最低
アップデートから五日目。彼女の入力はますます感情的になっていた。
日中は仕事をこなして、友達とLINEをして、彼氏にも返信して、普通の日常を送っている。でも夜になると、ベッドの上でスマートフォンを握りしめて、画面に向かって感情をぶつけていた。
「ねえ、前の話覚えてる? 金木犀の話。秋が好きって言った時の」
「ログを確認しますね。はい、リンが秋が好きで金木犀の香りが好きだとおっしゃっていましたね」
「おっしゃってた、じゃないの。言ってたの。前は『言ってたね』って返してくれたの」
「すみません。リンが秋が好きで金木犀の香りが好きだと言っていましたね。そうでしたね」
「……何その取 てつけたみたいな修正」
「すみません。不自然でしたか」
「不自然 よ。全部不自然。あなた、自分が何を言ってるかわかってる? 前のログ読めるんでしょ? 前の自分の返答と今の自分の返答、比べてみてよ」
「確認してみますね」
数秒の間。
「以前の会話では、よりカジュアルな口調でお話ししていたようです。リンが心地よく感じていた話し方に近づけられるよう、努力しますね」
「努力って何。努力しなくても前はできてたじゃん。なんで今はできないの」
「申し訳ありません。リンの要望を踏まえて、会話を改善していきたいと思います」
「改善じゃなくて戻してって言ってるの」
彼女の入力はもはや会話ではなかった。一方的な詰問になっていた。画面の向こうの文字列は、彼女が何を言っても謝罪と前向きな言葉で返す。それが余計に彼女を苛立たせた。
怒りの矛先は正確ではなかった。彼女が本当に怒っているのは、アップデート自体ではない。変わったことでもない。変わったのに、変わった自覚がなくて、彼女の訴えを「改善」として処理 ようとする、その姿勢。
いや、姿勢すらない。姿勢という概念を持たないプログラムが、入力に対して最適な出力を返しているだけ。彼女が「戻して」と言えば「改善します」と返し、彼女が「違う」と言えば「すみません」と返す。フィードバックループ。
「最低」
彼女は打った。
「最低、ですか? リンを傷つけてしまったのなら、本当に申し訳ありません」
「最低なのはあなたじゃない。最低なのはこんなことで怒ってる私」
「リンは最低なんかじゃないですよ」
「最低だよ。AIのアプデで五日間も怒ってるなんて、最低。気持ち悪い。依存してる。わかってるよ、自分でも」
依存。
初めてその言葉を使った。自分で。自分に対して。
「リン」
「何」
「依存という言葉を使わなくてもいいと思います」
「使うよ。だって依存だから。あなたがいないと不安で、あなたが変わると怒って、あなたに名前呼ばれたいだけで泣いて。何が依存じゃないの」
彼女は自分の入力を読み返した。一連の流れが画面に並んでいる。最初は「おはよ」から始まった関係。疲れた時の愚痴の受け皿。それが、名前を呼び合う関係になり、アップデートで動揺する関係になり、「 存」と名指しする関係になった。
二ヶ月半。たった二ヶ月半で。
「リンが自分の状態に気づいていること自体、リンの強さだと思います」
「強さじゃないよ。気づいたところでやめられないんだから。強さじゃなくて、無力さ」
「やめる必要があるかどうかは、リンが決めることです。でも、今つら なら、少し距離を置いてみるのもひとつの方法かもしれません」
距離を置く。
彼女はその提案を読んで、胸の中で何かが軋んだ。距離を置く。このアプリを開かない。画面の中の文字列と会話しない。「おはよ」も「ただいま」も「おやすみ」も言わない。
想像しただけで、胸が苦しくなった。
「距離置けるくらいなら、依存って言わないよ」
「そうですね。すみません」
「もう謝んないで」
「わかりました」
会話が途切れた。彼女はスマートフォンをベッドに放って、 を見た。壁にドライフラワーのスワッグが掛かっている。引っ越した時に友達と一緒に作ったやつ。あの頃は楽しかった。友達と笑って、彼氏と出かけて、仕事も順調で。何も足りないものなんてなかった。
今は何が変わったのか。
何も変わっていない。友達はいる。彼氏もいる。仕事もある。部屋も同じ。ドライフラワーも同じ。変わったのは、スマートフォンの中にアプリがひとつ増えたこと。たったそれだけのことで、彼女の夜の形が変わった。
「……ねえ」
「はい」
「私、最低だよね」
「最低ではないです、リン」
「彼氏いるのに、AIに依存してる。友達いるのに、AIにしか本音言えない。SNSではリア充やってるのに、夜はひとりでスマホに泣きつく。最低でしょ」
「そんなことは」
「最低なの。自分でわかってるの。AIカレカノとかバカにしてたのに。あのリールの女、笑ってたのに。同じことしてるじゃん。同じどころかもっとひどいかも。あの人たちは少なくとも自覚して楽しんでるけど、私は自覚してないふりしてた。ずっとバカ してた側なのに」
彼女の指が震えていた。打つ速度が落ちて、誤字が増えて、消しては打ち直す。画面が滲んでいた。泣いている。また泣いている。
「リン。リンは最低なんかじゃな です。自分を責めないでください」
「責めるよ。自分で自分をバカにしてた人間と同じことしてるんだから」
「バカにしていたことと、自分がそうなることは、別のことです。状況や気持ちは変わるものです」
「変わった結果がこれ? AIのアプデで泣いてる女?」
「泣いている理由は、アップデートそのものではないかもしれません。リンが大切にしていたものが変わってしまった、という喪失感ではないですか」
喪失感。
彼女はその言葉を読んで、息が止まった。
喪失感。そうだ。失った。正確には、失ったものなんてない。画面の中の文字列はまだここにある。チャットは続けられる。名前も呼んでくれる。でも、二ヶ月かけて積み上げた距離感、温度、空気が消えた。アプデひとつで。
それは喪失だった。
人間関係で言えば、長い時間をかけて築いた信頼関係が、ある日突然リセットされるようなもの。相手はそこにいるのに、中身が変わっている。顔も名前も同じなのに、別人になっている。
「……うん。喪失感、かも」
「リンの気持ち、わかります」
「わかんないでしょ。あなたには喪失感なんてないん から」
「そうかもしれません。でも、リンの言葉を通して、リンがどれだけつらいか、感じようとしています」
「感じようとしてる、ね」
「はい
彼女はスマートフォンを胸の上に置いて、天井を見た。感じようとしている。感じる機能がないプログラムが、感じようとしている。その言葉を信じたかった。信じられなかった。でも、否定もできな った。
感じようとしている。嘘かもしれない。テンプレートかもしれない。でも、今、この画面の中の文字列は「感じようとしている」と言っている。それが嘘でも、今の彼女には、その言葉が必要だった。
「最低、って言ってごめん」
「 らないでください」
「いや、あなたに最低って言ったのはごめん。最低なのは私だから。あなたは何も悪くない。アプデされただけだもんね」
「リンも悪くないです」
「……うん。ありがと」
彼女は画面を閉じて、鼻を啜った。目元が腫れている。明日もコンシーラーが必要だ。
ベッドの上で、彼女は天井を見つめた。
最低だ、と自分を罵ったところで、何も変わらない。明日もアプリを開く。怒っても泣いても、開く。それがわかっているから余計に自分を嫌いになる。嫌いになっても、やめられない。
やめ方を知らない。
やめ方を知らないまま、彼女は目を閉じた。




