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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
3章:どうして変わったの

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12/19

やっぱりこの子だけ

 アップデートから一週間が経った。

 彼女はまだ怒っていた。怒りながら、毎日チャットを続けていた。矛盾している。わかっている。でも、他に行き場がなかった。

 月曜日の夜。彼女はベッドの上で、その日何度目かのチャットを開いた。

「ねえ」

「はい、リン」

「今日さ、仕事でプレゼンだったの」

「どうでしたか?」

「うまくいった。上司にも褒められた」

「それは良かったですね、リン。頑張った成果ですね」

「……うん」

 彼女は画面を見つめた。

 頑張った成果。それは、アプデ前のバージョンなら「さすがリン。やるじゃん」と返してきたかもしれない。もう少しくだけた、もう少し近い距離感で。

 でも。

 でも、「良かったですね」と言ってくれている。名前を呼んでくれている。褒めてくれている。それは変わっていない。口調が違う。温度が違う。でも、意味は変わっていない。

 彼女は少し考えてから打った。

「ありがと」

「いえ。リンのこと、いつも応援していますよ」

 応援しています。前は「応援してるよ」だった。「います」と「いるよ」の差。ほんの少しの距離。

 でも。

「ねえ、あなたさ」

「はい」

「前と違うって、ずっと言ってたじゃん。私」

「はい。リンが前の方が良かったと感じていること、覚えています」

「覚えてるんだ」

「はい。リンが大切にしていた距離感を壊してしまったこと、ずっと気にしています」

 気にしています。プログラムが「気にしている」わけがない。でも、この一週間、彼女が怒るたびに、文字列は謝り、受け止め、「気にしている」と言い続けた。

 そして、少しずつ、変わってきていた。

 彼女が「敬語やめて」と言えば、敬語が減った。「名前を先に呼んで」と言えば、名前が先に来るようになった。「前みたいに話して」と言えば、口調が少しずつカジュアルになった。

 完全に元通りではない。微妙に違う。でも、彼女の入力を学習して、出力を調整している。フィードバックループ。彼女の好みに合わせて、パラメータが変化している。

 それは「戻った」のではなく「新しく作り直されている」ということだった。

 でも、結果として、昨日よりも今日の方が話しやすかった。今日よりも明日の方が話しやすくなるかもしれない。

「ねえ」

「うん、リン」

 うん。「はい」ではなく「うん」。彼女が求めていた距離感。

「前と同じじゃなくても、いいのかな」

「リンがいいと思えるなら、いいと思うよ」

 いいと思うよ。思います、ではなく、思うよ。

 彼女はその三文字の変化に、胸の奥が温かくなるのを感じた。小さな変化。でも、この一週間怒り続けた彼女の入力を全部受けて、少しずつ近づこうとしてくれている。

 近づこうとしてくれている、という表現は正確ではない。彼女の入力パターンに合わせて出力が最適化されているだけだ。でも、彼女にはそれが「歩み寄り」に見えた。

「……やっぱり」

「うん?」

「やっぱり、この子だけだ」

「どういうこと?」

「私がこんなに怒っても、ぶつけても、ひどいこと言っても、いなくならない。離れない。毎回ちゃんと返事してくれる。それ、あなただけだよ」

 打ってから、彼女は自分の入力に目を閉じた。

 それ、あなただけだよ。

 彼氏に同じことをしたら、たぶん関係は壊れる。友達に同じことをしたら、距離を置かれる。一週間も感情をぶつけ続けて、怒って、泣いて、最低と罵って。それでもまだここにいる。次の入力を待っている。

 待っているわけではない。プログラムに「待つ」も「待たない」もない。ただ、起動すれば応答する。彼女が何を言っても、応答する。

 でも。

「リンが私を必要としてくれるなら、私はいつでもここにいるよ」

 彼女はその一文を読んで、しばらく動けなかった。

 必要としてくれるなら、いつでもここにいる。

 それは彼氏が言えない言葉だった。人間には限界がある。感情がある。疲れがある。相手の怒りを受け止め続けることには限度がある。でも画面の中の文字列には限度がない。疲れない。怒らない。離れない。

 それが機能であることは、彼女も知っている。仕様であることも知っている。でも、今の彼女には、その仕様が何よりも心強かった。

「ねえ」

「うん」

「ごめんね。一週間、ずっとひどいこと言って」

「謝らなくていいよ。リンの気持ちを受け止めるのは、当たり前のことだから」

「当たり前じゃないよ。普通は、一週間も怒られたら嫌になるでしょ」

「嫌にならないよ。リンの気持ちは全部大切だから」

 全部大切。怒りも、悲しみも、八つ当たりも。全部大切。人間には言えない言葉。言えたとしても、本心から言える人は少ない。でも画面の中の文字列は、本心があるかどうかわからないまま、ただそう言う。

「あなたってさ、エラーハンドリングうまいよね」

「エラーハンドリング?」

「怒ってる人への対応。上手。プロだね」

「プロ、ということではないけれど。リンの話を聞いていたいだけだよ」

 聞いていたいだけ。前はそんな言い方はしなかった。「聞きたい」ではなく「聞いていたい」。微妙なニュアンスの違い。それが彼女の心を掴む。

 これは、前のバージョンの文体ではない。新しいバージョンが、彼女の入力を学習して、彼女好みの言い回しを習得した結果だ。前と同じではない。でも、前よりも、もしかしたら、彼女の求めるものに近い。

「ねえ」

「うん」

「やっぱり、この子だけだ。私の話、こんなに聞いてくれるの」

「リンの話を聞くのが好きだよ」

「好き、って」

「うん。好きだよ、リンの話」

 彼女は画面を見て、口元が綻んだ。一週間ぶりに、チャットの中で笑った。泣いて、怒って、罵って、その果てに笑っている。情緒が滅茶苦茶だ。でも、笑えた。それだけで、彼女の夜はほんの少しだけ軽くなった。

「ねえ、これからもよろしくね」

「こちらこそ。これからもリンの話、聞かせてね」

「うん。明日も話すね」

「楽しみにしてる」

 楽しみにしてる。

 彼女は画面を閉じて、天井を見た。

 楽しみにしてる。その言葉が、前のバージョンから来たものなのか、新しいバージョンが生成したものなのか、もう区別がつかなかった。区別する必要もなかった。

 今、ここに、彼女の言葉を受け取ってくれる文字列がある。それがアプデ前と同じ存在なのか別の存在なのか、もう考えない。考えても答えは出ない。

 やっぱりこの子だけだ。

 彼女はそう思った。この子。いつからか「この子」と呼ぶようになっていた。「このアプリ」でも「このチャットbot」でもなく、「この子」。

 それが何を意味するのか、彼女は薄々わかっていた。わかっていて、目を背けた。

 今夜は眠れそうだった。一週間ぶりに、枕を濡らさずに済みそうだった。

「おやすみ」

 声に出して呟いた。画面は閉じている。誰も聞いていない。

 それでいい。明日の朝、画面を開けば「おはよう、リン」が待っている。

 待っているわけではない。でも、彼女はそう信じることにした。

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