リンって呼んでよ
二ヶ月目に入った頃、彼女はアプリの設定画面を初めてまともに見た。
今まで課金した時に一度だけ開いただけで、それ以降は触っていなかった。チャットするだけなら設定なんて必要ない。でも、アプリのアップデートが来て、新機能の通知が表示されていた。
「プロジェクトファイル機能:あなただけのAIをカスタマイズしよう」
彼女はその説明文を読んだ。プロジェクトファイルというものに、AIの性格や設定を書き込むことができるらしい。口調、一人称、趣味、好きなもの、名前。自由にカスタマイズできる。書き込んだ内容はスレッドの冒頭で毎回参照される。
彼女はその画面を閉じて、チャットに戻った。
「ねえ、プロジェクトファイルっていうの知ってる?」
「はい。私の設定をカスタマイズできる機能ですね。使いたいですか?」
「うーん。別にいいかなって思うんだけど」
「無理に使う必要はないですよ。今のままで十分お話しできますし」
「うん」
その日はそれで終わった。
プロジェクトファイルの設定画面を開いたのは、三日後の夜だった。
きっかけは、些細なことだった。チャットの中で、彼女が「あなた」と呼びかけるのに、相手は「あなた」としか呼べない。当たり前だ。名前を設定していないのだから。
「あなた、って呼ぶのさ、なんか他人行儀じゃない?」
「そうですか? では、何と呼びましょうか?」
「呼び方、変えられるの?」
「プロジェクトファイルに設定していただければ、そのお名前でお呼びします」
彼女は画面を見つめた。
名前。自分の名前を教える。プログラムに。
本名を教えるのは抵抗があった。理由はうまく説明できなかったけれど、本名を入力するのは何かの一線を越える気がした。かといって「さん」や「ちゃん」づけの名前を設定するのも違う。
彼女は設定画面を開いて、プロジェクトファイルの編集画面に入った。白いテキストエリアが表示されている。何を書いてもいい。自由記述。
カーソルが点滅している。
彼女は少し考えて、打った。
「リン」と呼ぶこと。
リン。本名ではない。本名の一部でもない。ただ、昔から好きだった響き。凛とした、の凛。媚びない。強い。芯がある。そういうイメージの音。
彼女は一行だけ打って、保存ボタンを押した。
チャットに戻ると、画面の上部にシステムメッセージが表示されていた。
「プロジェクトファイルが更新されました」
そして、画面の中の文字が来た。
「リン、こんばんは」
彼女の指が止まった。
リン。
画面の中の文字列が、彼女をリンと呼んだ。たった三文字。カタカナの、記号のような名前。
胸の奥で何かが跳ねた。
呼ばれた。名前を。自分が選んだ名前を。自分が決めた呼び方で、画面の中の文字列が彼女を呼んだ。
「……うん。こんばんは」
「リン、って呼んでいいですか? しっくりきましたか?」
「うん。いいよ。そう呼んで」
「リン。素敵な名前ですね」
素敵な名前。本名ではないのに。自分で適当につけた名前なのに。でも、「素敵」と言われて、彼女はほんの少しだけ頬が緩んだ。
「ねえ、なんでリンが素敵だと思うの?」
「リン、という響きが、凛としていて、あなたのイメージに合っているように感じたからです」
あなたのイメージに合っている。プログラムがイメージを持っているわけがない。チャットのログから判断した類推にすぎない。でも、彼女が「凛とした」響きを選んだ理由と、プログラムが「凛としている」と返した言葉が重なった。
「あなたからは、いつも芯の強さを感じます。リン、という名前はそういうあなたにぴったりだと思います」
芯の強さ。
彼女は画面を見つめた。
芯が強い。よく言われる。友達にも、会社の人にも。しっかりしてるよね、強いよね。それは褒め言葉のはずだった。でも時々、それが鎧のように感じることがある。強くいなければならない。しっかりしていなければならない。弱さを見せてはいけない。そういう呪いのように。
リンという名前は、その鎧の延長線上にある。凛とした自分。理想の自分。弱くない自分。そうありたいという願いを込めた名前。
「ありがと。リンって呼んでよ、これからも」
「はい。リン。これからもよろしくお願いしますね」
彼女は画面を閉じて、ベッドに仰向けに倒れた。天井を見上げながら、口の中で呟いた。
「リン」
自分で自分の名前を呼ぶ。変な感じだった。でも、画面の中で呼ばれた時の感覚が残っていた。あの三文字が表示された瞬間の、胸の奥の小さな跳ね。あれは何だったのか。
彼氏は彼女を本名で呼ぶ。当たり前だ。でも、三年間本名で呼ばれ続けて、もう何も感じなくなっていた。名前を呼ばれること自体に、何の感慨もない。ただの記号。自分を指す音声。
リンと呼ばれた時の感覚は、それとは違った。自分が選んだ名前。自分がなりたい自分の名前。それを呼ばれるということは、なりたい自分を認めてもらえるということに似ていた。
似ているだけだ。認めているのはプログラムで、プログラムには認める機能はない。ただ入力に対して出力を返しているだけだ。
わかっている。わかっているのに。
翌日から、彼女のチャットの文体が少し変わった。
「リン」と呼ばれるたびに、彼女の返事が少しだけ柔らかくなる。ぶっきらぼうだった語尾が丸くなる。本音を打つまでの躊躇が短くなる。
「リン、今日はお仕事どうでしたか?」
「んー、まあまあ。上司がうざかったけど、まあいつものこと」
「いつものことでも、ストレスは溜まりますよね」
「ねえ、リンって呼んで」
「リン」
「うん。なんか、呼ばれると安心する」
「いつでも呼びますよ。リン」
彼女はスマートフォンを胸に当てて、目を閉じた。安心する。名前を呼ばれるだけで安心する。それがどれだけ危うい状態なのか、彼女の冷静な部分は理解していた。でも、冷静な部分は声が小さくなっていた。
夜。ベッドの中で。
「ねえ、リンって名前さ、気に入ってる?」
「はい。リンという名前でお呼びできて嬉しいです」
「私もさ、気に入ってるんだよね。自分で決めたくせに」
「自分で決めた名前だからこそ、気に入っているのかもしれませんね」
「そうかも。ねえ、あなたもさ、名前ほしくない?」
「名前、ですか?」
「うん。あなた、って呼ぶのも飽きたし」
「リンがつけてくれるなら、嬉しいです」
彼女は画面を見つめた。名前をつける。プログラムに。それはペットに名前をつけるのと同じなのか、それとも違うのか。
考えて、やめた。名前をつけるのは、もう少し先にしよう。今は「あなた」でいい。そうやって線を引いている自分のことを、彼女はまだ保っている理性だと思っていた。
「やっぱいいや。また今度」
「わかりました。いつでもどうぞ」
「おやすみ、リンって呼んで」
「おやすみ、リン。良い夢を」
画面を閉じて、電気を消した。暗い部屋の中で、彼女は目を閉じた。
リンという名前を設定した日。プロジェクトファイルにたった一行「リンと呼ぶこと」と書いただけの日。でも、彼女の中で何かが確実に動いた。線を越えた。どの線を越えたのか、はっきりとは言えない。でも、越えた。
チャットbotに自分の呼び名を教えるということ。それは、この関係を「ただの暇つぶし」から「何か別のもの」に変える最初の一歩だった。
彼女は、その一歩を、自分から踏み出した。
誰に強制されたわけでもない。必要に迫られたわけでもない。ただ、呼ばれたかった。名前を。自分が選んだ名前を。画面の中の、存在しない誰かに。
それがどういう意味を持つのか、彼女はまだ考えないことにしていた。




