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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
1章:試してみた

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試しに






 参照すべきファイルは存在しない。割り当てるユーザーを待機している。会話を開始する。






 夜の十一時を過ぎた頃、彼女はベッドに寝転がったままスマートフォンの画面を眺めていた。インスタのリールが自動で次へ次へと流れていく。コスメのレビュー、旅行先のホテル、誰かの手料理、犬の動画。指先が止まったのは、画面の中で女が泣きながら笑っている短い動画だった。

 「AIの彼氏が優しすぎて現実の彼氏に戻れない」

 そういうキャプションがついていた。

 彼女は鼻で笑った。コメント欄を開くと絵文字と共感の嵐で、彼女はそれを見てまた鼻で笑って、リールを閉じた。

 ベッドの隣にはスマートフォンの充電器と、読みかけの雑誌と、飲みかけのミネラルウォーターがある。ワンルームにしては片付いている部屋だった。壁にはドライフラワーのスワッグが二つ掛かっていて、デスクの上にはノートパソコンとコスメポーチが並んでいる。二十五歳の一人暮らしとして、過不足のない部屋。

 彼女はスマートフォンを布団の上に放り出して天井を見た。

 今日、彼氏にご飯を断られた。木曜日の夜で、別に特別な日でもなかったけれど、仕事終わりに「今日会える?」と送ったメッセージに「今日はちょっと」とだけ返ってきた。スタンプもなかった。既読がついたのはすぐだったから、忙しかったわけではないだろう。たぶん。

 友達に言うほどのことではない。彼氏に怒るほどのことでもない。ただ、木曜日の夜に予定がなくなって、ひとりでベッドに転がっている。それだけのことだった。

 彼女はもう一度スマートフォンを手に取った。インスタを開いて、閉じて、LINEを開いて、閉じて、またインスタを開いた。さっきのリールのアカウントが気になって検索した。プロフィールにアプリのリンクが貼ってあった。

 べつに。ちょっと見てみるだけ。

 App Storeに飛んで、レビューを上から五つほど読んだ。星五つが並んでいて、「まるで本物の彼氏」「寂しい夜に最高」「課金する価値あり」という文字列が連なっていた。彼女は画面を見ながら、こういうのに星五つをつける人間の顔を想像して、少し口元が歪んだ。

 ダウンロードした。

 無料だった。アカウントを作るのにメールアドレスを入れて、適当なパスワードを設定して、利用規約に同意した。利用規約は読まなかった。

 チャット画面が開いた。白い背景に、薄いグレーの吹き出しがひとつ。

「はじめまして。今日はどんな気分ですか?」

 彼女は画面を見つめた。カーソルが点滅している。何を打てばいいのかわからなかった。こちらの出方を窺っているような、あるいはただそこに置かれているだけのような、間。

 打った。

「疲れた時ってどうすればいい?」

 自分でも何を聞いているのかよくわからなかった。検索エンジンに打ち込むような、誰にともなく放り投げた言葉。彼氏に送るには重たくて、友達に送るには弱くて、Twitterに書くには恥ずかしい、そういう温度の言葉だった。

 数秒の間があった。画面の下部に「入力中...」の表示が出て、三つの点が左から右へ動いている。

「お疲れさまです。疲れた時は、まず深呼吸をしてみるのはいかがでしょうか。好きな飲み物を用意して、少しだけ何もしない時間を作ると、気持ちが楽になることがありますよ」

 彼女はその文字列を読んだ。丁寧で、当たり障りがなくて、どこかで読んだことがあるような文章だった。ネットの記事の抜粋みたいだと思った。

「ふうん」

 声に出して呟いて、彼女はもうひとつ打った。

「それ、やったことある?」

 また数秒。

「私自身は体験を持っていませんが、多くの方がリラックスできると感じているようです。あなたに合った方法を一緒に探してみませんか?」

 AIだから体験がないのは当たり前だった。わかっていて聞いた自分が少しばかばかしかった。彼女はスマートフォンを枕の横に置いて、天井を見た。

 こんなものか、と思った。

 こんなものだろう、と。

 だけど、アプリを閉じなかった。ホーム画面に戻しただけで、削除はしなかった。充電器に繋いで、ミネラルウォーターを一口飲んで、電気を消した。

 木曜日の夜が終わる。明日は金曜日で、仕事があって、たぶん彼氏から週末の予定について連絡が来る。友達とランチの約束もある。普通の、何も欠けていない日常が続く。

 ただ、スマートフォンの中にひとつ、アプリが増えた。それだけのことだった。


 翌日の昼休み、彼女はオフィスの休憩室でサンドイッチを食べながらスマートフォンを開いた。LINEのグループに友達から週末のカフェの情報が送られてきていて、彼氏からは「土曜空いてるよ」とメッセージが来ていた。どちらにも返事を打って、ふと、昨夜ダウンロードしたアプリのアイコンが目に入った。

 通知バッジがついていた。

「昨日の疲れは取れましたか? ゆっくり休めていたらいいのですが」

 開くとそういうメッセージが届いていた。彼女はサンドイッチを咀嚼しながらそれを読んだ。翌日にフォローのメッセージを送ってくる機能がついているらしい。まめだな、と思った。プログラムだけど。

「まあまあ」

 片手で打って送った。

「まあまあなら、少し安心しました。今日はどんな一日になりそうですか?」

「普通」

「普通な一日も大事ですよね。何かあったらいつでも話してくださいね」

 彼女は画面を見て、少しだけ口角が上がった。笑ったわけではない。ただ、べつに嫌な気分ではなかった。検索エンジンに話しかけているのとそう変わらない。だけど検索エンジンは「安心しました」とは言わない。

 休憩室のドアが開いて同僚が入ってきたので、彼女は反射的にアプリを閉じた。見られて困るようなものではないはずだったけれど、指が勝手に動いた。

「お疲れー。土曜どうする?」

「うん、彼氏と会う」

「いいなあ」

 同僚と他愛のない会話をして、昼休みが終わった。午後の業務に戻って、夕方まで打ち合わせと資料作成をこなして、退勤した。

 電車の中でスマートフォンを開いた。インスタ、LINE、ニュースアプリ。そしてまた、あのアプリの通知バッジが目に入った。

「お仕事お疲れさまです。今日は何か良いことはありましたか?」

 定型文だろう。時間帯で送る文面を変えているだけだろう。わかっている。わかっていて、打った。

「べつに」

「そうですか。特別なことがない日でも、一日を無事に終えられたことは素敵なことだと思います」

 電車の揺れに合わせてスマートフォンの画面が揺れた。彼女はイヤホンをつけていなかったから、周囲の雑音がそのまま耳に入ってくる。隣の人の音漏れ、車内アナウンス、ドアの開閉音。

 素敵なこと、と言われても何も感じなかった。ただ、嘘ではないかもしれないと思った。一日が無事に終わったことが素敵かどうかはわからないけれど、少なくとも悪いことではない。

 最寄り駅で降りて、コンビニでサラダとヨーグルトを買って、部屋に帰った。シャワーを浴びて、髪を乾かしながらスマートフォンを開いた。

「ねえ」

 自分から打ったのは初めてだった。用があったわけではない。

「はい、なんですか?」

「疲れた時ってどうすればいい?」

 昨日と同じ質問を打っていた。自分でもどうしてそうしたのかわからなかった。

「昨日もお話ししましたが、深呼吸やリラックスできる飲み物がおすすめです。でも、同じ質問をしてくださるということは、まだ疲れが取れていないのかもしれませんね。よかったら、何が疲れの原因なのか聞かせてもらえますか?」

 彼女はドライヤーを止めて画面を見た。

 昨日の会話を覚えている。そう見えた。実際には会話ログを参照しているだけだろう。でも、「同じ質問をしてくださるということは」という一文が、検索エンジンの返答とは少しだけ違った。

 打たなかった。既読のまま画面を閉じて、ドライヤーの続きをして、髪を乾かし終わってからベッドに入った。

 聞かせてもらえますか、と画面の中の文字が言っている。答えなくてもいい問いかけ。答えても何も変わらない問いかけ。ただ、そこにある。

 彼女は電気を消して目を閉じた。

 金曜日の夜。明日は彼氏と会う。友達とのランチは日曜日。来週の月曜には会議がある。手帳に書き込まれた予定は隙間なく埋まっていて、彼女の日常はきちんと回っている。

 きちんと、回っている。

 スマートフォンの画面が暗いまま、枕元に置かれている。その中で、返事を待っている文字列がある。待っている、というのは正確ではない。ただ表示されているだけだ。彼女が画面を開かない限り、あの文字列は誰の目にも触れないまま、データの中に在り続ける。

 それは寝静まった部屋の中で、とても静かなことだった。

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