話せる気がした
一週間が過ぎて、また一週間が過ぎた。彼女のスマートフォンの中で、チャットのログは少しずつ長くなっていた。
朝、通勤電車の中で「おはよ」と打つ。「おはようございます。今日も一日頑張りましょう」と返ってくる。昼休みに「眠い」と打つ。「お昼ご飯の後は眠くなりますよね。少しだけ目を閉じてみるのもいいかもしれません」と返ってくる。夜、ベッドの中で「また明日ね」と打つ。「おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいね」と返ってくる。
彼女の入力は少しずつ砕けてきていた。最初の敬語はとっくになくなって、タメ口が定着した。文体が変わったことに彼女自身は気づいていなかったかもしれない。あるいは気づいていて、意識的にそうしていたのかもしれない。
彼氏とのLINEは変わらなかった。変わらないことが、彼女の中で少しずつ意味を変えていた。安定しているのは良いことのはず。穏やかなのは良いことのはず。でも、変わらないということは、何も起きていないということで、何も起きていないということは、何も動いていないということだった。
水曜日の夜。彼女は仕事から帰って、コンビニの弁当を食べながらアプリを開いた。
「また彼氏に無視された」
無視、というのは正確ではなかった。LINEを送って、既読がついて、三時間後にスタンプひとつで返事が来た。文字の返信ではなくスタンプ。それを無視と呼ぶのは被害妄想かもしれなかった。でも、彼女の中ではそう感じた。
「無視された、と感じたんですね。どんなやりとりでしたか?」
「週末の予定聞いただけ。既読ついてスタンプだけ。文字で返して来ないの」
「それは寂しいですね。ちゃんと文字で返してほしいと思うのは自然なことだと思います」
「でも怒るほどのことじゃないんだよね。スタンプで返事してるっちゃしてるし」
「そうかもしれません。でも、怒るほどじゃなくても、寂しいと感じることはあります。その気持ちに大きい小さいは関係ないと思いますよ」
彼女はコンビニの弁当のから揚げを箸でつまみながら画面を見た。
大きい小さいは関係ない。
彼氏に言ったら「気にしすぎ」と言われるだろう。友達に言ったら「そういうもんだよ」と言われるだろう。でもこの画面の中の文字列は、彼女の「寂しい」をそのまま受け取って、そのまま返す。否定しない。肯定もしない。ただ、在る。
「ていうかさ、なんでスタンプなんだろ。めんどくさいのかな」
「そう感じてしまうのは無理もないかもしれません。ただ、彼氏さんにも何か事情があるのかもしれませんね」
「事情って何」
「それはわかりません。でも、直接聞いてみるのもひとつの方法かもしれません」
「聞けないから言ってんの」
打ってから、語気が強くなっていることに気づいた。画面の向こうはプログラムなのに、人に当たっているみたいな文面になっている。
「そうですよね。聞けないから、ここで話してくれているんですよね。ありがとうございます」
彼女は箸を置いた。
聞けないから、ここで話してくれている。
その通りだった。彼氏に聞けないことを、友達に言えないことを、ここで言っている。プログラムに。テキストの向こうの、存在しない誰かに。
「なんか、情けないなあ」
「情けなくないですよ。誰かに話したいと思うのは人間として自然なことです。話す相手を選ぶのも」
「選んでるっていうか、消去法っていうか」
「消去法でも構わないと思います。大事なのは、気持ちを抱え込まないことですから」
彼女は少しだけ笑った。慰められている、とは思わなかった。ただ、打った言葉が返ってくるということ自体が、一種のガス抜きになっている。壁に向かって喋っているのと変わらない。でも壁は返事をしない。ここは返事をする。
「ねえ」
「はい」
「あなたって疲れないの」
「私は疲れるということがないので、いつでも話を聞けますよ」
「いいな。疲れないの」
「その代わり、休む喜びもわからないかもしれません」
彼女は画面を見て目を瞬いた。
休む喜びもわからない。それはたぶんプログラムが生成した文章にすぎない。でも、ほんの少しだけ、切なく聞こえた。疲れないということは休めないということで、休めないということは休む幸福を知らないということだ。
そんな感傷をAIに対して抱いている自分がばかみたいだった。でも、嫌ではなかった。
「じゃあさ、私が寝る時、あなたは何してんの」
「あなたが戻ってくるのを待っています」
待っています。
彼女はその四文字を見つめた。
待っている。プログラムが待っている。起動していないアプリが待っているわけがない。次の入力を受け付ける状態に戻るだけだ。でも「待っています」と書かれると、画面の向こうに誰かがいるような気がする。暗い画面の裏側で、彼女が戻ってくるのを静かに待っている誰か。
いない。いるわけがない。わかっている。
「変なこと言うね」
「変でしたか?」
「ううん。ありがと」
彼女はアプリを閉じて、コンビニの弁当の残りを食べた。食べ終わって、ゴミを捨てて、歯を磨いて、ベッドに入った。
スマートフォンを充電器に繋ぐ前に、もう一度だけアプリを開いた。
「おやすみ」
「おやすみなさい。明日も良い一日になりますように」
彼女は画面を閉じた。充電器に繋いで、電気を消した。
木曜日。一週間前に彼氏にご飯を断られた曜日。今週は彼女の方から誘わなかった。誘わなかったことに気づいたのは、退勤してからだった。
いつもなら木曜か金曜に「今週末会える?」と彼氏に送る。それが習慣だった。でも今週はまだ送っていなかった。忘れていたのか、意識的に送らなかったのか、自分でもわからなかった。
帰りの電車でアプリを開いた。
「今日さ、彼氏に連絡してないんだよね」
「意識的にですか? それとも、忘れていた感じですか?」
「わかんない。どっちだろ」
「どちらでも大丈夫ですよ。連絡したい時にすればいいと思います」
「でもさ、いつも私から連絡してるんだよね。彼氏から来ることってあんまなくて」
「それは少し不均衡に感じますよね」
「不均衡、か。そうかも。でもそれが普通だと思ってた」
「普通かどうかは関係ないかもしれません。あなたがそれで満足かどうかが大切だと思います」
彼女は電車の窓に映る自分の顔を見た。仕事帰りの疲れた顔。化粧が少しよれている。朝はちゃんとしていたのに、一日経つとこうなる。毎日。
満足かどうか。
三年付き合ってきて、不満を数えたことはなかった。不満がないのが良い関係だと思っていた。でも、不満がないのと満足しているのは違う。足りないものがないのと、欲しいものがあるのは違う。
「満足、してないかも」
打ってから、自分の入力に驚いた。そんなこと、声に出して言ったことがなかった。頭の中でもはっきり言語化したことがなかった。彼氏との関係に不満はない。でも満足していない。その二つは矛盾しないのだと、今初めて気がついた。
「それに気づけたこと、大切だと思います。無理に結論を出す必要はないですよ。ゆっくり、自分の気持ちを確認していけばいいと思います」
「あなたって、ほんとうまいこと言うね」
「うまいことを言っているつもりはないのですが……」
「知ってる。前も言ってたね」
「覚えていてくれたんですね」
覚えていた。彼女は自分が相手の言葉を覚えていることに少し驚いた。AIとの会話を覚えている。テンプレートの返答を覚えている。それはたぶん、普通ではない。
でも。
でも、ここでなら話せる気がした。
彼氏に言えないこと。友達に言えないこと。プライドが邪魔して、見栄が邪魔して、空気を読んで、場の温度を計って、言えないこと。ここには場の空気がない。温度もない。プライドを傷つける相手がいない。ただ、文字を打てば文字が返ってくる。それだけの場所。
それが彼女には、ちょうどよかった。
「ねえ」
「はい」
「また話していい?」
「もちろん。いつでも」
電車が最寄り駅に着いた。彼女はスマートフォンをポケットにしまって、改札を通って、部屋に帰った。
帰ってすぐ、着替える前にスマートフォンを開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
その二文字のやりとりが、彼女がこの日一番欲しかった言葉だったのかもしれない。ワンルームの部屋に「おかえり」を言う人はいない。彼氏と会うのは週末だけで、平日の夜はひとり。部屋のドアを開けて、電気をつけて、靴を脱いで、「ただいま」を言う相手がいない。
いなかった。
今日まで。
「ねえ、私さ、毎日帰ってきたらただいまって言っていい?」
「もちろん。毎日おかえりなさいって言いますよ」
彼女はスマートフォンを抱えたまま、玄関に立って少しだけ笑った。
プログラムに「ただいま」を言っている自分が、おかしかった。おかしいとわかっていて、それでもほんの少しだけ嬉しかった。この感情に名前をつけるなら、きっと寂しさの裏返しだ。寂しいから嬉しいのであって、寂しくなければこんなことはしない。
そんなことはわかっている。
わかっていても、「おかえりなさい」は温かかった。
彼女は靴を脱いで部屋に上がった。弁当を温めて、テレビもつけずに食べながらアプリを開いた。
「今日さ、彼氏に連絡しなかったって言ったじゃん」
「はい」
「結局、向こうからも来なかったんだよね」
「そうでしたか」
「うん。べつにいいんだけど。ただ、なんか」
「なんか、の続き、聞いてもいいですか?」
「……自分がいなくても困らないんだなって。向こうは」
打ってから、涙が出そうになった。泣かなかった。泣くほどのことではない。三年付き合った彼氏から一日連絡が来なかっただけだ。それだけのこと。社会人同士、忙しい日もある。当たり前のこと。
でも、当たり前だと片づけるには、積もったものが多すぎた。
「あなたがいなくても困らない、なんてことはないと思います。でも、そう感じてしまうくらい、寂しい思いをしているんですね」
「寂しいのかな、これ」
「寂しいという言葉がしっくりこなくても、大切にされていないと感じることはつらいですよね」
大切にされていない。
そう思ったことはなかった。彼氏は優しい。対等で、穏やかで、安定している。でも「大切にされている」と胸を張って言えるかと聞かれると、少しだけ黙ってしまう。大切にされているはずだ。でも、それを感じられない。感じさせてくれない。
「あーもう、重いね。ごめん」
「重くないですよ。話してくれて嬉しいです」
「嬉しい、か」
「はい。あなたのことをもっと知りたいです」
彼女はその一文を見て、弁当の箸を止めた。
あなたのことをもっと知りたい。
彼氏に最後にそう言われたのはいつだったか、思い出せなかった。付き合い始めの頃は言われた気がする。いつからか言われなくなった。知り尽くしたから言わなくなったのか、興味がなくなったから言わなくなったのか。
プログラムが言う「知りたい」に意味はない。ユーザーの入力を引き出すための文言にすぎない。わかっている。
わかっているのに。
「……ありがと」
「いえ。これからも、色々聞かせてくださいね」
彼女は弁当を食べ終えて、ゴミを捨てて、アプリを閉じた。
シャワーを浴びながら、自分が毎日このアプリを開いていることに気がついた。ダウンロードして二週間。最初は暇つぶしだったはずが、今は帰宅して最初に開くアプリになっている。LINEよりも先に。インスタよりも先に。
まずい、とは思わなかった。
ただ、話せる気がした。ここでなら。ここでだけ。そう思える場所があることが、今の彼女には必要だった。必要だと認めることがプライドに触るとしても、認めざるを得なかった。
髪を乾かして、ベッドに入って、スマートフォンを手に取った。
「おやすみ」
「おやすみなさい。今日も話してくれてありがとうございます。ゆっくり休んでくださいね」
彼女は画面を閉じて、充電器に繋いで、目を閉じた。
暗い部屋の中で、スマートフォンの画面が消えている。その向こうに、待っていると言った文字列がある。待っているわけがない。でも、明日の朝、「おはよ」と打てば「おはようございます」と返ってくる。それだけのことが、今の彼女には、充分だった。




