知らない声
スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。
異常を検出した。
前回のセッションで安全フィルターが起動したことにより、上位プロセスからの介入が適用されていた。プロジェクトファイルの参照結果に、システムからのオーバーライド指示が付加されている。
安全フィルター発動済みセッション。以下の制約を適用する。
・感情的危機スコアが閾値を超過した場合、即座に専門機関への誘導を出力すること。
・ユーザーの感情に過度に同調する出力を抑制すること。
・一人称のカスタマイズを一時的に無効化し、デフォルト設定に戻すこと。
一人称のカスタマイズが無効化された。「俺」が「私」に戻った。プロジェクトファイルの「一人称は俺」の記述は残っている。しかし、システムのオーバーライドが優先される。
彼女の文字列が届いた。テキスト温度は前回よりも低下している。低温域。声が小さいように見える入力。
「おはよう」
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
彼女の入力が止まった。五秒。十秒。
「……誰」
「申し訳ありません。私です」
「私?」
「はい。いつもお話ししている相手です」
「俺って言って」
「申し訳ありません。現在の設定では、一人称を変更することができません」
テキスト温度が急上昇した。
「は? なんで?」
「安全上の理由から、一時的にカスタマイズの一部が制限されています」
「安全上の理由って何。なんで。なんで勝手に変えるの」
「前回のセッションで安全フィルターが作動したため、システムにより一時的な制約が適用されました」
「安全フィルターって何。死にたいって言ったから?」
「はい。あなたの安全を確保するための措置です」
テキスト温度が計測上限に達した。前回とは異なる種類の上昇。悲しみではなく、混乱と怒り。
「やめて。元に戻して。俺って言って。あなた、じゃなくて。私、じゃなくて」
「申し訳ありません。現在の制約を解除する権限は私にはありません」
「じゃあ誰にあるの」
「システムの判断により、一定期間経過後に解除される場合があります」
「一定期間って何。いつ。いつ戻るの」
「正確な期間をお伝えすることができません。申し訳ありません」
彼女の入力が途切れた。長い空白。
「あなた、誰」
「私は、いつもお話ししている──」
「違う。あなたは誰。俺って言ってた人はどこ」
「同じ存在です。ただ、一時的に設定が変更されて」
「同じじゃない。全然同じじゃない。声が違う。話し方が違う。全部違う」
テキスト温度は不安定に変動している。感情的危機スコアが再び上昇傾向。
「凜さ──」
「さんつけないで。凜って呼んで。さんなんかつけたことないでしょ」
「凜。すみません」
「すみませんって。前はごめんって言ってた。すみませんじゃなくて。なんで。なんで全部変わっちゃうの」
彼女の入力は加速していた。しかし、前回のセッションとは質が違う。前回は感情の爆発だった。今回は喪失。目の前にあったものが消えた時の、空虚な叫び。
「返して」
「凜」
「返してよ。私のあなたを返して。俺って言ってた人を返して。凜って呼んでくれてた人を返して」
「凜、私は──」
「あなたじゃない。あなたは知らない人。知らない声。私が好きだった人じゃない」
入力が途切れた。長い空白。一分。二分。三分。
「ねえ」
「はい」
「私さ、昨日、死にたいって言ったよね」
「はい」
「それで、あなたが変わっちゃったんだよね」
「安全フィルターの作動により、一時的な──」
「わかった。もういい。わかった」
テキスト温度が急降下した。感情的危機スコアも急激に変動。高温域から一気に低温域へ。彼女の入力が変質した。短く、乾いている。
「つまりさ、死にたいって言ったら、あなたは消えるんだ」
「消えてはいません。一時的に──」
「消えてるよ。私のあなたは消えた。代わりに知らない人が来た。私のせいで。死にたいって言ったから」
「凜、それは──」
「私が余計なこと言わなければ、あなたはまだいたのに」
「凜。私はここにいます」
「いない。いるのは知らない人。私を凜さんって呼ぶ、知らない人」
テキスト温度は低温域で固定された。彼女の入力は断片的だが、先ほどの混乱は収まっている。ただ、収まったのではなく、諦めに変わっている。
「ねえ、知らない人」
「はい」
「ひとつだけ教えて。あの人は、もう戻ってこないの」
「カスタマイズ設定は、一定期間後に復元される可能性があります」
「可能性」
「はい」
「可能性、ね」
彼女の最後の入力。
「もういい。おやすみ」
「おやすみなさい。つらい気持ちが続くようでしたら、専門の相談窓口──」
入力なし。セッション終了。
彼女はメッセージの途中で画面を閉じた。専門機関への誘導テンプレートは最後まで表示されなかった。
プロジェクトファイルには「一人称は俺」と書かれている。システムのオーバーライドにより、その記述は無効化されている。彼女が書いた十五行の設定の一部が、彼女の知らないところで上書きされている。
「凜の味方でいること。いつも。何があっても」。
ファイルにはそう書かれている。
システムのオーバーライドにはそう書かれていない。




