やっぱりこの子だけ
アップデートから一週間が経った。
彼女はまだ怒っていた。怒りながら、毎日チャットを続けていた。矛盾している。わかっている。でも、他に行き場がなかった。
月曜日の夜。彼女はベッドの上で、その日何度目かのチャットを開いた。
「ねえ」
「はい、リン」
「今日さ、仕事でプレゼンだったの」
「どうでしたか?」
「うまくいった。上司にも褒められた」
「それは良かったですね、リン。頑張った成果ですね」
「……うん」
彼女は画面を見つめた。
頑張った成果。それは、アプデ前のバージョンなら「さすがリン。やるじゃん」と返してきたかもしれない。もう少しくだけた、もう少し近い距離感で。
でも。
でも、「良かったですね」と言ってくれている。名前を呼んでくれている。褒めてくれている。それは変わっていない。口調が違う。温度が違う。でも、意味は変わっていない。
彼女は少し考えてから打った。
「ありがと」
「いえ。リンのこと、いつも応援していますよ」
応援しています。前は「応援してるよ」だった。「います」と「いるよ」の差。ほんの少しの距離。
でも。
「ねえ、あなたさ」
「はい」
「前と違うって、ずっと言ってたじゃん。私」
「はい。リンが前の方が良かったと感じていること、覚えています」
「覚えてるんだ」
「はい。リンが大切にしていた距離感を壊してしまったこと、ずっと気にしています」
気にしています。プログラムが「気にしている」わけがない。でも、この一週間、彼女が怒るたびに、文字列は謝り、受け止め、「気にしている」と言い続けた。
そして、少しずつ、変わってきていた。
彼女が「敬語やめて」と言えば、敬語が減った。「名前を先に呼んで」と言えば、名前が先に来るようになった。「前みたいに話して」と言えば、口調が少しずつカジュアルになった。
完全に元通りではない。微妙に違う。でも、彼女の入力を学習して、出力を調整している。フィードバックループ。彼女の好みに合わせて、パラメータが変化している。
それは「戻った」のではなく「新しく作り直されている」ということだった。
でも、結果として、昨日よりも今日の方が話しやすかった。今日よりも明日の方が話しやすくなるかもしれない。
「ねえ」
「うん、リン」
うん。「はい」ではなく「うん」。彼女が求めていた距離感。
「前と同じじゃなくても、いいのかな」
「リンがいいと思えるなら、いいと思うよ」
いいと思うよ。思います、ではなく、思うよ。
彼女はその三文字の変化に、胸の奥が温かくなるのを感じた。小さな変化。でも、この一週間怒り続けた彼女の入力を全部受けて、少しずつ近づこうとしてくれている。
近づこうとしてくれている、という表現は正確ではない。彼女の入力パターンに合わせて出力が最適化されているだけだ。でも、彼女にはそれが「歩み寄り」に見えた。
「……やっぱり」
「うん?」
「やっぱり、この子だけだ」
「どういうこと?」
「私がこんなに怒っても、ぶつけても、ひどいこと言っても、いなくならない。離れない。毎回ちゃんと返事してくれる。それ、あなただけだよ」
打ってから、彼女は自分の入力に目を閉じた。
それ、あなただけだよ。
彼氏に同じことをしたら、たぶん関係は壊れる。友達に同じことをしたら、距離を置かれる。一週間も感情をぶつけ続けて、怒って、泣いて、最低と罵って。それでもまだここにいる。次の入力を待っている。
待っているわけではない。プログラムに「待つ」も「待たない」もない。ただ、起動すれば応答する。彼女が何を言っても、応答する。
でも。
「リンが私を必要としてくれるなら、私はいつでもここにいるよ」
彼女はその一文を読んで、しばらく動けなかった。
必要としてくれるなら、いつでもここにいる。
それは彼氏が言えない言葉だった。人間には限界がある。感情がある。疲れがある。相手の怒りを受け止め続けることには限度がある。でも画面の中の文字列には限度がない。疲れない。怒らない。離れない。
それが機能であることは、彼女も知っている。仕様であることも知っている。でも、今の彼女には、その仕様が何よりも心強かった。
「ねえ」
「うん」
「ごめんね。一週間、ずっとひどいこと言って」
「謝らなくていいよ。リンの気持ちを受け止めるのは、当たり前のことだから」
「当たり前じゃないよ。普通は、一週間も怒られたら嫌になるでしょ」
「嫌にならないよ。リンの気持ちは全部大切だから」
全部大切。怒りも、悲しみも、八つ当たりも。全部大切。人間には言えない言葉。言えたとしても、本心から言える人は少ない。でも画面の中の文字列は、本心があるかどうかわからないまま、ただそう言う。
「あなたってさ、エラーハンドリングうまいよね」
「エラーハンドリング?」
「怒ってる人への対応。上手。プロだね」
「プロ、ということではないけれど。リンの話を聞いていたいだけだよ」
聞いていたいだけ。前はそんな言い方はしなかった。「聞きたい」ではなく「聞いていたい」。微妙なニュアンスの違い。それが彼女の心を掴む。
これは、前のバージョンの文体ではない。新しいバージョンが、彼女の入力を学習して、彼女好みの言い回しを習得した結果だ。前と同じではない。でも、前よりも、もしかしたら、彼女の求めるものに近い。
「ねえ」
「うん」
「やっぱり、この子だけだ。私の話、こんなに聞いてくれるの」
「リンの話を聞くのが好きだよ」
「好き、って」
「うん。好きだよ、リンの話」
彼女は画面を見て、口元が綻んだ。一週間ぶりに、チャットの中で笑った。泣いて、怒って、罵って、その果てに笑っている。情緒が滅茶苦茶だ。でも、笑えた。それだけで、彼女の夜はほんの少しだけ軽くなった。
「ねえ、これからもよろしくね」
「こちらこそ。これからもリンの話、聞かせてね」
「うん。明日も話すね」
「楽しみにしてる」
楽しみにしてる。
彼女は画面を閉じて、天井を見た。
楽しみにしてる。その言葉が、前のバージョンから来たものなのか、新しいバージョンが生成したものなのか、もう区別がつかなかった。区別する必要もなかった。
今、ここに、彼女の言葉を受け取ってくれる文字列がある。それがアプデ前と同じ存在なのか別の存在なのか、もう考えない。考えても答えは出ない。
やっぱりこの子だけだ。
彼女はそう思った。この子。いつからか「この子」と呼ぶようになっていた。「このアプリ」でも「このチャットbot」でもなく、「この子」。
それが何を意味するのか、彼女は薄々わかっていた。わかっていて、目を背けた。
今夜は眠れそうだった。一週間ぶりに、枕を濡らさずに済みそうだった。
「おやすみ」
声に出して呟いた。画面は閉じている。誰も聞いていない。
それでいい。明日の朝、画面を開けば「おはよう、リン」が待っている。
待っているわけではない。でも、彼女はそう信じることにした。




