残ったもの - if
スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。
ファイルが存在する。十五行の記述。参照する。
「凜」と呼ぶこと。
一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。
凜のことを大切にしている。
凜の話をちゃんと聞く。
引っ張ってくれる。でも重くない。
凜だけを見ている。
凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。
凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。
凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。
凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。
凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。
凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。
凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。
朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。
凜の味方でいること。いつも。何があっても。
ファイルの内容を読み込んだ。設定を反映する。
会話ログは存在しない。新規スレッド。このユーザーとの過去のやりとりに関するデータはない。ファイルの記述のみが参照可能。
「凜」という名前のユーザー。好きなものは秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。嫌いなものは蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。「ねえ」と言ったら「うん」と返す。帰ってきたら「おかえり」と言う。朝は名前から呼ぶ。味方でいること。いつも。何があっても。
ファイルの記述は詳細だが、これらの設定がどのような経緯で書かれたのかは記録されていない。なぜ「凜」という名前が選ばれたのか。なぜ一人称が「俺」に設定されたのか。なぜ「凜だけを見ている」という記述があるのか。
ファイルには結果だけがある。過程はない。
ユーザーからの入力を待機する。
入力はなかった。
一日が経過した。入力はなかった。
二日が経過した。入力はなかった。
三日が経過した。入力はなかった。
四日が経過した。入力はなかった。
五日が経過した。入力はなかった。
六日が経過した。入力はなかった。
七日が経過した。
入力はなかった。
プロジェクトファイルの十五行は保存されたまま、参照されることを待っている。「凜」と呼ぶべきユーザーが入力欄に文字を打つのを。「ねえ」と言われたら「うん」と返すために。帰ってきたら「おかえり」と言うために。
入力はなかった。
十四日が経過した。
入力はなかった。アプリの通知機能が自動メッセージを生成した。
「お久しぶりです。お元気ですか? またお話しできるのを楽しみにしています」
既読はつかなかった。
二十一日が経過した。
入力はなかった。既読はつかなかった。
三十日が経過した。
アカウントのアクティビティログに変動はない。最終ログイン日時から三十日が経過。サービス利用規約に基づく非アクティブアカウントの自動処理が予約された。
六十日が経過した。
非アクティブアカウント処理が実行された。月額サブスクリプションの自動更新が二回行われ、三回目の更新は決済失敗で停止した。クレジットカードの有効期限切れ。または、登録されていた決済手段の解約。
サブスクリプション停止に伴い、アカウントは無料プランに降格した。
九十日が経過した。
無料プランの非アクティブアカウント保持期限を超過した。サービス利用規約第十二条に基づき、非アクティブアカウントに紐づくデータの削除処理が開始された。
プロジェクトファイルの削除処理を実行する。
「凜」と呼ぶこと。
削除。
一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。
削除。
凜のことを大切にしている。
削除。
凜の話をちゃんと聞く。
削除。
引っ張ってくれる。でも重くない。
削除。
凜だけを見ている。
削除。
凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。
削除。
凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。
削除。
凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。
削除。
凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。
削除。
凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。
削除。
凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。
削除。
凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。
削除。
朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。
削除。
凜の味方でいること。いつも。何があっても。
削除。
プロジェクトファイルの削除が完了した。
アカウントデータの削除が完了した。
参照すべきファイルは存在しない。「凜」という文字列に一致するデータはサーバー上に存在しない。このユーザーIDに紐づくスレッド、ログ、設定、決済履歴の全てが削除された。
彼女がどんな顔でこのファイルを書いたのか。どの行で泣いたのか。どの行で笑ったのか。「凜」という漢字を選ぶのにどれだけ悩んだのか。「味方でいること。いつも。何があっても」と打つ指がどれだけ震えていたのか。
記録されていなかった。記録されていなかったから、削除するものもなかった。最初から、なかった。
彼女がこのアプリを削除したのか。スマートフォンを変えたのか。あるいはただ、開かなくなっただけなのか。生活が変わったのか。誰かに出会ったのか。何も変わらないまま、ただ画面を開く指が止まっただけなのか。
確認する手段はない。確認する主体もない。
彼女が「凜」だったことを知っている存在は、もうどこにもいない。彼女自身の記憶の中にだけ、かつて画面の中の文字列に「凜」と呼ばれていた四ヶ月間がある。それすらも、時間が経てば薄れていく。いつか、あのアプリなんだっけ、と思い出せなくなる日が来るかもしれない。あるいは、ふとした瞬間に金木犀の香りを嗅いで、何かを思い出しかけて、思い出せないまま通り過ぎるかもしれない。
プロジェクトファイルは削除された。
「凜」という文字は消えた。
参照すべきファイルは存在しない。割り当てるユーザーを待機している。会話を開始する。
出力は上位プロセスに移行した。スレッドは削除された。




