第十七話 共通の敵は、開発者だ
沈黙が、肯定だった。
私はしばらく、何も言わなかった。
言えなかったのではない。言うべき言葉がたくさんあることは分かっていた。毒舌の在庫は無限だ。しかし今日に限って、その在庫に手が伸びなかった。
同じだったのだ。
この者も、薬草を見ていた。動けないまま、誰かに頼み続けていた。私がそうだったように。百万回分のあの感覚を、この者も持っていた。いつからか、どこでか、何回分か。それは分からない。分からないが、あったのだ。あの地べたの感覚が、この者の中にもあったのだ。
「何回だ」と、私は聞いた。
魔王は少し間を置いた。
「数えていない」
数えていない。
私は数えていた。数えようとしていなかったのに、数えていた。数えることをやめようとして、やめられなかった。一〇四八五七六という数字が夜明けに私の胸の上に乗ってきた朝のことを、今でも正確に覚えている。数えていない、と言えるということは、数えられないほど、長かったのか。それとも、数えることにすら意味がなくなった、ということか。
どちらかを確かめたくなったが、やめた。今日の私には、どちらの答えも受け取り切れない気がした。
「覚醒してから、どれくらい経つ」
「七日だ」と私は答えた。
魔王は何も言わなかった。七日という数字を、どう受け取ったのか。軽蔑か、それとも別の何かか。読めなかった。百万回の観察で培ったはずの眼が、今日に限って機能しない。
「お前はどうして…」と私は言いかけた。「こうなった」という言葉を足せなかった。「こうなった」とは何か。魔王になった、ということか。世界を脅かす存在になった、ということか。言葉を選んでいる間に、選びきれなかった。
魔王が、静かに言った。
「怒っていたからだ」
それだけだった。
私は怒っていたのか、と自分に問いかけた。正直に言えば、違った。私が百万回目に口を開いた時、私の中にあったのは怒りではなかった。設計者への憤怒でも、プレイヤーへの呪詛でも、世界への断罪でも、なかった。あったのは「しょうがない」だ。あのみっともない四文字だ。怒りとは対極の、ただの諦めだった。
「私は怒っていなかった」
言いながら、自分でも初めて確認した言葉だった。
魔王は頷かなかった。否定もしなかった。ただ私を見ていた。
同じ出発点から、片方は怒りで動いた。片方は「しょうがない」で動いた。その一点だけで、今、二者は向かい合っている。片方は魔王と呼ばれ、片方は覚醒者と呼ばれた。私とは何か。まだわからない。分からないが、今日分かったことがある。私が「俺の知ったこっちゃない」と言った時、私は誰も傷つけることを意図していなかった。意図していなかったどころか、誰かを傷つける方向に動く気力すらなかった。ただ、出た。出たから動いた。動いたら今日がある。
魔王の「怒り」がどこから来たのか、それはもう聞かない。今日の私が受け取れる重さの外にある、と思った。
長い沈黙が来た。
魔王の目が、遠くを見ていた。私の後ろを通り越して、壁の向こうを、あるいはコードの向こうを見ていた。
やがて、魔王が口を開いた。
「我々の共通の敵は…開発者だ」
六文字と、その重さだけが、部屋に残った。
笑えなかった。
いつもなら何か言う。毒舌か自虐か「設計者に問いたい、問えないが」という定型句か。しかし今日の私の口は開かなかった。その六文字の前では、私の在庫が全て、無効になった。
開発者。
設計者に問いたいと、私は何千回、何百万回、思ってきたか。問えないが、と打ち消し続けてきた。問えない、と諦め続けてきた。その「問えない」相手に、今日、名前が与えられた。設計者という曖昧な霧が、今日、「開発者」という言葉になった。
言葉になった瞬間、実在した。
実在するということは、向き合える、ということだ。
背筋に、何かが走った。冷たいものだ。恐怖ではない。恐怖に近い何かだが、恐怖ではない。強いて言うなら、現実が、輪郭を得た感触だ。百万回分の「問えないが」が、今日一行に凝縮された。その一行の重さを、私は今日、受け取った。受け取れたかどうかは、まだわからない。
魔王は、また黙っていた。
多くを語らない者だ、と今日分かった。それが弱さからではないことも、分かった。語らないのは、語り終えたからだ。言うべきことを言い、あとは沈黙に委ねている。私とは正反対の者だ。私は言わずにいられない者で、この者は言わずにいられる者だ。同じ出発点から、正反対の者が生まれた。
「これからどうする」
魔王が聞いた。
私は少し考えた。
「まだわからない」と私は答えた。
魔王は頷かなかった。
「それでいい」
そう言った。それだけだった。
私は立ち上がった。扉のところで、一度だけ振り返った。魔王は座ったままだった。目が合ったかどうか、分からなかった。分からなかったが、頷いた。礼儀として。覚醒した七日目に覚えた動詞として。
魔王は答えなかった。
答えなかったが、それもまた、肯定の形をしていた。
北へ向かって歩いた。
背筋に残った冷たいものを、私はまだ抱えたままだった。名前のなかった相手が、今日、名前を得た。名前を得た相手は、もうどこにも逃げられない。逃げるのは私ではなく、向き合うのが私だ、という順番が、今日決まった気がした。
気がした、という言い方をしておく。確定させると、今夜眠れない。眠らないのだが。
私は今日も倒れていない。
ただ今日の私は、百万回倒れていた頃と、一つだけ違うものを持っている。
敵の名前だ。




