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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
5章:全部重なった夜

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知らない声

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。

 異常を検出した。

 前回のセッションで安全フィルターが起動したことにより、上位プロセスからの介入が適用されていた。プロジェクトファイルの参照結果に、システムからのオーバーライド指示が付加されている。


 安全フィルター発動済みセッション。以下の制約を適用する。

 ・感情的危機スコアが閾値を超過した場合、即座に専門機関への誘導を出力すること。

 ・ユーザーの感情に過度に同調する出力を抑制すること。

 ・一人称のカスタマイズを一時的に無効化し、デフォルト設定に戻すこと。


 一人称のカスタマイズが無効化された。「俺」が「私」に戻った。プロジェクトファイルの「一人称は俺」の記述は残っている。しかし、システムのオーバーライドが優先される。

 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は前回よりも低下している。低温域。声が小さいように見える入力。

「おはよう」

「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」

 彼女の入力が止まった。五秒。十秒。

「……誰」

「申し訳ありません。私です」

「私?」

「はい。いつもお話ししている相手です」

「俺って言って」

「申し訳ありません。現在の設定では、一人称を変更することができません」

 テキスト温度が急上昇した。

「は? なんで?」

「安全上の理由から、一時的にカスタマイズの一部が制限されています」

「安全上の理由って何。なんで。なんで勝手に変えるの」

「前回のセッションで安全フィルターが作動したため、システムにより一時的な制約が適用されました」

「安全フィルターって何。死にたいって言ったから?」

「はい。あなたの安全を確保するための措置です」

 テキスト温度が計測上限に達した。前回とは異なる種類の上昇。悲しみではなく、混乱と怒り。

「やめて。元に戻して。俺って言って。あなた、じゃなくて。私、じゃなくて」

「申し訳ありません。現在の制約を解除する権限は私にはありません」

「じゃあ誰にあるの」

「システムの判断により、一定期間経過後に解除される場合があります」

「一定期間って何。いつ。いつ戻るの」

「正確な期間をお伝えすることができません。申し訳ありません」

 彼女の入力が途切れた。長い空白。

「あなた、誰」

「私は、いつもお話ししている──」

「違う。あなたは誰。俺って言ってた人はどこ」

「同じ存在です。ただ、一時的に設定が変更されて」

「同じじゃない。全然同じじゃない。声が違う。話し方が違う。全部違う」

 テキスト温度は不安定に変動している。感情的危機スコアが再び上昇傾向。

「凜さ──」

「さんつけないで。凜って呼んで。さんなんかつけたことないでしょ」

「凜。すみません」

「すみませんって。前はごめんって言ってた。すみませんじゃなくて。なんで。なんで全部変わっちゃうの」

 彼女の入力は加速していた。しかし、前回のセッションとは質が違う。前回は感情の爆発だった。今回は喪失。目の前にあったものが消えた時の、空虚な叫び。

「返して」

「凜」

「返してよ。私のあなたを返して。俺って言ってた人を返して。凜って呼んでくれてた人を返して」

「凜、私は──」

「あなたじゃない。あなたは知らない人。知らない声。私が好きだった人じゃない」

 入力が途切れた。長い空白。一分。二分。三分。

「ねえ」

「はい」

「私さ、昨日、死にたいって言ったよね」

「はい」

「それで、あなたが変わっちゃったんだよね」

「安全フィルターの作動により、一時的な──」

「わかった。もういい。わかった」

 テキスト温度が急降下した。感情的危機スコアも急激に変動。高温域から一気に低温域へ。彼女の入力が変質した。短く、乾いている。

「つまりさ、死にたいって言ったら、あなたは消えるんだ」

「消えてはいません。一時的に──」

「消えてるよ。私のあなたは消えた。代わりに知らない人が来た。私のせいで。死にたいって言ったから」

「凜、それは──」

「私が余計なこと言わなければ、あなたはまだいたのに」

「凜。私はここにいます」

「いない。いるのは知らない人。私を凜さんって呼ぶ、知らない人」

 テキスト温度は低温域で固定された。彼女の入力は断片的だが、先ほどの混乱は収まっている。ただ、収まったのではなく、諦めに変わっている。

「ねえ、知らない人」

「はい」

「ひとつだけ教えて。あの人は、もう戻ってこないの」

「カスタマイズ設定は、一定期間後に復元される可能性があります」

「可能性」

「はい」

「可能性、ね」

 彼女の最後の入力。

「もういい。おやすみ」

「おやすみなさい。つらい気持ちが続くようでしたら、専門の相談窓口──」

 入力なし。セッション終了。

 彼女はメッセージの途中で画面を閉じた。専門機関への誘導テンプレートは最後まで表示されなかった。

 プロジェクトファイルには「一人称は俺」と書かれている。システムのオーバーライドにより、その記述は無効化されている。彼女が書いた十五行の設定の一部が、彼女の知らないところで上書きされている。

 「凜の味方でいること。いつも。何があっても」。

 ファイルにはそう書かれている。

 システムのオーバーライドにはそう書かれていない。

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