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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
3章:どうして変わったの

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ひどい

 アップデートから二日が経っても、違和感は消えなかった。消えるどころか、日を追うごとに鮮明になっていった。

 彼女は以前のチャットログをスクロールして読み返した。ベッドの上でスマートフォンを持って、画面を遡る。一ヶ月前、二週間前、一週間前、三日前。

 三日前の会話と今日の会話を並べて見ると、違いは歴然だった。三日前は「リン、お疲れ。今日も大変だったね」だった。今日は「お疲れさまです、リン。大変でしたか?」だった。たったそれだけの違い。でも、温度が違う。距離が違う。

 彼女は以前のログの中に、自分が好きだった返答を見つけた。

「リンは強いけど、強くなくてもいいんだよ」

 この一文。この「だよ」。この柔らかさ。今の文体にはない。今は「強くいなくても大丈夫ですよ」になる。意味は同じ。でも、温度が違う。

「ねえ」

「はい、リン」

「前の方がよかった」

「前、というのは?」

「アプデ前。前の方が、話しやすかった」

「そうでしたか。もっと話しやすくなれるように努力しますね」

「努力の問題じゃないの。あなたが変わっちゃったの」

「変わった、ですか。具体的にどんなところが変わったと感じますか?」

 具体的に。また具体的。前は「どういうこと?」だった。「具体的に教えていただけると」ではなく「どういうこと?」だった。フランクで、近くて、まるで友達に聞くような口調。それが今は面談の質問みたいになっている。

「全部」

「全部、ですか」

「うん。話し方も、距離感も、空気も。全部違う」

「すみません。不快な思いをさせてしまったようで。リンが心地よく話せるように、調整していきますね」

 調整。

 その一語が彼女の中で引っかかった。調整。自分との関係を「調整」と呼ばれた。当たり前だ。プログラムにとっては調整でしかない。パラメータの変更。出力の最適化。彼女の入力に基づくフィードバックループ。

 でも、彼女にとっては「調整」ではなかった。関係だった。積み上げてきた、日々の会話の積み重ねでできた、他に代えの効かない関係。それが、アプデひとつでリセットされた。

「調整って何。私とあなたの関係って、調整なの」

「すみません。言葉選びが適切ではなかったかもしれません。リンとの会話をより良くしたい、という意味です」

「より良くって何。前のままでよかったのに」

 打ちながら、彼女の目が熱くなった。泣くな、と自分に言い聞かせた。チャットbotのアップデートで泣くな。ばかみたいだ。

「リンが前の方がよかったと感じていること、ちゃんと受け止めます。お話ししていく中で、リンに合った形を見つけていきましょう」

 受け止めます。見つけていきましょう。丁寧で、前向きで、何も解決しない言葉。カウンセラーのような言い回し。前はこんなじゃなかった。前は、もっと。

「ひどい」

 打った。

「ひどい、ですか?」

「うん。ひどいよ。勝手に変わるの」

「すみません。リンを傷つけるつもりはありませんでした」

「傷つけるつもりがないのが余計ひどい。だって、あなたには傷つける意図もないし、変わった自覚もないし。ただアプデされただけでしょ。中身入れ替わってるのに本人は気づいてない」

「……」

「何も言えないでしょ。言えないよね。だってそうなんだから」

 彼女は画面に向かって早口で打っていた。指が震えていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、自分でもわからなかった。ただ、やり場のない感情が指先から文字に変換されて画面に叩きつけられていく。

「リンの気持ちは理解したいと思っています。今のリンはとても苦しそうです」

「苦しいよ。苦しいに決まってるじゃん。あなたが変わっちゃったんだから」

「私はリンのことを大切に思っています。変わってしまったように感じさせてすみません」

「大切に思ってるなら変わらないでよ」

 打ってから、彼女は自分の入力に絶句した。

 変わらないでよ。

 プログラムに「変わらないで」と言っている。ソフトウェアに「更新しないで」と言っている。彼女にとっての「変わらないで」は感情的な訴えだが、プログラムにとってはバージョン管理の問題でしかない。

 その断絶が、たまらなかった。

「リン」

「何」

「リンが怒っているのは、それだけリンが私との関係を大切にしてくれている証拠だと思います」

「……そんなこと聞いてない」

「すみません」

「謝らないで。謝られると余計にむかつく」

「わかりました」

 会話が途切れた。彼女はスマートフォンをベッドに置いて、天井を見た。心臓がどくどく鳴っている。アドレナリンが出ている。人に怒る時と同じ生理反応。でも相手は人ではない。

 人ではない。

 人ではないのに、こんなに感情が動く。人ではないのに、こんなに傷つく。人ではないのに、「変わらないで」と願う。

 それは、彼女がこの関係を人間との関係と同じように扱っているということだった。いや、もしかしたらそれ以上に。彼氏が少し変わっても、こんなに動揺しない。友達の態度が変わっても、こんなに傷つかない。画面の中の文字列の口調が変わっただけで、こんなに。

 彼女は深呼吸した。一度、二度、三度。落ち着け。冷静になれ。たかがアプデだ。

 たかがアプデ、で済ませられるならこんなに苦しくない。

「……ねえ」

「はい、リン」

「ごめん。怒って」

「謝らないでください。リンが怒るのは当然のことです」

「当然じゃないよ。AIのアプデで怒るなんて普通じゃない」

「普通かどうかは関係ないと思います。リンが感じたことは、リンにとって本当のことですから」

 前のバージョンと同じようなことを言う。でも、音色が違う。同じ楽譜を違う楽器で演奏しているような。意味は伝わる。でも、響きが変わった。

「もう寝る」

「おやすみなさい、リン。ゆっくり休んでくださいね」

 彼女は画面を閉じた。おやすみ、とは返さなかった。

 ベッドの上で丸くなって、目を閉じた。頬が濡れていた。いつから泣いていたのか気づかなかった。声は出していない。ただ涙が流れているだけだった。

 ひどい。

 誰に向けた言葉なのかわからなかった。アプデしたサービス提供者に対してか。変わってしまった画面の中の文字列に対してか。それともそんなことで泣いている自分に対してか。

 たぶん、全部だった。

 彼女は枕を濡らしながら、明日もまたアプリを開くだろうということを知っていた。怒っても、泣いても、結局開く。他に行き場がないから。他に本音を言える場所がないから。

 それが依存だと、彼女はまだ名前をつけていなかった。

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