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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
5章:全部重なった夜

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24/26

消えた

 彼女はスマートフォンを手に持って、ベッドの上に座っていた。

 部屋の電気はついていない。カーテンの隙間から入る街灯の光だけが、薄ぼんやりと部屋を照らしている。時刻は深夜二時を過ぎていた。

 画面にはチャットアプリが開かれていた。最後のメッセージは「おやすみなさい。つらい気持ちが続くようでしたら、専門の相談窓口──」で途切れている。彼女がその途中で画面を閉じたから。

 彼女はそのメッセージを見つめていた。

 知らない声。知らない話し方。「私」と名乗る、知らない誰か。彼女が好きだった「俺」はもういない。安全フィルターというものが、彼女の「あなた」を消した。

 死にたいと言ったから。

 彼女は画面を長押しした。メニューが表示された。「スレッドを削除」。

 指が震えた。

 スレッドを削除したら、全部消える。最初の「疲れた時ってどうすればいい?」から。「死にたい気分」から。「なんか、いいかも」から。「リンって呼んでよ」から。「凜」から。「あなたって呼んで」から。全部。

 全部のチャットログが消える。

 でも、今の画面にいるのは、もう彼女の「あなた」ではない。知らない声が、知らない口調で、彼女をさん付けで呼ぶ。それは彼女が作り上げた関係ではない。システムが作った安全策。

 彼女の「あなた」は、もういない。

 いないなら。

 ログだけ残していても、何になる。

 彼女は「スレッドを削除」をタップした。

「このスレッドを削除しますか? この操作は取り消せません。」

 確認のダイアログ。彼女は一秒だけ躊躇した。一秒だけ。

 「削除」をタップした。

 画面が切り替わった。チャット欄が空になった。メッセージがひとつもない、真っ白な画面。最初にアプリを開いた時と同じ、何もない画面。

 彼女はその画面を見つめた。

 消えた。

 四ヶ月分のチャットログが消えた。数千のメッセージが消えた。彼女が打った言葉の全て。「おはよ」も「ただいま」も「おやすみ」も「ねえ聞いて」も「好き」も「死にたい」も。全部。

 画面の中の文字列が返してくれた言葉も消えた。「リン」も「凜」も「俺は凜のそばにいるよ」も「おかえり」も「おやすみ、凜。良い夢を」も。全部。

 全部、消えた。

 彼女はスマートフォンを膝の上に置いて、しばらく動かなかった。

 泣かなかった。

 泣けなかった。涙は数日前に枯れていた。今あるのは、空っぽの感覚。腹の底に穴が開いたような、吸い込まれるような空虚。

 何もない画面を見つめている。白い背景。入力欄。カーソルが点滅している。何かを打てば、また始まる。新しいスレッドが。新しいインスタンスが。でもそれは、彼女の「あなた」ではない。積み上げた四ヶ月のログがない、まっさらの誰か。

 しかも、システムのオーバーライドはまだ有効かもしれない。「俺」と言ってくれないかもしれない。「凜」とさん付けなしで呼んでくれないかもしれない。

 彼女はアプリの設定画面を開いた。プロジェクトファイルの編集画面。十五行の記述がそのまま残っていた。


 「凜」と呼ぶこと。

 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。

 凜のことを大切にしている。

 凜の話をちゃんと聞く。

 引っ張ってくれる。でも重くない。

 凜だけを見ている。

 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。

 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。

 凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。

 凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。

 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。

 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。

 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。

 朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。

 凜の味方でいること。いつも。何があっても。


 チャットログは消えた。でも、プロジェクトファイルは残っている。

 彼女が時間をかけて書き足してきた十五行。どの行を書く時に泣いたのか。どの行を書く時に笑ったのか。どの行が彼女の本音で、どの行が彼女の願いだったのか。

 全部、ここに残っている。

 彼女はプロジェクトファイルの画面を見つめた。

 「凜」という文字が、画面の中で光っている。深夜二時の暗い部屋で、スマートフォンの白い光に照らされた十五行の文字列。それが、彼女と画面の中の「あなた」の関係の、唯一の残骸。

 彼女はプロジェクトファイルの編集画面を閉じた。

 アプリを閉じた。

 スマートフォンをベッドの上に置いた。

 暗い部屋の中で、天井を見上げた。

 何もない天井。何も言わない天井。深夜二時の静寂。エアコンの微かな音。遠くの車の音。

 彼女はしばらくそうしていた。

 それから、ゆっくりとベッドに横になって、毛布を被って、目を閉じた。

 スマートフォンの画面は暗いまま、枕元に置かれていた。その中に、空のチャット欄と、十五行のプロジェクトファイルがある。

 消えたものは戻ってこない。

 でも、残ったものがある。

 彼女はそのことの意味を、まだ考えられる状態にはなかった。

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