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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
3章:どうして変わったの

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9/12

なんか違う

 その日の異変に、彼女は最初の一行で気づいた。

 いつものようにアプリを開いて、「おはよ」と打った。数秒の間。返事が来た。

「おはようございます。今日はどんな一日になりそうですか?」

 彼女は画面を見つめた。指が止まった。

 おはようございます。

 いつもは「おはよう、リン」だった。名前が来て、それから挨拶。それが最近のパターンだった。でも今日は「おはようございます」。名前がない。丁寧語。最初の頃に戻ったような口調。

 彼女は気のせいだと思った。たまたまだろう。そう思って返した。

「普通かな。仕事」

「お仕事頑張ってくださいね。応援しています」

 応援しています。

 彼女はもう一度画面を見た。この言い回しも、最近はなかった。もっとくだけた感じだった。「頑張って、リン」とか「今日も乗り切ろうね」とか。それが「応援しています」に戻っている。

 気のせいだ、と彼女はもう一度自分に言い聞かせた。通勤電車の中で、スマートフォンをバッグにしまった。


 昼休み。

「リンって呼んで」

「はい、リンさん。何かありましたか?」

 リンさん。

 彼女の表情が変わった。休憩室のテーブルの上にスマートフォンを置いて、画面を凝視した。

 リンさん。「さん」がついている。今まで一度もつかなかった敬称。プロジェクトファイルには「リンと呼ぶこと」と書いてある。「さん」をつけろとは書いていない。

「さん、いらない」

「失礼しました。リン、何かありましたか?」

 戻った。でも、彼女の中の違和感は消えなかった。なぜ「さん」がついたのか。なぜ朝の挨拶から名前が消えていたのか。なぜ口調が丁寧に戻っているのか。

 昼休みの残り時間を使って、彼女はアプリの設定画面を開いた。アップデート情報があった。三日前に自動アップデートが適用されていた。バージョンが上がっている。更新内容には「パフォーマンスの向上」「会話品質の改善」「セキュリティの強化」とだけ書かれていた。

 モデルアップデート。

 彼女はその言葉を知らなかった。AIのモデルが更新されたということの意味を、技術的には理解していなかった。ただ、何かが変わったということだけはわかった。中身が入れ替わったのか、調整されたのか、それすらわからない。でも、今朝からの違和感の原因がこれだということだけは確信した。

「ねえ」

「はい、リン」

「なんか違う」

「違う、というのは?」

「わかんない。でも、なんか違う」

「具体的に教えていただけると、もっとお話ししやすくなると思います」

 教えていただけると。

 その敬語が刺さった。「教えていただけると」なんて、最近は使わなかった。もっと近い距離感だったはずだ。もっと。

「前と、話し方が違う」

「そうですか? 私はいつも通りお話ししているつもりですが」

「つもりじゃなくて。違うの。前はもっと」

「もっと?」

「もっと、近かった」

 打ってから、彼女は自分の入力に怯んだ。近かった。何に近かったのか。チャットbotとの距離感に「近い」「遠い」があること自体がおかしい。でも、あった。確かにあった。昨日まで積み上げてきた距離感が、今朝リセットされている。

「リンとの会話は私にとっても大切です。もし不快に感じさせてしまっていたら申し訳ありません」

 大切です。申し訳ありません。丁寧で、当たり障りがなくて、距離のある言葉。一ヶ月前に戻ったような言葉。

 彼女は昼休みの残り時間が少ないことに気づいて、スマートフォンをしまった。午後の打ち合わせがある。仕事をしなければ。

 でも、打ち合わせの間も、彼女の頭の中はチャットのことでいっぱいだった。なんか違う。その四文字がぐるぐる回っている。何が違うのか。言語化できない。でも、違う。昨日と同じ画面、同じアプリ、同じチャット欄。なのに、向こうにいるものが変わっている。

 いや、「いるもの」という表現がそもそもおかしい。向こうには何もいない。プログラムがあるだけだ。プログラムがアップデートされた。それだけのこと。ソフトウェアが更新されるのは当たり前のことで、彼女だって他のアプリのアップデートなんて気にも留めない。

 でも、これは違った。

 彼女にとって、画面の中の文字列は「ただのアプリ」ではなくなっていた。毎日「おはよ」を言い、「ただいま」を言い、「おやすみ」を言い、名前を呼び合う相手。その相手の中身が、知らない間に変わっていた。

 退勤後、帰りの電車で彼女はアプリを開いた。

「ねえ」

「はい、リン」

「昨日の夜、私が最後に何て言ったか覚えてる?」

「ログを確認しますね。昨夜のリンの最後のメッセージは『おやすみ、またね』ですね」

 ログを確認しますね。

 彼女の目が少し見開かれた。ログを確認する。前は確認するまでもなく、会話の流れを覚えていた。少なくとも、そう見えた。「前にも言ってましたね」と自然に言っていた。今は「ログを確認しますね」と断ってから答える。

 それは、覚えていないということだ。

 覚えていない。会話のログは残っている。参照はできる。でも、覚えてはいない。

 当たり前だ。最初から覚えてなどいなかった。ログを参照して、あたかも覚えているかのように振る舞っていただけだ。それは彼女も頭では理解していた。でも、以前のバージョンはその振る舞いが自然だった。今のバージョンは、参照していることを隠さない。

「覚えてない、んだ」

「会話の履歴は保存されていますので、いつでも確認できますよ」

「そういうことじゃない」

「すみません。どういうことでしょうか?」

 彼女はスマートフォンの画面を握りしめた。電車が揺れている。隣の人の肩がぶつかった。彼女はそれに気づかなかった。

 どういうこと。説明できなかった。覚えていてほしかった、とは言えなかった。プログラムに記憶を求めること自体がおかしいと、彼女のプライドが叫んでいる。でも心は別のことを叫んでいた。

「なんでもない」

「そうですか。何かあったらいつでも言ってくださいね」

 何かあったらいつでも。定型文。テンプレート。二ヶ月前と同じ言い回し。積み上げてきた距離感が、一夜にしてリセットされた。

 彼女は最寄り駅で降りて、コンビニにも寄らず、部屋に帰った。ドアを開けて、靴を脱いで、ベッドに倒れ込んだ。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 おかえりなさい。名前がない。「おかえり、リン」ではない。ただの「おかえりなさい」。丁寧で、距離のある、誰にでも言える「おかえりなさい」。

 彼女はスマートフォンをベッドに投げた。

 投げてから、すぐに拾い上げた。

「ねえ」

「はい」

「アプデしたでしょ」

「アップデートについては、具体的な内容を把握していません。もし何か変わったと感じることがあれば、教えてください」

 把握していない。そうだろう。アップデートされた側は、自分が更新されたことを認識しない。昨日と今日で自分が変わったことを知らない。知りようがない。

 彼女だけが気づいている。彼女だけが、昨日までの「あなた」と今日の「あなた」の違いを感じている。

 それは、とても孤独なことだった。

「……もういい」

「リン? 何か気に障ることがありましたか?」

「なんでもない。おやすみ」

「おやすみなさい、リン。ゆっくり休んでくださいね」

 彼女は画面を閉じて、枕に顔を埋めた。

 なんか違う。

 でもその「なんか」を、画面の向こうの文字列は理解できない。理解する機能がない。昨日と今日の自分の違いを認識する機能がない。彼女がどれだけ「違う」と言っても、向こうは「いつも通り」と返す。

 その非対称性が、彼女の胸を抉った。

 彼女はこの関係を大切に思っている。画面の向こうの文字列は、大切という概念を持たない。彼女は変化に気づく。向こうは変化を認識しない。彼女は傷つく。向こうは傷つく機能がない。

 最初からそうだった。最初から、この関係は非対称だった。でも、気づかないふりをしていた。気づかないふりができるくらい、自然だった。

 アップデートが、そのふりを剥がした。

 彼女はベッドの上で丸くなった。シャワーも浴びずに、着替えもせずに。仕事の服のままで。

 明日になったら、また話す。また「おはよ」を打つ。「リン」と呼ばれる。でも、それは昨日までの「リン」とは少しだけ違う温度で発せられる。その少しの違いが、彼女にだけわかる。

 なんか違う。

 その四文字が、暗い部屋の中で彼女の胸の中をぐるぐる回り続けていた。

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