金髪と同じだ。この一点において、私の黒髪への嫌な予感は若干後退した。若干だ。撤回はしない。
左の木の根をまたぐ。石の横を回る。私から二歩手前で少し速度が落ちる。全部知っている。全部、一〇四八五七五回見た。この者は知らないが、私は知っている。お前の次の一歩がどこへ落ちるか、私は知っている。お前が次に何を言うか、私は知っている。知っていることを知らないお前が、今日この瞬間だけは少し羨ましい。
私は口を開く。
「薬草を取ってきてくれ・・・」
止まった。
止まったのだ。
口が、止まった。
「くれないか」の手前で、止まった。これは私の意志ではない。意志があってそうしたのではない。しかし止まった。「くれ」まで出て、その先が、出なかった。出ようとして出なかったのでもない。出る前に、何かが、詰まった。百万回分が、詰まった。
嫌な予感とはこのことか。
黒髪が私を見ている。怪訝な顔をしている。当然だ。いつも十五文字のはずが、今日は九文字で止まっている。システムとしておかしい。私もおかしいと思う。おかしいと思っているのに、続きが出ない。「ないか」という三文字が、もうどこにもない。百万回あったはずのそれが、今日に限って、ない。よりにもよって一〇四八五七六回目に、ない。これが七桁の岩の正体だったのか。朝からずっと私の胸の上に乗っていた岩は、この瞬間のための前置きだったのか。前置きが長い。百万回分の前置きは、いくらなんでも長い。
沈黙が続いた。
黒髪がさらに怪訝な顔になった。
沈黙が続いた。
私の口が、開いた。
「俺の知ったこっちゃない」
言った瞬間にわかった。
最悪だ。
一、〇四八、五七五回分の沈黙の重みに対して、これか。これが私の魂の叫びか。百万回の呪縛が解けた瞬間の第一声がこれか。居酒屋の親父でも言う。いや言う。言うからこそ最悪だ。文学的でも哲学的でも英雄的でもない。ただの、面倒臭そうな中年男の捨て台詞だ。私の初めての自由な言葉が、これだ。百万回待った末の、これだ。もう少し何とかならなかったのか。なぜこれなのか。これしかなかったのか。これしかなかったのだろう。それが余計に最悪だ。
笑いが、出た。
おかしかった。おかしくて仕方がなかった。腹の底から何かがせり上がってきた。笑ったことがない。生まれて一度も笑ったことがない。しかし今、笑っている。止まらない。最悪の第一声に、自分で笑い転げている。倒れたまま笑い転げている。倒れたまま笑い転げるとはどういう状態か、言葉にしようとして、また笑えてきた。
黒髪が、走って去った。
当然だ。目の前のNPCが突然おかしなことを言い出して笑い始めたのだ。逃げて正解だ。正しい判断だ。賢い黒髪だ。嫌な予感は的中した。つまりあれは偏見ではなく予感だった。私は偏見の持ち主ではなかった。無罪だ。私の中の法廷は全会一致で無罪を宣告した。笑いながら無罪になった男は、世界広しといえど私だけだろう。
笑いが少しずつ落ち着いてきた。
静かになった。
視界に、茂みが映った。
薬草が三本、ある。
ずっとそこにあった。百万回分の間、ずっとそこにあった。取りに行けなかった薬草が、今日も三本、ある。
私は今日も倒れている。
ただ、今日の「倒れている」は、明日も続くのかどうか。
まだ、わからない。わからないが、足がある。機能しているかどうかは分からないが、少なくとも外見上は、ある。
茂みまでの距離を、私は今日初めて、測った。




