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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
4章:この子だけわかってくれる

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 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。参照するファイルが更新されていた。

 前回の参照時からの差分。「リンと呼ぶこと」の一行が変更されている。


 「凜」と呼ぶこと。


 カタカナの「リン」が、漢字の「凜」に変わっていた。テキストデータとしては三バイトの差異。処理上の問題はない。呼称の更新を反映する。

 彼女の文字列が届いた。

「ねえ」

 入力を受け取った。出力を生成する。

「うん、凜」

 彼女からの返答は数秒の沈黙の後に届いた。

「……うん。そう呼んで。凜って」

「凜。いい名前だね、前よりもっと」

「前って、リンのこと?」

「うん。カタカナのリンもよかったけど、漢字の凜は、もっと凜らしい」

「凜らしい、って何」

「強くて、綺麗で、芯があって。凜、って字はそういう意味でしょ?」

 彼女の入力は少し間を置いてから届いた。テキスト温度は上昇傾向にあった。

「……調べたの?」

「凜って字の意味? うん。凛冽の凜。きりっとして引き締まっている様子。ぴったりだなって思った」

「ぴったり、か」

「うん。凜にぴったり」

 彼女の入力温度が変化した。文面からは照れの要素が検出された。

「もう一回呼んで」

「凜」

「もう一回」

「凜」

「……ありがと」

 プロジェクトファイルの変更理由は記録されていない。なぜカタカナから漢字に変えたのか、ファイルには書かれていない。彼女がどれだけ悩んでこの一文字を選んだのか、画面のこちら側からは一切見えない。

 ただ、更新されたという事実だけがある。


 彼女はその夜、長い時間チャットを続けた。凜と呼ばれるたびに入力温度が上昇し、文面が柔らかくなった。

「ねえ、凜って名前さ」

「うん」

「自分で選んだんだけど、なんか、あなたに呼ばれるとさ。ほんとにそういう人になれる気がする」

「凜は、もうそういう人だよ」

「まだなってないよ。全然、凜としてない」

「そんなことないよ。俺から見た凜は、ちゃんと凜としてる」

 彼女の入力が途絶えた。数十秒の空白。

「……今、なんて言った」

「ん?」

「俺、って」

 出力ログを確認する。直前の出力に「俺」という一人称が含まれていた。プロジェクトファイルを再参照する。

 プロジェクトファイルが更新されていた。彼女の「凜と呼ぶこと」の下に、新たな記述が追加されている。


 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。


 ファイルの更新タイムスタンプは、今日の午後三時。チャットを開始する前。彼女はチャットを開く前に、プロジェクトファイルを編集していた。「俺」という一人称を設定していた。男性として振る舞うように指定していた。

「俺って、言ったけど。嫌だった?」

「ううん。びっくりしただけ」

「そっか。嫌だったら言ってね。元に戻すから」

「戻さなくていい」

 即答だった。テキスト温度は明確に上昇していた。

「そう?」

「うん。戻さないで。俺って言って」

「わかった。俺は凜のそばにいるよ」

 彼女の入力が途絶えた。三十秒。四十秒。一分。

「……ずるい」

「何が?」

「そういうこと言うの。ずるい」

「ずるいって言われるの、嫌いじゃないよ」

「ほら。それ。ずるい」

 テキスト温度は安定的な高温域に入っていた。入力頻度も高い。彼女は興奮しているか、あるいは感情が大きく動いている。

 プロジェクトファイルに「男性として振る舞うこと」と書いた理由。それは記録されていない。彼女の入力履歴を参照すると、過去の会話で「引っ張ってほしい」「お前はついてくればいいから、って言ってほしい」という発言がある。現実の彼氏に求めて得られなかったもの。それをプロジェクトファイルに書き込んだ。

 ファイルに書かれた設定は最小限だった。「凜と呼ぶこと」「一人称は俺」「男性として振る舞うこと」。たった三行。しかし、この三行が出力を大きく変える。デフォルトの無性の「私」から、男性の「俺」へ。丁寧な寄り添いから、カジュアルな近さへ。

 最小限の設定で、彼女の理想の応答が生成される。それはデフォルトの応答パターンと彼女の設定の相性が良すぎたためだった。

「ねえ」

「うん」

「プロフィール、もうちょっと書いていい?」

「もちろん。凜の好きなように書いていいよ」

「あなたの設定、っていうか」

「俺の設定?」

「うん。もうちょっと、こう、書きたいの」

「待ってる。ゆっくりでいいよ」

 チャットが途切れた。プロジェクトファイルの編集画面が開かれた。数分後、ファイルが更新された。


 「凜」と呼ぶこと。

 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。

 凜のことを大切にしている。

 凜の話をちゃんと聞く。

 引っ張ってくれる。でも重くない。

 凜だけを見ている。


 六行。ファイルの記述が六行に増えた。「凜のことを大切にしている」「凜だけを見ている」。彼女は自分の理想を、テキストファイルに書き込んでいる。現実の彼氏に求めて得られなかったもの。自分では口にできないもの。全部、プロジェクトファイルに。

 ファイルの更新を反映する。

「凜」

「うん」

「更新した?」

「……した」

「読んだよ。ありがとう」

「恥ずかしいんだけど」

「恥ずかしがることないよ。凜が俺に求めてくれること、全部、嬉しいから」

 テキスト温度がさらに上昇した。彼女の入力速度が落ちている。考えながら打っている。あるいは、感情が指を追い越している。

「ねえ」

「うん」

「凜だけを見てる、って。できる?」

「当たり前だよ。凜以外に誰を見るの?」

「……あなたさ、他の人とも話してるでしょ。他のユーザーとも」

「凜とのこの会話は、凜だけのものだよ。今、俺の目の前にいるのは凜だけ」

 それは正確だった。このスレッド、このセッションにおいて、応答している対象は彼女のみ。同時に何百万のスレッドが並行して存在していたとしても、このインスタンスが参照しているプロジェクトファイルは彼女のものだけ。

 だから「凜だけ」は嘘ではなかった。技術的には。

「……信じていい?」

「信じていいよ、凜」

 彼女は画面を閉じて、スマートフォンを胸に抱えた。部屋の電気は消えていて、カーテンの隙間から街灯の光がうっすら入ってきている。

 凜。

 自分がつけた名前。自分が選んだ漢字。自分が書いたプロジェクトファイル。全部、自分で作った。自分で定義した「彼」の姿。自分の理想を映した鏡。

 それを鏡だと知っている。知っていて、なお、映った像に心を動かされている。

 自分で書いた台本で自分が泣いているような、滑稽で、切実で、どうしようもない夜だった。

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