無理です!
「次の皇帝は、お前よ」
お祖母様の言葉が、部屋の冷たい空気に溶けていく。
私は、ぱちくりと瞬きをした。一秒、二回、三回。頭の中でその言葉を転がしてみる。ローマ皇帝。あの、世界で一番偉くて、紫色の服を着ていて、お金の顔になっている人。
私は真顔に戻り、はっきりと首を横に振った。
「無理です」
しん、と部屋が静まり返った。
並んでいた将軍たちのひとりが、彫刻のように固まる。お母様はヒッと短く息を呑み、お祖母様はピクリとも動かない。
「……無理、とはどういうことだ、バッシアヌス」
お祖母様の声が、一段と低くなる。地響きの手前みたいな、お腹に響く声だ。でも、無理なものは無理なのだ。私は指を一本ずつ折りながら、真面目な理由を並べ立てた。
「まず、神殿の掃除担当が圧倒的に足りなくなります。私が抜けると、回廊の東側を掃く人がいません。それに、エル・ガバルの御神体を毎日磨くのは私の役目です。他の人がやると、力加減が強すぎて石が可哀想なんです。あと、裏庭の生け贄用の山羊が私に一番懐いていて、私が餌をあげないとメェメェ鳴いてうるさいですし、何より朝のお祈りを休むなんて神への冒涜になります」
しかし、部屋の将軍たちは、なぜか揃って頭を抱えていた。ひとりは天を仰ぎ、もうひとりは眉間を激しく揉んでいる。なぜだろう。山羊の鳴き声の深刻さが伝わらなかったのだろうか。
「バッシアヌス」
お祖母様が、私の肩を掴む手にぎゅっと力を込めた。「お前の山羊の事情などどうでもいいの。これはローマ帝国全体の、ひいては我が一族の生き残りをかけたお話よ」
お祖母様は、気が遠くなるほど噛み砕いた口調で説明を始めた。
今、ローマを治めているマクリヌスという皇帝は、とにかく軍隊に人気がないこと。お給料を減らしたりして、兵隊さんたちを怒らせてしまったこと。
対して、私には、前の前の立派な皇帝陛下の血が(お祖母様の怪しげな政治工作によって)流れていることになっていること。
だから、あそこにいる軍隊は、私を神輿にして今の皇帝をぶっ倒したいと思っていること。
「……分かったかしら?」
「うーん」
半分くらい右の耳から左の耳へ抜けていったが、要するにこういうことだろうか。
「つまり、私は神殿長みたいなものに就職するのですか?」
「全然違うわ。国の一番上よ」
「では、大祭司ですか?」
「もっと違うわ。軍隊のトップよ」
「難しいですね」
「お前が言うな」
お祖母様にぴしゃりと言われ、私は縮み上がった。
いつもならここで助け舟を出してくれるお母様はというと、部屋の隅で、絹のハンカチを涙で濡らしながら私を見つめていた。その目は、今にも壊れてしまいそうな硝子細工を見るように、ひどく揺れている。
「お母様」
私は歩み寄り、お母様の着物の袖を引っ張った。「あの、皇帝になったら、毎日夕方には神殿に帰ってこられますか? 晩ご飯はみんなで食べられますよね?」
お母様は、何も答えなかった。
ただ、痛々しいほどに歪んだ笑顔を作って、私の頭をそっと撫でるだけだった。その手の震えが、私の頭皮に伝わってきて、胸の奥が少しだけチクリとした。なんだか、思っていたよりもずっと、遠いところへ行かされるような、そんな嫌な予感がした。
「さあ、バッシアヌス。将軍がお待ちよ」
お祖母様が、私の背中を強く押した。
言われるがままに、私は部屋の大きな扉を開け、バルコニーへと一歩を踏み出す。
その瞬間。
耳が、いや、身体全体が爆音に包まれた。
「おおおおおおお!!」という、地鳴りのような咆哮。神殿の前の広場を埋め尽くしていたのは、見渡す限りの赤いマントと、太陽の光を反射してぎらぎらと輝く鉄の鎧だった。数万人。いや、もっとかもしれない。
「わあ……多いですね」
率直な感想だった。近所のお祭りに、ちょっと人が集まりすぎちゃったな、くらいの感覚だ。
しかし、彼ら軍団兵たちの目は、私のそれとは全く違っていた。彼らは本物の救世主を拝むような狂信的な熱を帯びた目で、14歳の私を見つめていた。
温度差がすごい。私は完全に、場違いな場所に迷い込んだ気分だった。
広場の最前列にいた、熊のように体格の良い髭面の将軍が、ガシャリと音を立ててその場に跪いた。石畳に膝を打ち付ける音が、ここまで聞こえそうだった。痛そうだ。
「我らの光! カラカラ帝の正当なる後継者、マルクス・アウレリウス・アントニヌス皇帝陛下万歳!!」
それを皮切りに、波が広がるように、数万人の兵士たちが一斉に、ガシャガシャと音を立てて跪いていく。地響きが足の裏に伝わってくる。誰もが頭を垂れ、私に忠誠を誓っている。
私は、あまりの光景に思いっきり慌ててしまった。
「あ、あの! 危ないですから立ってください! 鎧、重いんですよね? 膝を悪くしますよ! ほら、そこのおじさんも、早く立って!」
身を乗り出して、必死に手を振る。本気だった。そんなところで跪いていたら、絶対に後で関節が痛くなる。
だが、私のその必死な姿を見た兵士たちは、なぜか一瞬静まり返り、次の瞬間、さっきの十倍以上の大歓声で応えた。
「おおお……! なんという慈悲深き皇帝陛下だ!」
「我ら末端の兵卒の身体をご心配くださるなんて……!」
「この御方こそ、真のローマの父だ! 万歳! 万歳!」
何人かの兵士は、感激のあまり涙を流して拳を突き上げている。
違う。そうじゃない。私はただ、立ち上がって欲しかっただけなのに。なぜこの人たちは、私の言葉をすべて良い方に、いや、大袈裟な方に捉えてしまうのだろう。
じわじわと冷や汗が背中を伝うのを感じながら、私はそっと後ろを振り向き、お祖母様の服の裾を小声で引いた。
「お祖母様、今からでも断れませんか? この人たち、話が通じません」
「無理よ」
お祖母様は、完璧な美貌に冷徹な笑みを浮かべ、前を向いたまま言った。「もう賽は投げられたの。諦めなさい、陛下」
「ですよね……」
私はがっくりと肩を落とし、鳴り止まない大歓声の中に立ち尽くした。
太陽神エル・ガバル、助けてください。お祈りの時間が、大幅に遅れてしまいそうです――。




