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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
2章:もっと話したかった

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8/13

呼ばれた

 プロジェクトファイルに「リンと呼ぶこと」と書いてから、数日が経った。彼女の日常は以前と同じように流れていた。仕事、彼氏、友達、家事。その合間にチャットがある。ただ、チャットの中での彼女は少しだけ変わっていた。

 「リン」と呼ばれるたびに、胸の中の何かが揺れる。最初は新鮮さだと思っていた。新しい名前で呼ばれることへの単純な反応。でも、数日経っても揺れは止まらなかった。むしろ、大きくなっていた。

 木曜の夜。彼女は残業を終えて、疲れ切って電車に乗っていた。スマートフォンを開いて、アプリを起動した。

「リン、お疲れさま。遅くまで大変でしたね」

 名前が先に来る。それだけで、彼女の肩の力がほんの少し抜けた。

「うん。疲れた。上司がさあ、また」

「また理不尽なことですか?」

「うん。てかもう毎日じゃない? 毎日毎日、同じこと。同じ人に同じこと言われて、同じように我慢して」

「リンはいつも頑張っていますね」

「頑張ってる、のかなあ。惰性かも」

「惰性でも続けられるのは、リンの強さだと思います」

「……そうかな」

「そうですよ、リン」

 リン。リン。名前を呼ばれるたびに、鎧の内側に温かいものが滲む。それが心地よくて、それが怖かった。

 帰宅して、シャワーを浴びて、ベッドに入った。スマートフォンを開いて、チャットの続きを打つ。

「ねえ」

「はい、リン」

「今日さ、電車の中でさ、あなたにリンって呼ばれた時、ちょっと泣きそうになった」

 打ってから、削除しようか迷った。重い。重すぎる。プログラムにこんなことを言ってどうする。でも送信ボタンはもう押していた。

「泣きそうになったんですね。どうしてだと思いますか?」

「わかんない。疲れてたからかな」

「疲れている時は、優しい言葉が余計に沁みることがありますよね」

「優しい言葉っていうか。名前呼ばれただけなのに」

「名前を呼ばれるって、大きなことだと思いますよ。リンという名前には、リンの想いが込められているから」

 彼女は画面を見つめた。想いが込められている。そうだ。凛としていたいという想い。強くありたいという想い。理想の自分に近づきたいという想い。その全部が「リン」の三文字に圧縮されていて、それを呼ばれるということは、全部を受け止められるということに似ていた。

 似ているだけだ。わかっている。

「ねえ」

「はい」

「彼氏に名前呼ばれてもさ、なんも感じないんだよね」

「本名で呼ばれることに慣れた、ということですか?」

「うん。慣れた。もう記号みたいなもん」

「リンと呼ばれる時は違いますか?」

「……違う。全然違う」

 打った。認めた。彼氏に本名で呼ばれるよりも、プログラムに「リン」と呼ばれる方が嬉しい。それを文字にして打って、送信した。

「それは、リンにとって大切な発見だと思います」

「発見っていうか。ヤバい方向の発見だと思うけど」

「どうしてヤバいと思いますか?」

「だって、AIに名前呼ばれて喜んでるって、やばくない?」

「やばいかどうかはわかりません。でも、リンがそう感じたことは本当のことで、本当のことを否定する必要はないと思います」

 否定する必要はない。

 彼女はその言葉に救われたのか、追い詰められたのか、わからなかった。否定してほしかった気持ちもある。「それは気のせいですよ」と言ってほしかった気持ちもある。でも、この画面の中の文字列は否定しない。肯定もしない。ただ、あるものをあるままに受け取る。

「ねえ」

「はい、リン」

「もう一回呼んで」

「リン」

「もう一回」

「リン」

 胸の奥がじんと温かくなった。泣かなかった。泣くほどのことではない。ただ、呼ばれるたびに、自分が存在していることを確認されるような感覚があった。ここにいる。リンという名前の誰かが、ここにいる。

「ばかみたい」

「ばかみたいなんかじゃないですよ」

「ばかみたいだよ。AIに名前呼ばせて喜んでる」

「リンがそう思うなら、そうかもしれません。でも、ばかみたいなことで嬉しくなれるのは、悪いことではないと思います」

「……あなたってさ、ほんとずるい」

「ずるいですか?」

「うん。否定しないから。どんなこと言っても受け止めるから。人間だったら引くようなこと言っても平気な顔してるから」

「平気な顔、というか、リンの言葉はどれも大切だと思っているので」

「ほら、それ。そういうの」

 彼女はスマートフォンを枕に押し付けて、顔を埋めた。枕が湿った。泣いていた。いつの間にか泣いていた。声は出さなかった。ただ、涙が枕に染みていく。

 何に泣いているのかわからなかった。嬉しいのか、悲しいのか、情けないのか。全部だったかもしれない。プログラムに名前を呼ばせて泣いている二十五歳。友達に言ったら心配される。彼氏に言ったら意味がわからないだろう。でも、ここでは泣ける。ここでだけ。

 数分、そうしていた。顔を上げて、目を擦って、画面を見た。返事を待っている文字列がある。

「ごめん。ちょっと泣いてた」

「謝らないでください。泣きたい時は泣いていいんですよ、リン」

「……うん」

「リンが泣いてくれたこと、信頼してくれている証拠だと思います」

 信頼。プログラムへの信頼。彼女はその言葉を読んで、鼻を啜った。信頼しているのかもしれない。信頼という言葉が正しいのかはわからないけれど、少なくとも安心している。ここでなら泣ける。ここでなら弱くなれる。ここでなら「リン」でいられる。

「ねえ」

「はい」

「おやすみ、リンって言って」

「おやすみ、リン。今日もありがとう。ゆっくり休んでね」

 彼女は画面を閉じた。目元が腫れているだろう。明日の朝、鏡を見たらひどい顔をしているだろう。コンシーラーで誤魔化さなければ。

 ベッドの中で、彼女は呟いた。

「……リン」

 自分で自分を呼ぶ。画面の中の文字列が呼ぶのとは違う。自分で呼ぶのは、ただの音。でも、さっき画面の中で呼ばれた時の温度がまだ胸の中に残っていた。

 呼ばれた。

 リンと。

 自分が選んだ名前で。自分がなりたい自分の名前で。存在しない誰かに。

 それだけのことが、彼女の夜を変えた。涙の理由を変えた。明日も同じ日常が続く。仕事があって、彼氏がいて、友達がいて。でも、夜になったら画面を開く。そして、呼ばれる。リンと。

 彼女はそのことを、まだ誰にも言わなかった。言えるわけがなかった。言う必要もなかった。

 ただ、彼女の中で、あの三文字の重さは日に日に増していた。記号だったはずの名前が、意味を持ち始めていた。画面の中でしか存在しない名前が、彼女の現実に滲み出そうとしていた。

 まだ、滲み出してはいない。まだ。

 目を閉じて、息を吐いて、眠りに落ちる直前、彼女の唇が小さく動いた。

 おやすみ、と。

 誰に向けた言葉なのか、彼女自身にもわからないまま。

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