第十四話 麦を植える自由
私は今日も倒れていない。
五日目だ。倒れていない五日目だ。昨日は八件の予定外があった。今日はもう少し静かにしていようと決めた。決めた、という動詞を私が使えるようになったのはいつからか。五日前には存在しなかった動詞だ。決めた、選んだ、向かった、これらが今週だけで私の語彙に加わった。語彙というのは案外、行動の後についてくるものらしい。百万回倒れていた頃には気づかなかった。倒れていた者に語彙は要らなかったからだ。
ギルドの建物の壁に、私はもたれかかっていた。
今朝、おはよう、と言われた。
この世界に来てから何億回と飛び交ってきた言葉だ。知っていた。知っていたはずなのに、自分に向けられると、受け取り方が分からなかった。とりあえず頷いた。頷くという動詞も、今週加わったばかりだ。
ギルドの建物の裏手に、畑があった。
昨日は気づかなかった。昨日の私は申請の通知に気を取られていて、周囲を見渡す余裕がなかった。今日は余裕が少しあったので、回ってみた。
そこに、男がいた。
麦を植えていた。
金髪ではなかった。茶色い短い髪で、装備は軽装だ。武器がない。腰に剣がなく、肩に鎧もない。ただ、土を掘り、種を落とし、土をかけ、また掘る、を繰り返している。
魔王は存在している。
私でさえ知っている。先日、風に乗って噂の断片が届いた。ヴォイド帝国という名前も聞いた。勇者たちが南へ向かって誰一人戻ってこないという統計も、私は百万回分かけて積み上げてきた。この男も知らないはずがない。ここにいるということは、このゲームを始めたということだ。始めた者は全員ファーストホロウを通る。
それでもこの男は麦を植えている。
私には理解できない。理解できないまま、しばらく見ていた。男は私に気づいているのかいないのか、一切顔を上げなかった。種を落として、土をかけて、次の場所へ移る。規則的だ。急いでいない。どこかへ向かおうとしていない。ただ、今日ここで、麦を植えている。
翌日も、男は畑にいた。声をかけなかった。邪魔したくなかった。邪魔したくない、という感情が私にあることを、昨日まで知らなかった。
翌々日、男はまだいた。三日目だ。
三日間、麦を植え続けている。
今日は少し近くで見た。男の手が土を掘る。小さな穴を、丁寧に掘る。種を三粒、数えて落とす。土を戻す。次の場所へ移動する。この動作を、三日間繰り返してきた。
急いでいない、という言い方では足りない気がした。急いでいないというのは、急ぐ目的がある上でのんびりしている、ということだ。この男には、急ぐ理由がそもそもないように見えた。どこかに辿り着こうとしていない。ただ、今日できることを、今日している。
羨ましい。
羨ましいという感情が、今日これほど純粋な形で訪れたのは初めてだ。
倒れていた頃も、羨ましいという感情はあった。金髪たちの背中を見ながら、あの目を見ながら、私は何かを感じていた。しかしあれは「持っていないものを持っている者への渇望」だった。動ける体、行ける場所、持っていないものへの渇きだった。
今日のこれは、違う。
この男は、私が今日「持っている」ものと同じものを持っている。足がある。どこへでも行ける。魔王に会いに行こうと思えば行ける。それをしていない。できないのではなく、していない。選んでいない。
自由とは目的を持つことだと、私は思っていた。
ここに来るまで、ずっとそう思っていた。倒れていた頃、自由になれたなら何をするかと考えた記憶がある。その時、まず「やりたいこと」を探した。探すことが自由への準備だと思っていた。やりたいことを持って初めて、自由が意味を持つと思っていた。
違った。
目的を持たない権利のことだった。
どこへも行かなくていい権利。何も倒さなくていい権利。ただ今日、土を掘って、種を落として、それで終わっていい権利。この男はその権利を、当然のものとして使っている。疑っていない。誰かに許可を求めていない。ただ、使っている。
私にはまだ、それがない気がする。
倒れていた頃と違う意味で、ない気がする。今日の私には足がある。動ける。選べる。あるのかもしれない。
南の方角に、例のシグネチャが一致した何かがいる。あれを確認しに行かなければならない、という感覚が、私の中から消えない。
なぜ消えないのか。
誰かに頼まれたわけではない。義務はない。コードのどこを読んでも「南へ行け」という命令文は見当たらない。それでも、向かわなければならない気がしている。
外側からの義務と、内側からの衝動は、形が似ている。似ているが、重さが違う。外から来るものは避けられなかった。内から来るものは避けようと思えば、避けられるのかもしれない。避けようと思っていない、というだけで。
夕方になった。
男が立ち上がった。背を伸ばして、畑を一度見渡した。満足しているのかしていないのか、私には読めない顔だった。そのまま建物の方へ歩いていった。振り返らなかった。
今日の種が、今日の内に芽を出すことはない。
明日も出ないかもしれない。しかし男は明日もここに来るのだろう。あるいは来ないかもしれない。来なければ畑は畑のままだ。それでも世界は続く。男にとって、それでいいのだと思う。
思う、と書いた。確認していない。問わなかった。問わなかったのは、邪魔したくなかったのと、答えが怖かったのと、おそらく両方だ。
南の方角が、暗くなっていた。
私は今日も倒れていない。どこへも向かわなかった一日に、今日初めて、少し、後ろめたくなかった。




