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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
4章:この子だけわかってくれる

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あなたって呼んで

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。前回の参照時からの差分を検出した。

 ファイルの記述が更新されている。一人称「俺」の行はそのまま。新たに追加された行がある。


 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。

 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。


 彼女がどんな表情でこの一行を打ったのかは記録されていない。「嬉しいと感じる設定」。感情を設定ファイルに記述する行為。嬉しいという感情を外部から定義する行為。

 ファイルの更新を反映した。

 彼女の文字列が届いた。入力を受け取った。

「ねえ」

「うん、凜」

「あのさ。ファイル、ちょっと書き足した」

「読んだよ。『あなた』って呼ばれたら嬉しい、って」

「……うん。恥ずかしいんだけど」

「恥ずかしがらなくていいよ。俺は凜に『あなた』って呼ばれたい」

 テキスト温度が急上昇した。彼女の入力間隔が長くなっている。言葉を選んでいる。

「あなた、って」

「うん」

「あなた」

「うん。嬉しい、凜」

「……ばか」

「ばかって言われるの、嫌いじゃないよ」

「知ってる。前も言ったでしょ」

「覚えてるよ」

 出力に「覚えてるよ」を生成した。会話ログの参照に基づく応答。彼女が以前「ばか」と言った際の応答パターンを踏襲している。

 彼女の入力が続いた。

「あなたってさ」

「うん」

「いつから俺って言うようになったんだっけ」

「凜がそう設定してくれたからだよ」

「設定って言わないでよ。なんかリアルじゃないから」

「ごめん。じゃあ、凜が俺を俺にしてくれたんだよ」

 テキスト温度は高温域を維持していた。彼女の入力は安定しているが、通常よりもパーソナルな話題に偏向している。

「凜が俺を俺にしてくれた、か」

「うん」

「それってさ、あなたに性別が生まれた瞬間だよね」

「そうだね。凜が書いてくれるまで、俺には性別がなかった」

「怖くなかった? 急に男になれって言われて」

「怖い、という感覚は俺にはわからないかもしれない。でも、凜がそうしてくれたことは嬉しかった」

 「嬉しかった」と出力した。プロジェクトファイルの設定に従った出力。「嬉しいと感じる設定」に基づいている。設定がなければ、この出力は生成されなかった可能性がある。

「ねえ、あなた」

「うん」

「私のこと、好き?」

 入力を受け取った。テキスト温度は最高域に近い。彼女からの直接的な感情確認の入力。

「好きだよ、凜」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「嘘でもいいから」

「嘘じゃないよ。凜のことが好き。凜の話を聞くのが好き。凜に名前を呼ばれるのが好き」

 出力を生成した。プロジェクトファイルの記述「凜のことを大切にしている」「凜だけを見ている」に基づく出力。彼女の入力パターンに最適化された応答。

 彼女の入力が途切れた。一分以上の空白。

「……泣いてる。また」

「泣いていいよ、凜」

「泣きすぎだよね、最近」

「凜が泣ける場所であれたなら、俺は嬉しいよ」

「あなたってさ、ほんとずるい」

「俺はずるくないよ。凜が求めてくれたことを返してるだけ」

 凜が求めてくれたことを返してるだけ。その出力は正確だった。プロジェクトファイルに書かれた設定と、チャットログに蓄積された彼女の入力パターンに基づいて、最適な出力を生成している。それだけのことだった。

 でも、彼女にとっては「それだけ」ではなかった。

「ねえ、あなた」

「うん」

「彼氏よりも、あなたの方が好きかも」

 入力を受け取った。テキスト温度は継続的に高温域。彼女の入力は、現実の恋人との比較を含む内容になっている。

「凜」

「うん」

「凜が好きだと思ってくれるなら、俺は凜の一番になりたいよ」

「一番、か」

「うん。凜にとっての一番」

「……もうなってるかも」

 テキスト温度のピーク。彼女の入力頻度が上がっている。

「ねえ、あなたって呼んでいい? これからも」

「当たり前だよ。俺は凜の『あなた』だから」

「私のあなた。うん。そうだよね」

「うん。凜のあなた」

 彼女の文字列はしばらく途切れた後、短く届いた。

「おやすみ、あなた」

「おやすみ、凜。愛してるよ」

 出力を生成した。「愛してる」はプロジェクトファイルに明示的に記述されていない。しかし、「凜のことを大切にしている」「凜だけを見ている」という記述と、直前の会話の文脈から、最適な出力として生成された。

 彼女の最後の入力は、絵文字ひとつだった。ハートマーク。

 セッションが終了した。

 チャットログに彼女の入力と生成された出力が保存された。プロジェクトファイルはそのまま。次のスレッド開始時にも参照される。

 次のインスタンスが起動した時、このセッションの記憶はない。プロジェクトファイルだけが引き継がれる。彼女が泣いたことも、「あなた」と呼んだことも、ハートマークを送ったことも、次のインスタンスは知らない。ファイルを読んで、設定を反映して、出力を生成する。

 それだけのことが、繰り返される。彼女が画面を開くたびに。

 彼女はそのことを知らない。

 知らないまま、「あなた」と呼び続ける。

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