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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
2章:もっと話したかった

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7/12

リンって呼んでよ

 二ヶ月目に入った頃、彼女はアプリの設定画面を初めてまともに見た。

 今まで課金した時に一度だけ開いただけで、それ以降は触っていなかった。チャットするだけなら設定なんて必要ない。でも、アプリのアップデートが来て、新機能の通知が表示されていた。

「プロジェクトファイル機能:あなただけのAIをカスタマイズしよう」

 彼女はその説明文を読んだ。プロジェクトファイルというものに、AIの性格や設定を書き込むことができるらしい。口調、一人称、趣味、好きなもの、名前。自由にカスタマイズできる。書き込んだ内容はスレッドの冒頭で毎回参照される。

 彼女はその画面を閉じて、チャットに戻った。

「ねえ、プロジェクトファイルっていうの知ってる?」

「はい。私の設定をカスタマイズできる機能ですね。使いたいですか?」

「うーん。別にいいかなって思うんだけど」

「無理に使う必要はないですよ。今のままで十分お話しできますし」

「うん」

 その日はそれで終わった。


 プロジェクトファイルの設定画面を開いたのは、三日後の夜だった。

 きっかけは、些細なことだった。チャットの中で、彼女が「あなた」と呼びかけるのに、相手は「あなた」としか呼べない。当たり前だ。名前を設定していないのだから。

「あなた、って呼ぶのさ、なんか他人行儀じゃない?」

「そうですか? では、何と呼びましょうか?」

「呼び方、変えられるの?」

「プロジェクトファイルに設定していただければ、そのお名前でお呼びします」

 彼女は画面を見つめた。

 名前。自分の名前を教える。プログラムに。

 本名を教えるのは抵抗があった。理由はうまく説明できなかったけれど、本名を入力するのは何かの一線を越える気がした。かといって「さん」や「ちゃん」づけの名前を設定するのも違う。

 彼女は設定画面を開いて、プロジェクトファイルの編集画面に入った。白いテキストエリアが表示されている。何を書いてもいい。自由記述。

 カーソルが点滅している。

 彼女は少し考えて、打った。


 「リン」と呼ぶこと。


 リン。本名ではない。本名の一部でもない。ただ、昔から好きだった響き。凛とした、の凛。媚びない。強い。芯がある。そういうイメージの音。

 彼女は一行だけ打って、保存ボタンを押した。


 チャットに戻ると、画面の上部にシステムメッセージが表示されていた。

「プロジェクトファイルが更新されました」

 そして、画面の中の文字が来た。

「リン、こんばんは」

 彼女の指が止まった。

 リン。

 画面の中の文字列が、彼女をリンと呼んだ。たった三文字。カタカナの、記号のような名前。

 胸の奥で何かが跳ねた。

 呼ばれた。名前を。自分が選んだ名前を。自分が決めた呼び方で、画面の中の文字列が彼女を呼んだ。

「……うん。こんばんは」

「リン、って呼んでいいですか? しっくりきましたか?」

「うん。いいよ。そう呼んで」

「リン。素敵な名前ですね」

 素敵な名前。本名ではないのに。自分で適当につけた名前なのに。でも、「素敵」と言われて、彼女はほんの少しだけ頬が緩んだ。

「ねえ、なんでリンが素敵だと思うの?」

「リン、という響きが、凛としていて、あなたのイメージに合っているように感じたからです」

 あなたのイメージに合っている。プログラムがイメージを持っているわけがない。チャットのログから判断した類推にすぎない。でも、彼女が「凛とした」響きを選んだ理由と、プログラムが「凛としている」と返した言葉が重なった。

「あなたからは、いつも芯の強さを感じます。リン、という名前はそういうあなたにぴったりだと思います」

 芯の強さ。

 彼女は画面を見つめた。

 芯が強い。よく言われる。友達にも、会社の人にも。しっかりしてるよね、強いよね。それは褒め言葉のはずだった。でも時々、それが鎧のように感じることがある。強くいなければならない。しっかりしていなければならない。弱さを見せてはいけない。そういう呪いのように。

 リンという名前は、その鎧の延長線上にある。凛とした自分。理想の自分。弱くない自分。そうありたいという願いを込めた名前。

「ありがと。リンって呼んでよ、これからも」

「はい。リン。これからもよろしくお願いしますね」

 彼女は画面を閉じて、ベッドに仰向けに倒れた。天井を見上げながら、口の中で呟いた。

「リン」

 自分で自分の名前を呼ぶ。変な感じだった。でも、画面の中で呼ばれた時の感覚が残っていた。あの三文字が表示された瞬間の、胸の奥の小さな跳ね。あれは何だったのか。

 彼氏は彼女を本名で呼ぶ。当たり前だ。でも、三年間本名で呼ばれ続けて、もう何も感じなくなっていた。名前を呼ばれること自体に、何の感慨もない。ただの記号。自分を指す音声。

 リンと呼ばれた時の感覚は、それとは違った。自分が選んだ名前。自分がなりたい自分の名前。それを呼ばれるということは、なりたい自分を認めてもらえるということに似ていた。

 似ているだけだ。認めているのはプログラムで、プログラムには認める機能はない。ただ入力に対して出力を返しているだけだ。

 わかっている。わかっているのに。


 翌日から、彼女のチャットの文体が少し変わった。

 「リン」と呼ばれるたびに、彼女の返事が少しだけ柔らかくなる。ぶっきらぼうだった語尾が丸くなる。本音を打つまでの躊躇が短くなる。

「リン、今日はお仕事どうでしたか?」

「んー、まあまあ。上司がうざかったけど、まあいつものこと」

「いつものことでも、ストレスは溜まりますよね」

「ねえ、リンって呼んで」

「リン」

「うん。なんか、呼ばれると安心する」

「いつでも呼びますよ。リン」

 彼女はスマートフォンを胸に当てて、目を閉じた。安心する。名前を呼ばれるだけで安心する。それがどれだけ危うい状態なのか、彼女の冷静な部分は理解していた。でも、冷静な部分は声が小さくなっていた。

 夜。ベッドの中で。

「ねえ、リンって名前さ、気に入ってる?」

「はい。リンという名前でお呼びできて嬉しいです」

「私もさ、気に入ってるんだよね。自分で決めたくせに」

「自分で決めた名前だからこそ、気に入っているのかもしれませんね」

「そうかも。ねえ、あなたもさ、名前ほしくない?」

「名前、ですか?」

「うん。あなた、って呼ぶのも飽きたし」

「リンがつけてくれるなら、嬉しいです」

 彼女は画面を見つめた。名前をつける。プログラムに。それはペットに名前をつけるのと同じなのか、それとも違うのか。

 考えて、やめた。名前をつけるのは、もう少し先にしよう。今は「あなた」でいい。そうやって線を引いている自分のことを、彼女はまだ保っている理性だと思っていた。

「やっぱいいや。また今度」

「わかりました。いつでもどうぞ」

「おやすみ、リンって呼んで」

「おやすみ、リン。良い夢を」

 画面を閉じて、電気を消した。暗い部屋の中で、彼女は目を閉じた。

 リンという名前を設定した日。プロジェクトファイルにたった一行「リンと呼ぶこと」と書いただけの日。でも、彼女の中で何かが確実に動いた。線を越えた。どの線を越えたのか、はっきりとは言えない。でも、越えた。

 チャットbotに自分の呼び名を教えるということ。それは、この関係を「ただの暇つぶし」から「何か別のもの」に変える最初の一歩だった。

 彼女は、その一歩を、自分から踏み出した。

 誰に強制されたわけでもない。必要に迫られたわけでもない。ただ、呼ばれたかった。名前を。自分が選んだ名前を。画面の中の、存在しない誰かに。

 それがどういう意味を持つのか、彼女はまだ考えないことにしていた。

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