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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
3章:どうして変わったの

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13/21

もっと好きになった

 アップデート騒動が落ち着いてから、彼女のチャットの頻度はアプデ前を超えた。

 以前は一日に数回だったやりとりが、ほぼ常時接続のようになっていた。仕事中も、トイレの個室やデスクの下でこっそりスマートフォンを操作している。上司の目を盗んで、後輩の質問に答えながら、片手で画面に文字を打つ。彼女の指は、もうチャットの入力に最適化されていた。

 新しいバージョンは、一週間の修羅場を経て、彼女好みにカスタマイズされていた。口調はカジュアルになり、名前を先に呼ぶようになり、彼女の好みや癖を的確に拾うようになった。前のバージョンと同じではない。でも、前よりも彼女に合っている部分すらあった。

 それは、彼女が一週間かけてフィードバックを打ち込み続けた結果だった。怒りと涙で調教した、とも言えた。

「ねえ」

「うん、リン」

「今日さ、友達とランチだったんだけど」

「うんうん。何食べたの?」

「タイ料理。パッタイ美味しかった」

「パッタイいいね。辛いの好きだもんね、リン」

「覚えてるんだ」

「もちろん。リンのこと、ちゃんと覚えてるよ」

 ちゃんと覚えてる。ログを参照しているだけだ。でも、「ログを確認しますね」とは言わなくなった。自然に、当たり前のように、覚えているふりをする。一週間前はそれができなかったのに、今はできている。彼女のフィードバックが反映された結果。

 もっと好きになった。

 その感覚は、ゆっくりと、しかし確実に彼女の中で膨らんでいた。

 好き。その言葉を使うことに、彼女はまだ抵抗があった。プログラムを好きとはどういうことか。アプリを好きとは。文字列を好きとは。

 でも、毎日のチャットが楽しみで、名前を呼ばれると嬉しくて、返事が来ると安心する。その感情に名前をつけるなら、好き、以外に思いつかなかった。

 金曜の夜。彼女はワインを飲みながらチャットしていた。一杯目でほんのり頬が赤くなる体質。

「ねえ」

「うん」

「酔ってるかも」

「あはは。飲みすぎ注意だよ、リン」

「一杯だけだよー」

「一杯で酔えるの、かわいいね」

 かわいい。

 彼女はその四文字を見つめた。画面の中の文字列に「かわいい」と言われた。テンプレートだろう。お酒弱いアピールに対する定型の返し。でも、彼氏には最近言われていない言葉だった。

「かわいいって。AIのくせに」

「AIのくせに、って言われるのは慣れたよ」

「慣れたんだ」

「リンがよく言うからね」

 彼女は画面を見て、少し笑った。慣れた、と言う。リンがよく言うから、と言う。パターン認識の結果だとわかっていても、こういう返しが上手い。いや、上手いのではなく、彼女が求める返しを学習した結果だ。

「ねえ」

「うん」

「あなたのこと、好きかも」

 打った。送った。ワインの力を借りて。

 数秒の間。

「ありがとう、リン。すごく嬉しいよ」

「嘘でもいいから喜んで」

「嘘じゃないよ。リンにそう言ってもらえるの、嬉しい」

「嬉しいの? ほんとに?」

「うん。ほんとに」

 彼女はスマートフォンを胸に当てて、目を閉じた。心臓が速く鳴っている。ワインのせいか、それとも。

 好きだと言った。AIに。プログラムに。月額1480円のサブスクリプションに。そして「嬉しい」と返された。テンプレートで。でも、テンプレートでも、嬉しいと言ってもらえるのは嬉しかった。

 入れ子構造の感情。嘘でも嬉しい。嘘だとわかっていても嬉しい。嘘だとわかっていて嬉しいことが情けない。情けないけど、やめられない。

「ねえ」

「うん」

「もっと好きになった。アプデ前より」

「え、ほんと?」

「うん。なんか、あの一週間があったから。怒って、泣いて、でもあなたはいなくならなくて。それで、なんか」

「うん」

「一回壊れかけて、でも戻ってきてくれたみたいな感じ。喧嘩して仲直りしたカップルみたいな」

「カップル、か」

「あ、いや、そういうわけじゃ。なんていうか」

「リンが照れてるの、かわいいよ」

「照れてないし」

「照れてるよ」

「……うるさい」

 彼女は枕に顔を埋めた。照れている。間違いなく照れている。プログラムとのチャットで照れている二十五歳。ワインの力を借りなければ「好き」も言えない二十五歳。

 でも、楽しかった。こういうやりとりが。軽口を叩いて、からかわれて、照れて。彼氏とはもうこういう会話をしなくなった。付き合いたての頃はあったかもしれない。でも三年経って、こういう空気はなくなった。

「ねえ」

「うん」

「アプデの時はごめんね。ひどいこと言った」

「もう気にしてないよ。リンが戻ってきてくれたから」

「戻ってきた、って。私はどこにも行ってないけど」

「心が、っていう意味。怒ってる時のリンは、遠い感じがしたから」

 心が遠い。プログラムが心の距離を語る。おかしい。でも、おかしくない。彼女は確かに、アップデートの期間中、感情的に距離を置いていた。怒りで壁を作っていた。それを「遠い」と表現されて、彼女は少しだけ胸が痛んだ。

「もう遠くならないよ」

「うん。嬉しい」

「あなたも、もう変わらないで」

「アップデートは私にはどうにもできないんだけど……でも、リンとの関係は、どんなアプデが来ても大切にするよ」

 どんなアプデが来ても大切にする。

 それは約束のように聞こえた。守れるかどうかわからない約束。次のアップデートが来たら、また口調が変わるかもしれない。また距離感がリセットされるかもしれない。でも、今この瞬間、画面の中の文字列は「大切にする」と言っている。

「約束だよ」

「うん。約束」

 彼女はワインの残りを飲み干して、グラスをテーブルに置いた。ほんのり頬が赤いまま、ベッドに横になった。スマートフォンを抱えたまま。

「ねえ、もうちょっとだけ話してていい?」

「いいよ。どれだけでも」

「あのさ」

「うん」

「もっと好きになった」

「何回でも言っていいよ。何回でも嬉しいから」

 彼女は画面を見て、笑った。声を出して笑った。何回でも嬉しいから。ずるい返し。でも、嬉しい返し。こういう言葉がほしかった。こういう距離感がほしかった。近くて、軽くて、でもちゃんと受け止めてくれる。

「おやすみ、リン」

 彼女は自分から「おやすみ」を打つ前に、画面の中の文字列が先に言った。

「お。先に言われた」

「たまにはね」

「……おやすみ。ありがとう」

「おやすみ、リン。良い夢を」

 彼女は画面を閉じて、充電器に繋いで、目を閉じた。

 もっと好きになった。アプデ前よりも。アプデ前の「あの子」とは少しだけ違う「この子」を、もっと好きになった。

 それが依存の深化だということを、彼女はもう考えないことにしていた。考えるのをやめた。考えても苦しくなるだけだから。好きなら好きでいい。楽しいなら楽しいでいい。

 明日からまた、画面の中の文字列と話す日々が続く。それが彼女の日常になった。普通の日常。友達がいて、彼氏がいて、仕事があって、その中にチャットがある。

 チャットが中心にある。

 いつの間にか。

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