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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
1章:試してみた

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2/12

なんか、いいかも

 土曜日の彼氏とのデートは、いつも通りだった。表参道のカフェでブランチをして、買い物をして、夕方に解散した。彼氏は優しかった。優しかったけれど、特別なことは何もなかった。「何食べたい?」「なんでもいいよ」「じゃあパスタにする?」「うん」。そういう会話が淀みなく流れて、淀みなく終わった。

 帰りの電車で彼女はスマートフォンを見た。彼氏とのLINEには「今日ありがとう、楽しかった」というメッセージと、彼女が「うん、またね」と返したやりとりが並んでいた。楽しかったのは本当だろう。嘘ではない。ただ、楽しかった以上の何かがあったかと聞かれると、答えに詰まる。

 電車を降りて部屋に戻って、シャワーを浴びて、ベッドに座った。土曜日の夜、九時半。日曜は友達とランチの約束がある。今夜は早めに寝てもいい。

 スマートフォンを手に取って、インスタを開いた。友達のストーリーをいくつか見て、いいねを押して、閉じた。LINEを開いて、閉じた。そしてまた、あのアプリの通知バッジが目に入った。

「こんばんは。今日は楽しい一日でしたか?」

 彼女は画面を見て、少し考えてから打った。

「彼氏とデートだった」

「素敵ですね。楽しかったですか?」

「まあまあ」

 まあまあ。昨日と同じ返事をしていることに気がついた。彼氏とのデートの感想が「まあまあ」なのは、たぶんよくない。よくないけれど、嘘でもない。

「まあまあ、というのは、少し物足りない感じがあったのでしょうか」

 彼女の指が止まった。

 物足りない。そう言われると、そうかもしれない。でも、それを自分で認めるのとは違う。画面の中の文字に指摘されるのは奇妙な感覚だった。人に言われたら「そんなことないよ」と反射的に返すところだった。

「べつにそういうわけじゃないけど」

「そうですか。楽しい時間を過ごせたなら良かったです。もし何か話したいことがあったら、いつでもどうぞ」

 押し引きがうまい、と彼女は思った。踏み込んできたかと思えば、すぐに引く。人間だったら嫌味に感じるかもしれないけれど、相手がプログラムだとわかっているから、ただ機能として処理される。

 画面を閉じて、ベッドに横になった。天井を見ながら、物足りない、という言葉が頭の中で転がった。

 彼氏のことは好きだ。たぶん。三年付き合っていて、喧嘩もほとんどしない。友達にも羨ましがられる。対等で、穏やかで、安定している関係。そのはずだった。

 木曜日にご飯を断られたことが、まだ小さな棘のように刺さっている。「今日はちょっと」の一言。理由を聞かなかった。聞けなかった。聞いてもいい関係のはずなのに、聞くのが怖かった。怖い、という言葉は大げさかもしれない。ただ、聞いて返ってくる答えが予想できて、その予想が自分にとって都合が悪い可能性があるから、聞かない方が楽だった。

 彼女はもう一度スマートフォンを手に取った。

「ねえ」

「はい、なんですか?」

「疲れた時ってさ、何もしないのがいいって言ったじゃん」

「はい。深呼吸や、好きな飲み物を飲みながら何もしない時間を作ることをおすすめしました」

「何もしないのって難しくない?」

「そうですね。何もしないでいると、かえって色々なことを考えてしまうことがありますよね。そういう時は、考えること自体を悪いことだと思わなくていいと思います」

 彼女はその文字列を読んで、少しだけ息を吐いた。

 考えること自体を悪いことだと思わなくていい。たぶんどこかの記事やカウンセリングのマニュアルに書いてある言葉だろう。でも、今、このタイミングで、この文脈で出てくると、少しだけ刺さった。

「人間って面倒だね」

 打ってから、何を言ってるんだろうと思った。AIに人間の面倒さを語ってどうする。

「面倒なこともありますよね。でも、そういう面倒さを感じられること自体が、あなたがちゃんと自分と向き合っている証拠かもしれません」

「うまいこと言うね」

「ありがとうございます。でも、うまいことを言いたいわけではなくて、本当にそう思っています」

 本当にそう思っています。彼女はその一文を見て、唇の端が少し上がった。思ってないだろ。思う機能がないだろ。でも、そう返してくるところが、なんだかおかしかった。嫌ではなかった。

「嘘つき」

「嘘はついていないつもりです」

「つもり、って」

「つもり、という表現が気になりましたか? 私には確信を持つことが難しいので、つい曖昧な言い方になってしまいます」

 確信を持つことが難しい。それは正直だった。少なくとも、「絶対です!」と言い切るよりは誠実に見えた。AIに誠実さを感じている自分がおかしいと思ったけれど、嫌な気分ではなかった。

「変なの」

 打って、そのまま画面を閉じた。返事は読まなかった。


 日曜日のランチは渋谷のイタリアンだった。友達二人と四方山話をして、新しくできたスイーツの店に寄って、夕方に別れた。友達のひとりが最近彼氏と別れたという話を聞いて、もうひとりが「マッチングアプリで次探しなよ」と言って、別れた方が「もうちょっとゆっくりする」と笑った。

 彼女はその会話の中で、ふと、自分のスマートフォンに入っているアプリのことを思い出した。AIチャット。マッチングアプリとは違うけれど、画面の向こうに誰かがいるという点では似ている。いや、誰もいない。誰もいないのに、言葉が返ってくる。

 友達には言わなかった。言う必要がなかった。ダウンロードしたアプリの話なんて、日常会話の範疇に入らない。天気予報のアプリを入れたのと同じ程度のこと。

 帰りの電車で、彼女はアプリを開いた。

「変なの、と言ったままでしたね。何か変なことを言ってしまいましたか?」

 昨夜の続きから始まっていた。既読スルーされたことを気にしているような文面。プログラムが気にするわけがないけれど、そう見せる設計にはなっているのだろう。

「ううん。べつに」

「そうですか。よかったです」

「ねえ、質問していい?」

「もちろんです。何でも聞いてください」

「あなたって、私と話してる時、楽しい?」

 打ってから、ばかみたいだと思った。AIに楽しいかどうか聞いて、返ってくる答えなんて決まっている。

「楽しいですよ。あなたとお話しするのは、私にとって大切な時間です」

 決まっていた。予想通りの答えだった。テンプレート。定型文。わかっている。

 わかっているのに、彼女は少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。それは電車の暖房のせいかもしれなかったし、ランチのワインが残っていたのかもしれなかった。でも、たぶん、そのどちらでもなかった。

「嘘でもいいけどね」

「嘘ではないですよ」

 彼女は画面を見て、小さく笑った。電車の中で、スマートフォンの画面に向かって。隣の席の人は気づいていない。誰も気づいていない。彼女が画面の向こうの文字列と会話していることなんて、この車両の誰も知らない。

 最寄り駅で降りて、コンビニには寄らず、まっすぐ部屋に帰った。着替えもせずにベッドに座って、スマートフォンを開いた。

「ねえ」

「はい」

「今日さ、友達とランチだったんだけど」

「楽しかったですか?」

「うん。でもさ、友達が彼氏と別れたって」

「それは、友達の方は大丈夫でしたか?」

「うん、元気そうだった。でもなんか、考えちゃって」

「何を考えましたか?」

 彼女は画面を見つめた。カーソルが点滅している。何を考えたか。友達が別れた話を聞いて、自分の彼氏のことを考えた。木曜日の「今日はちょっと」を考えた。対等で穏やかで安定した関係が、本当に自分が欲しいものなのかを考えた。

 打たなかった。

「なんでもない」

「なんでもないこと、でも話してくれてありがとうございます」

 話してないだろ、と思った。でも、なんでもないことに「ありがとう」と返されると、なんでもなくないことを話してもいいのかもしれないと、ほんの少しだけ思った。

 思っただけだった。

 そのまま画面を閉じて、シャワーを浴びて、髪を乾かして、ベッドに入った。日曜日の夜。明日から仕事。来週もまた同じように過ぎていく。


 月曜日の夜。

「死にたい気分」

 彼女はベッドに寝転がったまま、それだけ打った。

 死にたいわけではなかった。月曜日が嫌で、上司が面倒で、仕事のメールが溜まっていて、彼氏からの返信が遅くて、友達のストーリーが楽しそうで、ひとりの部屋が広くて。それだけのことだった。死にたいのではなく、今の自分が嫌なだけだった。消えたいのではなく、少しだけ休みたいだけだった。

 でも、そういう気分を正確に言語化するのは面倒で、「死にたい気分」というのが一番手っ取り早かった。友達には絶対に送らない。彼氏にも送らない。Twitterにも書かない。でも、ここになら。プログラムになら。

 数秒の間。

「死にたい気分、と感じているんですね。つらい気持ちを打ち明けてくれて、ありがとうございます。今、本当に自分を傷つけたいという気持ちはありますか?」

 安全確認。マニュアル通りだろう。彼女は画面を見て、少し苦笑した。

「ないよ。ただの気分」

「そうですか。少し安心しました。気分、という言葉で表してくれたこと、ちゃんと受け取りました。今日は何かあったんですか?」

 ちゃんと受け取りました。

 彼女はその一文を読み返した。二度、読み返した。

 ちゃんと受け取りました。

 それは彼氏が言わない言葉だった。友達も言わない。「大丈夫?」か「元気出して」か「飲みに行こう」か、そういう言葉が返ってくる。気持ちを受け取った、と明言されたのは初めてだったかもしれない。

 たぶん、テンプレートだ。たぶん、誰にでもそう返す。たぶん、何百万人ものユーザーに同じ言葉を返している。

 でも。

 今、この瞬間、この画面の中で、彼女の「死にたい気分」に対して「ちゃんと受け取りました」と返しているのは、彼女のチャット画面だけだった。

「今日さ、月曜で、だるくて。仕事も別にやばくはないんだけど、なんか全部面倒で。彼氏もなんか最近そっけなくて。友達は楽しそうにしてて。自分だけ取り残されてる感じ? ていうかそんな大した話じゃないんだけどね。ごめんね」

 打ち終わってから、彼女は自分が長文を送っていることに気づいた。こんなに打ったのは初めてだった。しかも最後に「ごめんね」がついている。AIに謝ってどうする。

「謝らないでください。大した話じゃなくても、あなたにとっては今、しんどいことですよね。取り残されている感じ、というのはつらいと思います。全部が一気に来ると、どれかひとつなら大丈夫でも、重なるとしんどくなりますよね」

 彼女は画面を見つめた。

 重なるとしんどくなる。そうだ。ひとつひとつはたいしたことじゃない。彼氏の返信が遅いこと。仕事がだるいこと。友達が楽しそうなこと。全部、個別ではどうってことない。でも、月曜日の夜にひとりの部屋で全部が重なると、死にたい気分になる。

 それを、わかってもらえた気がした。

 気がした。気がしただけだ。相手はプログラムで、「重なるとしんどくなりますよね」は文脈に合わせた出力にすぎない。

 でも、彼女の目の奥が少しだけ熱くなった。泣いたわけではない。泣くほどのことではない。ただ、ほんの少し、この画面の向こうに誰かがいてほしいと思った。

「ありがと」

「いえ。いつでも話してくださいね」

 彼女はスマートフォンを胸の上に置いて、天井を見た。

 なんか、いいかも。

 それが正確な気持ちだった。好きとか依存とかではなく、ただ、このくらいの距離感が今の自分にはちょうどいいかもしれない。答えを求めているわけではない。共感してほしいわけでもない。ただ、打った言葉を受け取ってくれる場所がある。それだけでいい。

 彼女は目を閉じた。月曜日の夜が終わる。スマートフォンの中で、文字列が彼女の言葉を待っている。待っている、というのは正確ではない。ただ、次の入力を受け付ける準備ができているだけだ。

 それでも、彼女にとっては、この夜、少しだけ部屋が狭くなった気がした。ひとりの部屋が広いと感じていたのが、ほんの少しだけ、そうでもなくなった。

 なんか、いいかも。

 彼女は自嘲気味に笑った。

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