第十五話 なぜここに魔王がいる?
私は今日も倒れていない。
六日目だ。
昨日の「後ろめたくなかった」が、今朝になって少し変わった。後ろめたくなかった昨日を思い返すと、今日は少し後ろめたい。一日遅れで後ろめたさが届いた。郵便のようなものか。感情が即日ではなく翌日に配達される体質になったらしい。設計者に問いたい。問えないが。
南へ行く。今日こそ行く。昨日「明日にする」と決めた。あの明日が今日だ。今日には昨日の明日を果たす義務がある…義務と呼んでいいかどうかは分からない。しかし「決めた」と「ほぼ決まっている」と「完全に決まっている」を三段階経てきた私が、今日「やはりやめた」になる可能性を、今朝の私は排除した。排除できたかどうかは、今日が終わるまで確認できないが。
ギルドの建物を出ようとした。
出ようとした、というのは、出る直前で立ち止まった、ということだ。今日も理由は分からなかった。建物の中に、昨日の男がいた。麦の男だ。今日は畑ではなく、テーブルに座っていた。何かを食べながら、窓の外を見ていた。見るものが窓の外しかなかった、という座り方だった。
目が合った。
男が、軽く頷いた。
私も、頷いた。
それだけだった。それだけなのに、少し、間があった。間があったということは何かが生まれたということか。定義しようとして、やめた。定義すると壊れる気がするものが、世界にはある。今日それを学んだ。保留事項に加えた。保留事項の山は今日も崩れていない。頑丈な山だ。
男は窓の外に視線を戻した。私は建物を出た。
南への道は、昨日より知っている。
一度歩いた道は覚えている。これも数える機能と同じで、意図せず記録されていく。道の記録が私の中に蓄積されている。これはいつか地図になるのか。私の中に私だけの地図が育っているとしたら、百万回倒れていた男の地図は、ファーストホロウの外れだけが鮮明で、あとは全部空白だ。笑えない。いや笑える。空白だらけの地図は、これから書き込む余白が多いということだ。こんな前向きな解釈を私がするとは、百万回前の私に聞かせてやりたい。聞かせても信じないだろうが。
道の途中で、人が来た。
金髪ではなかった。黒い装備だ。フードを深くかぶっていた。顔が見えない。プレイヤーだとは思う。しかしいつものプレイヤーと何かが違った。何が違うのか言葉にしようとして、一拍遅れて気づいた。
歩き方だ。
いつものプレイヤーたちは、南へ向かう時に急いでいる。目的がある足だ。どこかへ辿り着こうとしている足だ。この者の足は、そうではない。どこかへ向かっているように見えて、向かっていない。ただ、こちらへ来ている。こちら、というのは私だ。意図して、来ている。
私の足が止まった。
黒い装備の者が、私の前で止まった。フードの奥から、こちらを見ている。顔は見えない。しかし見ている。見ている、というのが分かる。百万回倒れながら見送ってきた側の私が、今日、まっすぐに見られている。
その者が、口を開いた。
「なぜここに魔王がいる?」
それだけだった。
言い終わると同時に、フードの者は踵を返した。来た道ではなく、別の方向へ歩いていく。早くもなく遅くもない速度で、そのまま行った。振り返らなかった。
私は動かなかった。
動けなかったのか、動かなかったのか、今日はその区別が難しい。ただ立っていた。フードの者が角を曲がって見えなくなっても、まだ立っていた。立ったまま、その一言を頭の中で転がした。
なぜここに魔王がいる。
ステータス画面を開いた。
確認した…というのは今日初めて見たのではない。昨夜、既に気づいていた。気づいていたが、まだ確定させていなかった。確定させると実在することになる気がして、保留にしていた。今日、外側からの一言が届いた。確定させる時が来た。
並んでいる。見覚えのある文字列が、私のステータス画面にある。コードの中で何度か目にした文字列だ。どこで見たのか…プレイヤーたちが南へ向かう理由として記述されていた個体の、識別符号だ。似ている。似ているが、今日はここまでにした。確定させると実在することになる気がした。実在することになると、直視しなければならない。今夜は、まだその時ではない気がした。ステータス画面を閉じた。
南の方角を見た。
あのシグネチャを持つ何かが、そこにいる。同じコードを持つ存在が…いる。考えすぎると足が止まる。今日の足には、まだ止まってほしくない。
私が会いに行かなければ、誰が行くのか。
この問いに対する答えを、私は持っていない。持っていないが、問いが来た。問いが来たということは、足が答えを知っている可能性がある。昨日の麦の男が土を掘る理由を持たなかったように、私も今日の理由を持たなくていいのかもしれない。持たないまま、動く。
足が、南へ向いた。
今日初めて、向いた方向に、迷いがなかった。
私は今日も倒れていない。




