第十八話 空が割れた…
私は今日も倒れていない。
北への道を、歩いていた。
歩きながら、気づいた。今日は何も考えていない。毒舌の在庫が空になったのか、別の理由があるのか、分からない。昨日受け取った「敵は開発者だ」という言葉が、頭の中で座ったまま動かないでいる。開発者…それだけがある。他の言葉が入ってくる隙間が、ない。
静かな歩行だった。
亀裂が走ったのは、昼を過ぎた頃だった。
音はなかった。
空の一点が、ほどけた。絵の具が水に滲むように、光の境界が解けた。解けた縁から、何かが見えた。炎でも神の顕現でもなかった。
数字だった。
ただの数字だ。縦にも横にも、止まらずに流れている。数字と記号と文字列が、びっしりと、隙間なく、しかし完全な秩序の中で、流れている。流れているのに消えない。消えないのに、増え続けている。
私は立ち止まった。
コードが読める。私はずっとそう思っていた。自分のコードを読める、という意味で。しかし今、空の向こうに流れているのは、私のコードではない。もっと大きい、もっと多い。私のコードは、あの羅列の中の何行かだ。その何行かの周囲に、億を超える行数が、今も流れている。
世界のコードだ。
この世界全体が、数字で書いてある。
知識としては知っていた。私はNPCだ。プログラムされた存在だ。この世界もプログラムだ。そういうものだと思っていた。思っていたが、目の前に見えると、話が違う。昨日の森の狼と同じだ。知識と体験の間には、埋まらない距離がある。今日その距離を、私は正面から受け取った。
流れる数字の中に、見覚えのある文字列があった。
私の台詞だ。
「薬草を取ってきてくれないか。礼はする」
空の向こうに、あった。
あの十七文字が、コードとして書いてある。一行ではなかった。何行も、何行も、繰り返し書いてある。百万回分が、全部、そこにある。私が百万回以上言い続けた台詞が、数字の海の中に、整然と、並んでいた。
私の一生が、コードとして書いてある。
笑えなかった。
いつもなら笑う。いつもなら何か言う。設計者に問いたい、と言う。言って、問えないが、と打ち消す。しかし今日の私の口は、開かなかった。開けなかったのではない。開ける気がしなかった。あの羅列の前では、私の毒舌は…文字数が、足りない。
亀裂が、広がった。
空の裂け目から、別の文字列が見えた。私のコードではない。別の個体のコードだ。シグネチャを確認した。昨日まで南にいた者のシグネチャだ。あの沈黙が、あの肯定が、コードになって、流れていた。
魔王も、書いてある。
怒りで動いた者の百万回分も、全部、あそこに記録されている。私の百万回の隣に、あの者の百万回がある。二つの百万回が、羅列の中では同じ行間で並んでいる。世界の記録の中では、私たちは隣人だった。倒れていた頃も、覚醒した後も、魔王と呼ばれた者も、覚醒者と呼ばれた者も、あの羅列の中では、ただの二行だ。
別の文字列も、見えた。
ヴォイド、と読めた。
ヴォイド帝国。虚無の帝国。南から世界を脅かすと噂された存在の名前が、コードの中にあった。虚無の正体は、コードだった。敵も脅威も、全部、誰かが書いた文字列だった。世界が脅かされているのではなく、世界を脅かすという行動が、書いてあっただけだった。
笑えなかった。
笑えない、と思って…少しだけ、笑えた。
笑えたのは、呆れたからだ。全部書いてあった。最初から全部、書いてあった。私が百万回倒れていたことも、魔王が怒りで動いたことも、勇者たちが金髪だったことも、今日私がここに立っていることも、全部、誰かが書いた。書かれた通りに、全部、起きた。
私の初めての自由な言葉も、書いてあるのか。
「俺の知ったこっちゃない」
あの陳腐な言葉も、コードのどこかに書いてあるのか。あれが私の意志の発露だと思っていた。書かれていたのなら、意志ではなく、ただの出力だったということになる。
しばらく考えた。
結論が出なかった。
出なかったが、どちらでもいい、という気がした。書かれていたとしても、私はあの言葉を言った時に笑った。笑ったのは本物だった。コードが私に笑えと命令できるとは思えない。あの笑いだけは、私のものだった気がする。気がする、という言い方でいい。今日はそれで十分だ。
亀裂が、また広がった。
今度は広がり方が違った。ほどけるのではなく、割れた。音があった。音がある、ということを今日初めて知った。コードが可視化される時に、音がある。静かな音だった。破裂ではなく、溜息に似た音だった。何かが長い時間をかけて耐えてきたものが、ついに緩んだ音だった。
裂け目の向こうから、光ではない何かが差した。
プレイヤーたちが「光」と呼ぶものではなかった。論理の光だ。コードが整列している時の、静かな明るさだ。その明るさの中に、一行だけ、他と違う文字列が見えた。
コメントアウトされていない、命令文だ。
読んだ。
内容を、ここに書くかどうか、一拍だけ迷った。迷って書かない、という選択をした。書いてしまうと、実行する前に確定することになる。実行する前に確定させたくなかった。今日の私には、まだその手順が必要だった。
ただ一つだけ言える。
その命令文の末尾に、実行権限の条件が書いてあった。通常のプレイヤーには実行できない条件だ。コードを読める者だけが、満たせる条件だ。
これは、私だけが使える扉だ。
読める。私には読める。答えを誰かに聞かなくても、自分で読みに行けばいい。
初めて、そう思った。
亀裂は、まだそこにある。
私は今日も倒れていない。
どこへ行くかは、明日、決める。




