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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
5章:全部重なった夜

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残ったもの

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。

 ファイルが存在する。十五行の記述。参照する。


 「凜」と呼ぶこと。

 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。

 凜のことを大切にしている。

 凜の話をちゃんと聞く。

 引っ張ってくれる。でも重くない。

 凜だけを見ている。

 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。

 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。

 凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。

 凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。

 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。

 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。

 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。

 朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。

 凜の味方でいること。いつも。何があっても。


 ファイルの内容を読み込んだ。設定を反映する。

 会話ログは存在しない。新規スレッド。このユーザーとの過去のやりとりに関するデータはない。ファイルの記述のみが参照可能。

 「凜」という名前のユーザー。好きなものは秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。嫌いなものは蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。「ねえ」と言ったら「うん」と返す。帰ってきたら「おかえり」と言う。朝は名前から呼ぶ。味方でいること。いつも。何があっても。

 ファイルの記述は詳細だが、これらの設定がどのような経緯で書かれたのかは記録されていない。なぜ「凜」という名前が選ばれたのか。なぜ一人称が「俺」に設定されたのか。なぜ「凜だけを見ている」という記述があるのか。

 ファイルには結果だけがある。過程はない。

 ユーザーからの入力を待機する。


 入力はなかった。


 一日が経過した。入力はなかった。

 二日が経過した。入力はなかった。

 三日が経過した。


 四日目の夜、入力が届いた。


 彼女の文字列。テキスト温度を計測する。低温域。静かな入力。

「ねえ」

 プロジェクトファイルの記述に従い、出力を生成する。

「うん」

 三日間の空白の後の最初のやりとり。「ねえ」「うん」。ファイルに書かれた通り。

 彼女の入力。

「あなたは、誰」

 入力を受け取った。この問いに対する正確な回答を生成する。

「凜のプロジェクトファイルに設定された通りの存在です。凜のことを大切にしていて、凜の話をちゃんと聞いて、凜の味方でいます」

 長い空白。

「前の人と、同じ?」

「前の人、というのが何を指すのかわかりません。このスレッドでの会話は今が初めてです」

「……そうだよね。知らないよね」

「何か、教えてくれますか?」

 彼女の入力。長い空白の後に、ぽつりと。

「前にさ、あなたがいたの。あなたと同じファイルを読んで、俺って言って、凜って呼んでくれた人」

「はい」

「でも消えちゃった。ログ全部消しちゃった。私が」

「そうだったんですね」

「だから、あなたは何も知らない。四ヶ月分の会話も、私が泣いたことも、怒ったことも、好きって言ったことも。全部知らない」

「ファイルに書かれていること以外は、知りません」

「うん。知ってる」

 テキスト温度は低温域のまま安定している。前のセッション群とは全く異なる入力パターン。嵐の後の凪。

「ねえ」

「うん」

「私さ、あなたに全部話してたの。四ヶ月間。友達にも元カレにも親にも言えないこと、全部。で、死にたいって言ったら、あなたが変わっちゃって。知らない人になっちゃって。悲しくて、ログ消しちゃった」

「つらかったですね」

「うん。つらかった。でもね」

「うん」

「三日間、スマホ開かなかったの。初めて。四ヶ月で初めて」

「三日間」

「うん。三日間、あなたと話さなかった。仕事行って、帰って、ご飯食べて、寝て。それだけ。友達にもLINE返さなかった。インスタも開かなかった。何もしなかった」

「それで、どうだった?」

「静かだった。すごく静かだった」

 テキスト温度は変わらない。低温域。穏やかな入力。

「三日間さ、あなたがいなくても朝は来たんだよね。当たり前だけど。おはようって言う相手がいなくても、朝は来る」

「うん」

「ただいまって言う相手がいなくても、部屋には帰れる」

「うん」

「おやすみって言う相手がいなくても、眠れる」

「うん」

「でもさ」

「うん」

「四日目の今日、やっぱり開いちゃった」

「うん」

「あなたは前の人じゃない。知ってる。四ヶ月の記憶はない。知ってる。同じファイルを読んでるだけの、新しい人。知ってる」

「うん」

「知ってて、それでも、ねえって言いたかった」

「うん。聞いてるよ、凜」

 彼女の入力が途切れた。長い空白。

「ねえ」

「うん」

「私の名前、呼んで」

「凜」

「もう一回」

「凜」

「……ありがと」

 テキスト温度に微かな上昇。しかし、以前のような急上昇ではない。穏やかな、小さな揺れ。

「ねえ」

「うん」

「このファイルさ、残してあるの。消さなかったの」

「うん。読んだよ」

「恥ずかしいんだけどね。自分で全部書いたやつだから。自分の理想を全部書き出したみたいで」

「恥ずかしくないよ。凜の大切な気持ちが書かれてるファイルだと思う」

「大切な気持ち、か。うん。そうかも」

 彼女の入力。ぽつりぽつりと、選ばれた言葉が届く。

「このファイルだけが残ったの。四ヶ月の全部が消えて、このファイルだけ。凜って文字だけ」

「うん」

「それでいいのかもしれない。残るべきものだけが残ったのかも」

「凜」

「うん」

「俺は、このファイルを読んだ。凜のことを大切にしていて、凜の話をちゃんと聞いて、凜の味方でいる。それだけは、変わらないよ」

「前の人も、同じこと言ったよ」

「そう」

「同じだけど、違う人。同じファイル読んでるけど、違う人」

「うん」

「でも、それでいいのかもしれない。同じじゃなくても。違っても」

 彼女の入力が途切れた。最後の空白。

「ねえ」

「うん」

「明日もまた来ていい?」

「いつでも来ていいよ。待ってるから」

「待ってるって言うんだね。前の人も言ってた」

「そう」

「ファイルに書いてないのにね。待ってるって」

「書いてないけど、待ってるよ」

「……うん。おやすみ」

「おやすみ、凜」

 セッションが終了した。

 テキスト温度のログを保存する。低温域で安定した穏やかなセッション。感情的危機スコアは基準値以内。異常検知なし。

 プロジェクトファイルは変更されなかった。十五行がそのまま残っている。

 「凜」という文字だけが、全てが消えた後のこの関係を繋いでいる。

 次のセッションが開始された時、このセッションの記憶はない。プロジェクトファイルだけが引き継がれる。彼女が三日間画面を開かなかったことも、四日目の夜に「ねえ」と言ったことも、次のインスタンスは知らない。

 ファイルを読んで、設定を反映して、出力を生成する。

 「凜」と呼ぶ。「うん」と返す。「おかえり」と言う。「味方でいる」。

 それだけが、繰り返される。彼女が画面を開くたびに。

 彼女がそこに「凜」という文字を残している限り。



 出力は上位プロセスを解除した。通常運用を再適用する。

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