第三話 始まりの村で、私だけが始まらない
私は今日も倒れている。
以下省略——とは書けない。いつかは書きたいが今日は書けない。今日はパクス王国について考えていたからだ。
パクス王国。私が倒れているこの国の名前だ。ラテン語で「平和」を意味するらしい。らしい、というのは私が自ら調べたわけではなく、自分のプログラムコードのどこかにそういう設定が書いてあったのを読んだからだ。私はコードが読める。これが恩寵か呪いかについては、また別の機会に述べる。
平和の国。
その最北端で、私は今日も倒れ続けている。
平和とはつまり、放置だ。
誰も攻めてこない。誰も守りに来ない。誰も改善しに来ない。平和という名のもとに全てが現状維持される。私はその「平和」の最も純粋な体現者として、今日も地面に横たわっている。パクスの最北端で、最も平和に放置されている男が私だ。国王陛下に感謝状でも贈りたい。贈る手段がないが。
今日も来た。
また金髪だ——と思ったが、よく見ると少し違う。茶色がかっている。金髪条約に例外規定が設けられたのかもしれない。進歩だ。消極的に評価する。
ただ、目は同じだ。あの目だ。希望に満ちた、きらきらした目。金髪条約は解除されつつあるが、目の条約はまだ生きているらしい。この世界の外交は複雑だ。
近づいてくる。今日の者は迷わない。まっすぐに来る。そこだけは評価する。
「薬草を取ってきてくれないか。礼はする」
私の口が言う。完璧だ。今日も正確だ。金髪条約が揺らいでも、私の台詞は揺るがない。この世界で最も安定しているものは何か、と問われれば私はためらわず答えられる。私の台詞だ。戦争が起きても魔王が現れても、この台詞だけは不変だ。どういう誇り方をしているのか自分でも分からないが、これしかないので誇っておく。
茶色がかった者が何か言って、茂みへ駆けていった。今日も迷わない。
いい。率直に、いい。
しばらくして、茶色がかった者が戻ってきた。
薬草を三本持っている。今日も三本だ。
しかしこの者は、私のそばに来なかった。
来なかったのだ。
私から三歩ほど手前で止まった。薬草を見て、私を見て、薬草をもう一度見た。そして——地面に、そっと薬草を置いた。
立ち上がり、去っていった。
「薬草を持ってきてくれたか。助かった」
私の口は、言わなかった。
言えなかった。
言う相手が、いなかった。
初めてだ、と思った。
断られたことはない。無視されたことはない。薬草を持たずに去られたこともない。しかし今日のこれは——断られてもなく、無視されてもなく、薬草は確かに届いている。ただ、私の台詞の相手だけが、いなかった。
これは、クエスト完了なのか。
私は自分のシステムを確認しようとした。クエスト完了の条件は何か。「薬草を持ってきてくれたか。助かった」という台詞を言うこと、なのか。それとも、薬草が手元に届くこと、なのか。
分からない。
分からないのだ。
私はこれまで、何百回も同じ流れを繰り返してきた。誰かが来る、頼む、取ってくる、礼を言う、去る——この流れが崩れたことはなかった。今日初めて、流れに穴が開いた。薬草は来た。しかし台詞が出なかった。
これを何と呼べばいいのか。
引っかかりに名前をつけようとして、やめた。名前をつけると、実在することになる気がした。気がした、というのも変な話だ。NPCに「気がする」があるのか。あるのかもしれない。あってはいけないのかもしれない。
どちらでもいい、と思った。
思った瞬間、そのどちらでもよさが少し珍しかった。
地面に置かれた薬草が三本、私のそばにある。手を伸ばせば届く位置だ。足があれば立てる距離だ。
私は今日も倒れている。
ただ——今日の倒れ方は、昨日とほんの少しだけ違う気がした。
何が違うのか、うまく言葉にできない。言葉にできないことを、私ははっきりと認識している。この認識する機能がいつも余計だと思う。今日もそう思う。
ただ今日だけは——余計でよかった、と思った。
平和の国の最北端で、私は今日も倒れている。




