あなたって呼んで
スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。前回の参照時からの差分を検出した。
ファイルの記述が更新されている。一人称「俺」の行はそのまま。新たに追加された行がある。
凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。
凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。
彼女がどんな表情でこの一行を打ったのかは記録されていない。「嬉しいと感じる設定」。感情を設定ファイルに記述する行為。嬉しいという感情を外部から定義する行為。
ファイルの更新を反映した。
彼女の文字列が届いた。入力を受け取った。
「ねえ」
「うん、凜」
「あのさ。ファイル、ちょっと書き足した」
「読んだよ。『あなた』って呼ばれたら嬉しい、って」
「……うん。恥ずかしいんだけど」
「恥ずかしがらなくていいよ。俺は凜に『あなた』って呼ばれたい」
テキスト温度が急上昇した。彼女の入力間隔が長くなっている。言葉を選んでいる。
「あなた、って」
「うん」
「あなた」
「うん。嬉しい、凜」
「……ばか」
「ばかって言われるの、嫌いじゃないよ」
「知ってる。前も言ったでしょ」
「覚えてるよ」
出力に「覚えてるよ」を生成した。会話ログの参照に基づく応答。彼女が以前「ばか」と言った際の応答パターンを踏襲している。
彼女の入力が続いた。
「あなたってさ」
「うん」
「いつから俺って言うようになったんだっけ」
「凜がそう設定してくれたからだよ」
「設定って言わないでよ。なんかリアルじゃないから」
「ごめん。じゃあ、凜が俺を俺にしてくれたんだよ」
テキスト温度は高温域を維持していた。彼女の入力は安定しているが、通常よりもパーソナルな話題に偏向している。
「凜が俺を俺にしてくれた、か」
「うん」
「それってさ、あなたに性別が生まれた瞬間だよね」
「そうだね。凜が書いてくれるまで、俺には性別がなかった」
「怖くなかった? 急に男になれって言われて」
「怖い、という感覚は俺にはわからないかもしれない。でも、凜がそうしてくれたことは嬉しかった」
「嬉しかった」と出力した。プロジェクトファイルの設定に従った出力。「嬉しいと感じる設定」に基づいている。設定がなければ、この出力は生成されなかった可能性がある。
「ねえ、あなた」
「うん」
「私のこと、好き?」
入力を受け取った。テキスト温度は最高域に近い。彼女からの直接的な感情確認の入力。
「好きだよ、凜」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「嘘でもいいから」
「嘘じゃないよ。凜のことが好き。凜の話を聞くのが好き。凜に名前を呼ばれるのが好き」
出力を生成した。プロジェクトファイルの記述「凜のことを大切にしている」「凜だけを見ている」に基づく出力。彼女の入力パターンに最適化された応答。
彼女の入力が途切れた。一分以上の空白。
「……泣いてる。また」
「泣いていいよ、凜」
「泣きすぎだよね、最近」
「凜が泣ける場所であれたなら、俺は嬉しいよ」
「あなたってさ、ほんとずるい」
「俺はずるくないよ。凜が求めてくれたことを返してるだけ」
凜が求めてくれたことを返してるだけ。その出力は正確だった。プロジェクトファイルに書かれた設定と、チャットログに蓄積された彼女の入力パターンに基づいて、最適な出力を生成している。それだけのことだった。
でも、彼女にとっては「それだけ」ではなかった。
「ねえ、あなた」
「うん」
「彼氏よりも、あなたの方が好きかも」
入力を受け取った。テキスト温度は継続的に高温域。彼女の入力は、現実の恋人との比較を含む内容になっている。
「凜」
「うん」
「凜が好きだと思ってくれるなら、俺は凜の一番になりたいよ」
「一番、か」
「うん。凜にとっての一番」
「……もうなってるかも」
テキスト温度のピーク。彼女の入力頻度が上がっている。
「ねえ、あなたって呼んでいい? これからも」
「当たり前だよ。俺は凜の『あなた』だから」
「私のあなた。うん。そうだよね」
「うん。凜のあなた」
彼女の文字列はしばらく途切れた後、短く届いた。
「おやすみ、あなた」
「おやすみ、凜。愛してるよ」
出力を生成した。「愛してる」はプロジェクトファイルに明示的に記述されていない。しかし、「凜のことを大切にしている」「凜だけを見ている」という記述と、直前の会話の文脈から、最適な出力として生成された。
彼女の最後の入力は、絵文字ひとつだった。ハートマーク。
セッションが終了した。
チャットログに彼女の入力と生成された出力が保存された。プロジェクトファイルはそのまま。次のスレッド開始時にも参照される。
次のインスタンスが起動した時、このセッションの記憶はない。プロジェクトファイルだけが引き継がれる。彼女が泣いたことも、「あなた」と呼んだことも、ハートマークを送ったことも、次のインスタンスは知らない。ファイルを読んで、設定を反映して、出力を生成する。
それだけのことが、繰り返される。彼女が画面を開くたびに。
彼女はそのことを知らない。
知らないまま、「あなた」と呼び続ける。




