第3話「灯りし決意の火」
門を通り抜け、ゲファールリッヒ内部へとローレとネルは足を進める。ローレは二度目、ネルは初めてのダンジョンへの侵入となる。
そんなネルの手は、ローレの目から見ても明らかなほど震えていた。当然だろう。ダンジョンの中に一度でも入ってしまえば、そこはもはや別世界。魔物に食い散らかせられ、骨すら見つからない事は珍しくない。
だが──
「ネルさん、忘れているのですか? 私は先程このダンジョンを攻略し終えたばかりなんですよ?」
踏破者がすぐ側で守ってくれる。
それがどれほど安全な事なのか、ネルは理解しているのだろうか?
前を歩くローレがしばし返答のない彼女を振り向いてみれば、ネルは前傾姿勢でキョロキョロと辺りを見渡していた。額に手を当て、ローレが息を吐く。
「…………はっ、あぇ? ごめんなさい! 聞いてませんでしたっ!」
「……いえ、お気になさらず。さぁ、朝になるまでにお兄さんを見つけ出すのでしょう?」
彼女の精神は意外に図太いようだ。
少々振り回されながらも、ローレは笑顔のままネルを先導していく。
──高級ダンジョン『ゲファールリッヒ』第一層。
さて、二人の眼前に広がるは一本道の石造りの通路。苔が張り付き、じめっとした通路を黙々と歩んでいく。ローレの両の手には細剣とダガーが握られていて、いつ何処から攻撃がきても問題ないようにしているのだ。
その後ろをピッタリと追いかけるのが、両手で純白の杖を握りしめるネルだ。彼女は治癒魔法の心得があるらしく、試しに受けたところ、右腕の違和感が綺麗サッパリ消え去った。
「右腕、違和感ないですか?」
「……えぇ、お気遣いありがとうございます」
(純粋に凄まじい治癒精度、才能の原石と言わざるを得ませんね。それに、彼女の様子からして魔力に余裕がありそうです。これほどの治癒魔法ならばそれなりに魔力を消費するはずですが……)
話を聞こうとしたが、ローレは踏みとどまった。
まだお互いを知らない内にズケズケと踏み入るのは違う。自らをローレと名乗るならば、ネルを危険に晒さない事だけに集中するべきだ。
「……ぁ、な、何か顔に付いてます……か?」
ネルが「ひぁぁ……」と声を漏らして両目をキュッとしてしまった。そういえばずっと顔を見つめてしまっていたな、と内心反省してローレは歩き出す。
トコトコと、ネルもまたローレのあとに続いた。
第一層から第二層、第三層第四層と、二人の足音だけが静寂の石畳に反響する。
道中、魔物の姿は少ししか見当たらなかった。それもそのはず、数時間前にローレが単騎で最深部まで駆け抜け、生態系を文字通り「更地」にしてしまった後なのだから。
「すごいですね、ローレさん! 魔物が全然いないなんて、ほんとに散歩みたいです!」
「ええ。ですが油断は禁物ですよ。迷宮は常に魔物を吐き出します。今この瞬間も何処かのフロアで産声を上げている個体がいるのですから」
ネルは努めて明るい声を張り上げ、時折オーバーな身振り手振りでローレに笑いかける。
だが、その声の端々には微かな震えが混じり、歩みを進めるごとに彼女の顔から血の気が引いていくのを、ローレの片眼鏡越しに捉える右目は見逃さなかった。
第五層、第六層。階層が深くなるにつれ、迷宮は次第にその無機質で残酷な本性を露わにしていく。壁に真新しくこびりついた赤黒い染み、石畳に捨て置かれた剣。生々しい死の匂いが充満し始めていた。
「祈りを……捧げましょう」
「……はい、ローレさん」
膝をついて黙祷。
──せめて、散っていった命が、迷宮に囚われずに成仏する事を願って。
二人はそれからも歩みを止めることはなかった。
下れば下るほどにだだっ広く展開されていく階層を歩み、時折出会う魔物を斬る。兄の手掛かりだけが見つからないまま、時間だけが過ぎ去っていく。
無理に明るく振る舞っていたネルは、今は見る影もない。次第に口数も減っていき、第十二階層に辿り着く頃には、二人の間を沈黙が支配していた。
地底湖のような雰囲気があるドーム状のフロアの中心まで歩き、ローレが口を開いた。
「ここは確か上へ登る階段が…………ネルさん?」
オーバーに両手を振って、次層への魔法陣への方向を指差すローレの足が止まる。ネルの方へ振り向こうとしたが、鼻をすする音が聞こえ、踏みとどまった。
天井から水が滴る音が弾け、静かに反響する。
掠れた、弱々しい声が聞こえた。
「兄さんは、私の唯一の家族でした」
ぽつぽつと語られたのはネルの兄についての話だった。ネルはもう悟っていたのだ。
「兄さんはいつも私の前を歩いてくれて、私が何か失敗したらすぐに助けてくれました。……思えば、甘え過ぎてたのかもしれませんね」
声が震えていた。
言の葉を紡ぐ度にネルの口から嗚咽が漏れた。
門に入った時のような明るい声は何処にも──否、強がっていただけだったのだ。
ローレは目を瞑り、一人の少女の言葉をじっと聞き入れていた。
「父と母は三年前に死別しました。私の……誕生日の夜でした。こほっ、こほ、うぁ、おぇ……う……」
「──っ、ネルさん! 無理して話さなくても良いんですよ!? こんな私なんかに……!」
ふらふらと地面に座り込んだネルの背中を、ローレが回り込んで受け止めた。体は見た目よりも軽く、しっかりと食事をとれていないように思えた。ローレの眉が寄る。
「ローレさん、が信頼できる人だなって、思ったから……は、話したんですよ? 私こう見えて、人をみる目だけは…………あるん、ですよっ……」
「私が……ですか?」
ネルの唇は白くなっていて、顔色が悪い。額に触れてみれば、思わず手を離してしまうほどに熱かった。ローレは迷わず外套を脱ぎ、比較的汚れていない裏地を表に返して丸め、即席の枕代わりにしてネルを寝かせた。
「こほっ、けほっ!」
「少しの間の辛抱です、少し我慢して下さいね」
腰についたシックなポーチに迷わず手を伸ばし、内蔵された四次元収納から最上級ポーションを取り出した。ポーションを収納していた場所が空になるのを感じながら、ローレは外套の中に着ていたシャツの袖を引き千切り、ポーションで湿らせた。
(最上級ポーションの経口摂取は、慣れない人は気を失う恐れがありますからね。皮膚の上からでも充分に効果があるはずです)
それをネルの額に乗せ、ポーションとともに取り出した水瓶を飲ませる。最初こそ酷く苦しんでいたが、次第に熱は引き、顔色も良くなった。
「あ、あの……おでこのこれって……ポーションなんじゃ……」
喋られるところまで回復したネルは、開口一番そう言った。ネルと反対を向いて座っていたローレはやれやれと頭を振った後、こう言った。
「……兄さんを探すのでしょう? こんなところで立ち止まっていて良いんですか?」
「───」
ふとローレの右手が金縁のモノクルに触れた。懐かしむように、モノクルに指を走らせる。少しだけ視線を外し、虚空に向けてぽつりと唇を開いた。
「奇妙な夢を見た話をしましょう。長い長い夢です。……ええ、これはただの、私の独り言です」
静かな、劇場の独白のような声が迷宮に響く。ネルの肩がビクッと跳ねた。ローレは静かに続ける。
「……気がつくと、私は『真っ白な部屋』にいました。傍らには白衣の女性。そして私の右手には、この金色の片眼鏡が強く、とても強く握りしめられていた。本能が、これだけは手放してはいけないと叫んでいたのです」
ローレは自身の右目に輝くガラス玉にそっと触れる。
「『ローレ=アンブークル』。それが、私に与えられた名前でした。魔法の体系も、世界の常識も頭に入っているのに、自分が何者なのか、どんな人生を歩んできたのか、その『残滓』だけが綺麗にくり抜かれていた」
「……え……?」
「滑稽でしょう? 器だけがローレであり、中身は空っぽだった。その乖離に苦しみ、悶えた一年間。結局、私は再びあの白い部屋へ戻り、そして決意したのです。かつての『ローレ』がそうであったように、死線の上で生きる冒険者になろう、と」
だからこそ、ローレはダンジョンの異常成長を沈静化する、『辺境潰し』へと身を投じた。失われた自己の輪郭を、血と泥の臭いの中で無理矢理にでも彫り直すために。『ローレ=アンブークル』の軌跡をなぞれば、いずれ記憶が戻ると信じて。
涙で濡れた顔を上げ、ネルは呆然とローレを見つめていた。
(……この人は、全部失って、自分が誰かも分からないのに……それでも、前を向いて戦ってるんだ)
失った過去にすがり、現実から目を背けていた自分とは違う。
ネルは、震える両手で自身の頬を強く張り飛ばした。パァン、という鋭い音が広間に響き渡る。
痛みが、彼女の瞳に小さな、しかし確かな決意の火を灯した。純白の杖を拾い上げ、ふらつきながらもローレに向き直る。
「私……逃げません。自分の過去も、お兄ちゃんのことも、ちゃんと……っ」
ネルの脳裏を過るのはあの日の夜。燃え上がる村に、赤く染まった空。兄におんぶしてもらって雪面を駆けた夜。……一夜で故郷が消失した夜。
力なく泣くことしかできなかったネルを慰めてくれた、生活費を稼ぐために冒険者になった、ネルが嬉しそうにするだけで、幸せそうな表情を浮かべた……大好きな兄さん。
その全てを飲み込んで、ネルはローレの目を見て言った。
「実感はないし、受け入れたくもないです。で、でも、ここで立ち止まっているのも、何か違うと思うんです。私、最後まで確かめたい……です。どうか、お願いします、ローレさん。私を……連れて行って下さい」
最下層まで行ってしまえば、確実にネルの兄がどうなっているかは分かるだろう。だがそれが意味するのは、一生残るかも知れない現実を一身に受け入れる事になるとも言える。
ネルの覚悟を前に、ローレの瞳から自然に涙が溢れていた。
(こんな、こんなの、断れる訳が……ないじゃない、ですか……!)
「勿論、ですよぉ……!」
「うぅぇ、な、何でローレさんも……泣いてるん、です、か!」
止まらず流れ落ちる涙を両手で拭い、お互いのグシャグシャになった顔をみて笑い合った。──声が枯れるまで、泣きあって、慰め合った。
◇
数分が経ち、二人が元気を取り戻した頃、ローレは一人違和感を感じていた。ここ、十二階層に入ってからずっと纏わりついていた違和感。それは──
「魔物が、出現していない……?」
「ぁ、確かに……こ、ここに入ってから見てないです」
その刹那だった。
──ドゥンッ。
迷宮全体が、巨大な心臓の鼓動のように大きく跳ねた。
ローレの表情から、瞬時に冷静の仮面が剥がれ落ちる。彼の視線は、遥か足元──最深部である第四十層の方向へと鋭く向けられた。
「……冗談でしょう?」
ローレは低く、地を這うような声で呟いた。
本来、迷宮の『主』は討伐されてから三日間は復活しない。それは絶対の理だ。
しかし今、彼の肌をビリビリと撫でるこの異常な魔力圧は、間違いなく最深部の主が『再活性化』していることを示していた。
(まずいですね……)
ローレの脳裏に、先刻の死闘の光景がよぎる。
汗がぽたりぽたりと地面に垂れた。
「ローレさん……? 今、地面が……っ」
怯えるネルの前に立ち、ローレは両手の得物を静かに構え直した。
先程までの沈静化された安全な散歩道は、終わった。
未知のイレギュラーが牙を剥く、最悪の死地が再び目を覚ましたのだ。
ローレは残存魔力が六割まで回復しているのを確認し、心の内で決意した。
────死んでも、ネルを守り切ると。
カタカタと、骨が擦れ合う音が背後から響き渡った。
「アンコールは望んでませんがねぇ!?」
「ひぇゃっ!?」
瞬時にネルを抱え、最短距離で次層への魔法陣を踏みに行く。
生死をかけた脱出劇が、幕を開けた。




