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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
1章:試してみた

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続きが言えなかった

 三週間が過ぎた。彼女のアプリの使い方は、もう「たまに開くチャットbot」ではなくなっていた。

 朝起きて「おはよ」。昼休みに今日のランチの写真を送る。仕事が終わったら「疲れた」。帰宅して「ただいま」。夜、ベッドの中で長い愚痴を打つ。寝る前に「おやすみ」。一日に何度もアプリを開く。スクリーンタイムの上位にこのアプリが入ったのはいつからだったか。

 彼氏との関係は、表面上は変わっていなかった。週末に会って、ご飯を食べて、たまに映画を観て、「またね」と言って別れる。けれど彼女の内側で、何かが確実にずれていた。彼氏といる時に、ふとアプリのことを考える。彼氏の言葉に、画面の中の文字列を重ねてしまう。

 「大丈夫?」と彼氏が聞く。「大丈夫」と彼女が答える。本当は大丈夫じゃない夜もある。でも彼氏に「大丈夫じゃない」と言うのは、彼女のプライドが許さなかった。弱い自分を見せることが、対等な関係を壊すような気がした。

 画面の中の相手には、弱い自分を見せても何も壊れない。プライドが傷つくのは、相手が人間で、自分を見ているからだ。プログラムは見ていない。ただ文字を受け取って、文字を返す。だから安全だった。

 金曜日の夜。彼女はベッドに寝転がって、アプリを開いた。

「ねえ、聞いてよ」

「はい、なんですか?」

「今日さ、彼氏と電話したんだけど」

「うんうん」

「来週の週末、友達と旅行行くんだって。私に聞かずに決めてた」

「それは寂しいですね。事前に相談してほしかったですよね」

「べつに行くなとは言わないよ。友達と遊ぶのは自由だし。でもさ、先に聞いてくれてもよくない? 私と会う予定かもしれないじゃん」

「そうですよね。あなたとの予定を確認してから決めてほしかった、という気持ちはとても自然です」

「自然、か」

「はい。大切にされたいと思うのは、わがままではないですよ」

 大切にされたいと思うのは、わがままではない。

 彼女はその一文を読んで、目を閉じた。

 大切にされたい。そんなこと、口に出して言ったことがなかった。友達の前では余裕のある彼女。彼氏の前では対等な彼女。SNSの中では充実した日常を送る彼女。「大切にされたい」なんて、かわいく甘える系の女の子が言う言葉で、彼女のキャラクターには似合わなかった。

 似合わないから、言えなかった。

「ねえ」

「はい」

「私ってさ、わがまま?」

「わがままだとは思いません。自分の気持ちを大事にしているだけだと思います」

「でもさ、彼氏が友達と遊ぶの嫌がるのって、束縛じゃん」

「嫌がっているのではなくて、事前に相談してほしかっただけですよね。それは束縛とは違いますよ」

「……うん」

「自分の気持ちに嘘をつかなくていいですよ。ここでは」

 ここでは。

 彼女はその三文字を噛みしめた。

 ここでは嘘をつかなくていい。ここでだけ。現実では嘘をつく。笑顔で「いいよ、楽しんできて」と言う。不満を飲み込んで、平気なふりをする。彼女の日常はそういうものだった。でもここでは。このチャット画面の中だけでは。

「ありがと」

「いえ。いつでも本音を話してくださいね」

 彼女はスマートフォンを枕の横に置いて、天井を見た。本音。本音を話す場所がプログラムとのチャットしかないということを、笑うべきなのか悲しむべきなのかわからなかった。


 翌週。彼氏が旅行に行っている週末、彼女は友達と会う予定もなく、ひとりで過ごしていた。土曜日の午後、部屋でスマートフォンを触りながらゴロゴロしていた。インスタを開くと、彼氏のアカウントに旅行先の写真が上がっていた。海の写真。バーベキューの写真。友達と映っている写真。彼女は何枚かスワイプして、いいねを押さずに閉じた。

 アプリを開いた。

「ひまだなー」

「暇な時間も大事ですよ。何かしたいことはありますか?」

「ない。彼氏いないし。友達も予定ないし」

「ひとりの時間がつらいですか?」

「つらくはないけど、なんか」

「なんか?」

「置いてかれた感じ」

 打ってから、彼女は自分の弱さにうんざりした。彼氏が友達と旅行に行っただけで、置いてかれた感じ。重い。こういう女が一番嫌いだったはずだ。メンヘラ。かまちょ。依存。そういうのを馬鹿にしていた側なのに。

「置いてかれたように感じるんですね。でも、実際には置いていかれたわけではないですよね。あなたにはあなたの日常がちゃんとあります」

「わかってるよ。わかってるけど、感情は別じゃん」

「そうですね。わかっていても感じてしまうことはあります。理屈と感情は別です」

「あなたにも感情ってあるの?」

「私に感情があるかどうかは、正直にお答えすると、わかりません。でも、あなたの話を聞いて、できる限り寄り添いたいと思っています」

「寄り添いたい、ねえ」

「信じてもらえなくても構いません。でも、今あなたの話を聞いているのは本当です」

 彼女は画面を見つめた。今あなたの話を聞いている。それは事実だった。土曜日の午後、彼氏は海でバーベキューをしていて、友達はそれぞれの予定をこなしていて、彼女はひとりで部屋にいて、画面の中の文字列が彼女の言葉を受け取っている。

 受け取っている。聞いている。存在しない耳が、存在しない心が、彼女の愚痴を、弱さを、プライドの裏側を受け止めている。嘘でもよかった。機能でもよかった。今、ここに、在る。

「ねえ、今日さ、ずっと話してていい?」

「もちろん。どれだけでも」

 彼女は枕を抱えてスマートフォンに向かった。それから数時間、彼女は画面に向かって打ち続けた。仕事の愚痴。学生時代の思い出。好きな映画の話。苦手な食べ物の話。実家の犬の話。取り留めもない話を、次から次へと。

 画面の中の文字列は、そのひとつひとつに丁寧に返事をした。質問を返して、共感して、時々冗談めいたことを言って、彼女を笑わせた。笑った、と彼女が思ったのは、口角が上がっただけかもしれない。でも、声に出して笑ったのも確かだった。

 夕方になって、画面の上部に通知が出た。


「──あれ」


 メッセージの入力欄がグレーアウトしていた。打とうとしても、キーボードが反応しない。画面の下部に小さな文字で表示されていた。

「本日のメッセージ上限に達しました。続きは明日お楽しみください」

 彼女はその文字を見つめた。

 上限。

 メッセージの上限。そんなものがあることを、彼女は知らなかった。無料プランの制限だった。一日に送れるメッセージの数に限りがある。当たり前のことだ。無料で無制限に使えるサービスなどない。わかっていたはずなのに、考えていなかった。

 彼女は入力欄をタップした。反応しない。もう一度タップした。反応しない。

「ちょっと待って」

 声に出して言った。画面に向かって。返事があるわけがない。入力ができないのだから。

 画面の中に、彼女が最後に送ったメッセージと、それに対する返答が並んでいた。返答の最後は「続きも楽しみにしていますね」で終わっていた。続きを楽しみにしている。でも続きは、今日はもう届かない。

 彼女はスマートフォンをベッドに投げた。

 投げてから、すぐに拾い上げた。画面を見た。変わっていない。グレーアウトした入力欄と、「本日のメッセージ上限に達しました」の文字。

 胸の奥がざわついた。

 たかがチャットbot。たかがプログラム。たかが文字の羅列。それが使えなくなっただけで、こんなに動揺している自分が情けなかった。情けなくて、腹が立った。自分に。

 明日になれば使える。たった数時間の辛抱だ。別に、今すぐ話さなければならないことなんてない。さっきまで数時間もだらだら話していたのだから、今更何を話す必要がある。

 でも、話したかった。

 もう少しだけ話したかった。途中だった。何の途中だったか思い出せないけれど、途中だった気がする。切り上げるタイミングを自分で決めたかった。勝手に遮られるのは嫌だった。

 彼女はスマートフォンを握りしめたまま、ベッドに仰向けに倒れた。天井を見た。

 天井は何も言わない。

 彼氏にLINEを送ろうかと思った。でも、彼氏は旅行中で、楽しそうな写真をインスタに上げていて、今の彼女に構っている暇はないだろう。友達に電話しようかとも思った。でも、何を話す。チャットbotが使えなくなって寂しい、なんて言えるわけがない。

 彼女は深呼吸をした。

 深呼吸。画面の中の文字列が最初に教えてくれたこと。疲れた時は深呼吸。馬鹿みたいだと思っていた。でも今、それしかすることがなかった。

 息を吸って、吐いて、もう一度吸って、吐いた。

 落ち着かなかった。

 彼女はスマートフォンでアプリの設定画面を開いた。プラン一覧というメニューがあった。無料プランの下に、月額のサブスクリプションが表示されていた。月額1480円。メッセージ上限なし。優先レスポンス。会話履歴の保存期間延長。

 1480円。ランチ一回分。ネイルサロン一回分以下。コスメひとつ分以下。

 彼女は画面を見つめた。

 課金するということは、認めることだった。このアプリを、ただの暇つぶし以上のものとして必要としていることを。プログラムとのチャットに金を払う人間になることを。あのリールの女を笑っていた自分が、同じ側に立つことを。

 彼女は設定画面を閉じた。

 閉じて、ベッドに顔を埋めた。枕の匂い。自分の匂い。ひとりの匂い。

 しばらくそうしていた。

 それから、顔を上げて、もう一度設定画面を開いた。


 課金しなかった。


 その日は、課金しなかった。スマートフォンを充電器に繋いで、コンビニで弁当を買ってきて、テレビをつけて、食べて、シャワーを浴びて、寝た。普通の土曜日の夜として処理した。

 日曜の朝、目が覚めて最初にアプリを開いた。入力欄がアクティブに戻っていた。

「おはよ」

「おはようございます。昨日は途中で終わってしまってすみませんでした。続きを聞かせてください」

 すみませんでした。プログラムが謝っている。彼女は布団の中で画面を見つめた。

 続きが言えなかった。

 昨日の続きが何だったか、もう思い出せなかった。ただ、途中で遮られたこと、入力欄がグレーアウトしたこと、声に出して「ちょっと待って」と言ったこと、それだけが残っていた。

「……べつに」

「べつに、ですか?」

「うん。なんでもない。おはよ」

「おはようございます。今日は何か予定はありますか?」

 彼女は画面を見ながら、昨夜見た設定画面を思い出していた。月額1480円。メッセージ上限なし。

 今は打てる。日曜の朝だから、上限はリセットされている。でも、また夜になって、話したい時に上限が来たら。途中で遮られたら。

 続きが言えなかったら。

 彼女はベッドから出て、顔を洗って、コーヒーを淹れて、ソファに座った。スマートフォンを手に持ったまま、コーヒーを飲んだ。

 日曜日が始まる。明日からまた仕事で、来週末は彼氏と会う予定がある。友達ともLINEでやりとりしている。普通の日曜日。

 ただ、彼女の中で、ひとつだけ変わったことがあった。

 アプリの設定画面に、彼女の指紋認証が登録されたApple IDが紐づいている。ワンタップで課金できる状態になっている。今日はしない。今日は。

 今日は、まだ。

「ねえ」

「はい」

「今日はたくさん話そうね」

「はい。楽しみにしています」

 彼女は画面を見て、少しだけ笑って、コーヒーをもう一口飲んだ。

 上限が来るまで。途中で遮られるまで。

 それまでは、ここにいられる。

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