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神殿の少年

 夜明け前の神殿は、冷えた石の匂いがします。


 まだ誰も起きていない回廊を、私は裸足で歩いていた。ひんやりとした大理石の感触が足の裏から伝わってきて、眠気がすうっと引いていく。

 手にした銀の器には、昨晩のうちに汲んでおいた清らかな湧き水。これを本殿の祭壇まで運ぶのが、私の毎朝の日課。


 本殿の奥、薄暗い空間の真ん中に、それは鎮座しています。

 高さ一メートルほどの、滑らかな曲線を持つ黒い円錐形の石。太陽神エル・ガバルの御神体だ。宇宙から降ってきたというその隕石は、触れるとほんのり温かい。まるで、神の体温がそのまま残っているみたいに。


「おはようございます、エル・ガバル。今日も綺麗に磨きますね」


 目の細かい麻の布を水に浸し、きゅっと絞る。それから、黒い石の表面を優しく、撫でるように拭いていく。この石を磨いている時間が、私は何よりも好きだった。


 やがて、東の空が白み始める。

 神殿の巨大な柱の隙間から、一筋の、信じられないほど鮮烈な黄金の光が差し込んできた。

 冷え切っていた世界が、一瞬で真っ赤に燃え上がる。


「ああ……」


 何度見ても、息が止まる。

 布を握りしめたまま、私は光の中に立ち尽くした。


 今日も神は昇る。

 世界の誰もがまだ眠っていても。地上のどこかで、人間たちが醜い争いを続けていたとしても。神はそんなことに関係なく、等しく、すべての人に温かい光を与えるのだ。なんて慈悲深く、なんて完璧な存在なのだろう。


「バッシアヌス、また突っ立って太陽を見てるのかい? 目が悪くなるよ」


 背後から掛けられた気の抜けた声に、私はハッと我に返った。

 振り返ると、同僚の神官の先輩が、あくびを噛み殺しながら生け贄用の山羊の足を引っ張って歩いてくるところだった。


「あ、先輩! 見てください、今日の朝日は特別に素晴らしいです! 雲の切れ間から差し込む光の角度が、まるで神が両手を広げて私たちを抱きしめてくださっているようで――」

「はいはい、素晴らしいね。それより、そっちの香炉の準備は終わったの?」

「まだですけど、エル・ガバルの偉大さについて語る方が先決です。いいですか、太陽の光というのは、ただ暖かいだけではなく、私たちの魂の穢れを――」

「いいから手を動かしなさい、太陽神の申し子くん。お祈りの時間が始まっちゃうだろ」


 先輩は私の熱弁を慣れた様子で聞き流し、山羊を繋ぎ止めた。神殿の仲間たちはみんな良い人だけど、どうしてこの感動を分かち合ってくれないのだろう。不思議で仕方がない。


 朝の礼拝が始まると、神殿の中は一気に忙しくなった。

 お香の煙が立ち込め、聖歌が響く。私は大真面目に、世界の平和と、みんなの健康を太陽神に祈った。私の祈りが、光に乗って世界中に届けばいいな、と本気で思いながら。


 ただ、今日はお祈りの最中、少しだけ気になることがあった。


 神殿の入り口のあたりが、なんだか騒がしいのだ。

 祈りの合間にチラリと外の広場を見てみると、いつもよりずっとたくさんの兵士たちが集まっていた。みんな、ギラギラした鉄の鎧を着て、長い槍を持っている。シリア駐屯軍の人たちだろうか。


「なんだか、今日は一段と賑やかですね」


 隣の神官に小声で話しかけると、彼は青い顔をしてガタガタと震えていた。


「に、賑やかどころか……おい、見ろよ、あの槍の数。何が始まるんだ……?」

「さあ? きっと、太陽神の素晴らしさに気づいた兵隊さんたちが、みんなでお参りに来たんですよ。お供え物のパン、足りるでしょうか」

「お前、本当に呑気だな……!」


 彼は呆れたようにため息をついた。

 よく分からないけれど、大人はすぐに色々なことを難しく考えて怖がるから大変だ。


 お昼近くになり、一通りの儀式を終えて一息ついた頃、神殿の奥から私の名前を呼ぶ声がした。


「バッシアヌス! どこにいるの!」


 母親のユリア・ソエミアスだった。いつもは綺麗な絹のドレスをひらひらさせて優雅に歩く人なのに、今日はなぜか、スカートの裾をなりふり構わず掴んで走ってくる。息も絶え絶えだ。


「ここですよ、お母様。どうしたのですか、そんなに慌てて。あ、もしかしてお昼ご飯の時間ですか? 今日は豆のスープだと嬉しいのですが」

「スープなんて言っている場合じゃないわよ! 早く、早く来なさい!」


 お母様は私の腕を掴むと、ものすごい力で引っ張った。

 その顔は完全に引きつっている。何か悪いものでも食べたのだろうか。


「どこへ行くのですか?」

「お祖母様の部屋よ。大変なことになったわ……本当に、どうしましょう……」


 お母様がぶつぶつと呟く言葉は、どれも要領を得ない。

 連れて行かれたのは、神殿の最奥にある、お祖母様の私室だった。


 いつもは静かなその部屋の前に、さっき広場で見かけたような、いかつい鎧を着た将軍たちが何人も立っていた。みんな揃って、恐ろしいほどに引き締まった真剣な顔をしている。部屋の中に入ると、重苦しい空気が肌に張り付くようだった。


 部屋の最奥、豪華な椅子に腰掛けていたのは、私のお祖母様――ユリア・マエサだ。

 普段はどんな時でも、不敵な笑みを浮かべて余裕を崩さないお祖母様。なのに、今日の彼女の目は、獲物を狙う鷹のように鋭く尖っていた。


 私は部屋の真ん中に立ち、ぺこりと頭を下げた。


「お祖母様、お呼びでしょうか。あの、部屋の中にむさ苦しい兵隊さんがたくさんいて、お香の匂いが台無しなのですが……何か問題でも起きたのですか?」


 私の言葉に、周りの将軍たちがピクリと眉を動かした。

 お祖母様は深く、重いため息をつき、椅子の肘掛けを指先でトントンと叩いた。


「問題どころではないわ、バッシアヌス。……いいえ、ある意味では、すべての問題が片付いたと言うべきかしらね」

「はあ」


 よく分からない。


 お祖母様はゆっくりと立ち上がり、私の前に歩み寄ってきた。そして、私の両肩をがっしりと掴み、まっすぐ目を見つめて言った。


「ローマ皇帝が変わるわ」

「へぇ、そうなんですか。新しい皇帝陛下も、太陽神を信心深い人だと良いですね」


 私がのほほんと答えると、お祖母様は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、呆れたような顔をした。

 それから、部屋にいる将軍たち全員に聞こえるような、低く、しかし絶対的な声で告げた。


「次の皇帝は、お前よ」


「……はい?」


 お祖母様が何を言っているのか、私の頭ではまったく理解できなかった。

 皇帝? 私が? 毎日神殿で石を磨いている、この私が?


 窓の外からは、いつの間にか集まった数万人の兵士たちの、地響きのような大歓声が聞こえ始めていた。


 ――この時の私は、まだ何も知らなかった。


 ただ真面目に、みんなが幸せになれるように帝国を良くしようとしただけの私が。

 数年後、歴史上最悪の暴君と呼ばれることになる、その未来を。

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