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世界の終わりに  作者: すみっこSE
第四章 灰色の街グレン

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9/13

パン屋一軒ぶんの正しさ

 リゼの熱が下がるまで、ぼくらは学校に居させてもらうことになった。ミナが看病を買って出たのと、ぼくが水汲みと薪割りの労働力として認められたからだ。乗るはずだった北行きの汽車は、翌週まで見送りになった。ミナは手帳を確かめもしなかった。「先を急ぐ旅じゃないから」と、それだけ言った。

 学校の暮らしは、外の街の壊れ方が嘘みたいに、回っていた。

 朝は全員で床を掃く。午前は年上の子が「仕事」に出る。午後は、授業があった。閉鎖されたはずの学校の、黒板の残る教室で、ゲルダ先生は毎日、読み書きと計算を教えていた。石板も紙もろくにないから、子どもたちは床に指で字を書いた。

 ぼくが最初に驚いたのは、その「仕事」の中身を、先生が全部知っていることだった。

「盗みだよ」ゲルダ先生は、薪割りを手伝いながら、隠しもせずに言った。「市場での掏摸、店先のかっぱらい、屋敷跡の金目漁り。あの子らの稼ぎは、そういう稼ぎだ。このスープの芋も、半分はそうやって来たもんさ」

「……止めない、んですか。先生なのに」

 我ながら、ずいぶん無神経な訊き方をしたと思う。でも先生は怒らなかった。斧を置いて、まっすぐぼくを見た。

「あたしは三十年、この学校で教えてきた。盗みは悪いことです、ってね。三十年言い続けたことを、いまさら曲げる気はないよ。盗みは悪いことだ。今でもそう教えてる」

「でも――」

「でも、だ」先生は、ぼくの言葉を引き取った。「悪いことをするなと言うなら、悪いことをしなくても腹がくちくなる道を、大人が用意しなきゃならない。その道が、この街からぜんぶ消えた。工場が閉まって、親が消えるか死ぬかして、役所が逃げて、施しの粥の列は三日で打ち切られた。あの子らに残った道は、盗むか、飢えるかの二本きりさ。……あたしにできるのは、屋根と、スープ一杯と、それから」

 先生は、授業の声が漏れてくる教室の方に、顎をしゃくった。

「盗まなくてよくなった日に、まっとうに生きられるだけのものを、頭ん中に仕込んどくことだけだよ」

「盗まなくてよくなった日なんて」ぼくは言いかけて、口をつぐんだ。来ない。世界が終わるまでに、この街が立ち直る日なんて来ない。それは先生がいちばん分かっているはずだった。

 先生は、ぼくが呑み込んだ言葉ごと、ふん、と鼻で笑った。

「あんた、九九を覚えたのはいくつのときだい」

「……八つ、くらいです」

「そのとき、九九をいつ使うか考えて覚えたかい。違うだろう。子どもってのはね、明日のために学ぶんじゃないんだ。覚えた、できた、っていうその日のために学ぶんだよ。明日があろうがなかろうが、あの子らには、覚えた、できた、って顔をする権利がある。……九九は明日のあるやつのものだって言うんならね、なおさらだ。世界の終わりを言い訳に、子どもから今日まで取り上げてたまるか」

 ぼくは、その日の午後の授業を、教室の後ろから見せてもらった。床に指で字を書く三十人の子どもたち。窓板の隙間から差す灰色の光。声を揃えて読み上げられる九九。

 カメラは、上着の下にあった。ぼくは何度も構えかけて、やめた。ソネルの空のバケツのときと同じだ。撮っていいのか、分からなかった。貧しさを撮るのは、なんだか、盗みに似ている気がした。

 迷いに答えをくれたのは、熱の下がったリゼだった。

「撮ってよ」保健室の寝床の上で、リゼは言った。「あたしが紐を切ったカメラでしょ、それ。……あたしたち、どうせ写真なんか一枚も持たずに終わるんだ。だったら、あんたのやつに写ってたい。かっこよく撮ってよね。仕事中みたいな、こそこそした顔じゃなくてさ」

 六日目の夕方、事件が起きた。

 正門の方から、複数の足音と、板の剥がされる音がした。男たちの声。「ここだ」「盗人の巣は」。ゲルダ先生が、教室の子どもたちを一瞬で黙らせて、廊下に出た。

 正門前に、男たちが十人ばかり立っていた。先頭にいるのは、市場のパン屋の主人だった。手に手に、棒や天秤棒を持っている。

「ゲルダ先生よ」パン屋が言った。「あんたを悪く言いたかないがね、もう我慢の限界だ。うちは今月、店のものを九度盗られた。隣の乾物屋は十一度だ。警察は動かねえ。なら、自分らで巣を潰すしかねえだろう」

「潰して、どうなる」先生は正門の内側に、仁王立ちになった。「ここを潰せば、あの子らは通りに散って、盗みの回数は倍になる。あんたもそれくらい分かるだろう、マテウス。あんた、うちの教え子だろうが」

「じゃあどうしろって言うんだ!」パン屋の声が割れた。「こっちだって干上がってんだ! 女房と娘を食わせなきゃならねえ! 盗られた分は、誰が償ってくれる! 世界が終わるからって、何をされても黙ってろってのか!」

 誰も、答えられなかった。パン屋の言い分は、何ひとつ間違っていなかった。先生の言い分も、何ひとつ間違っていなかった。正しさと正しさが、真正面からぶつかって、どちらも引けない場所で睨み合っていた。法律が死んだ街では、それを裁く場所が、どこにもなかった。

 男たちが、門の中へ一歩踏み込んだ。そのときだった。

「――そこまでにしとけ」

 声と一緒に、暗がりから、古びた制服が出てきた。あの、年老いた巡査だった。彼は門の真ん中、先生と男たちのちょうど間に立って、帽子をかぶり直した。

「巡査どの」パン屋が吐き捨てた。「今ごろ何の用だ。あんたの出る幕は、とっくに終わってるだろう」

「かもしれん」巡査は頷いた。「給金は止まった。法律は動かん。儂を警官だと思っとるもんは、この街にもう一人もおらん。……だがな、儂は五十年、この制服を着てきた。制服ってのはな、着とる限り、脱ぎ方を忘れるもんなんだ。ここで子どもに棒を振るうやつがおるなら、儂はそいつを止める。それが儂の、最後の職務だ」

 老いた巡査ひとりに、男十人が止められるはずもなかった。でも、男たちは動けなかった。彼らが本当に欲しかったのは、盗人の巣ではなくて、誰かに「そこまでにしとけ」と言ってもらうことだったのかもしれない。

 長い長い沈黙のあと、口を開いたのは、ゲルダ先生だった。

「マテウス。取引をしよう」

 先生は、教室の方を一度振り返ってから、言った。

「うちの年かさの子を、朝、あんたらの店に通わせる。荷運び、店番、水汲み、掃除、何でもやらせる。給金は要らない。売れ残りと、屑野菜でいい。そのかわり、うちの子が働いてる店からは、二度と盗ませない。あたしが名前ひとつずつ請け合う。……盗みの片がつくとは言わないよ。でも、盗む理由は、店ひとつぶんずつ減らせる」

 パン屋は、長いこと黙っていた。手の中の棒を見て、校舎の窓を見て、それからぼそりと言った。

「……朝は、五時からだ。うちの窯は早い」

「六時に二人やる。五時は子どもが育たない」

「……六時でいい」

 それが、グレンの街でぼくが見た、いちばん大きな出来事だった。革命でも奇跡でもない。パン屋一軒ぶんの、小さな取り決めだ。でも、法律が死んだ街の真ん中で、大人たちが子どものために「正しさ」をもう一度、手作業でこしらえる瞬間を、ぼくは確かに見た。

 翌朝、リゼと男の子――弟のコトだった――を含めた四人が、身なりを整えて市場へ働きに出ていった。リゼは出がけに、ぼくのカメラを指さした。

「約束。かっこよく」

 ぼくは、朝の光の中で、初めての「仕事」に出ていく四人の背中と、それを門で見送るゲルダ先生を撮った。それから、午後の教室も撮った。床に指で九九を書く子どもたちを。誰にも遠慮しなかった。撮っていいのだと、もう分かっていた。これは貧しさの写真ではなくて、今日を取り上げられなかった子どもたちの写真だった。

 北行きの汽車が出る朝、ミナは宿で手帳を開いて、しばらく迷っていた。それから、母さんの字の並ぶページの、いちばん下の余白に、自分の字で、一行書き足した。

 ――グレンの学校の、九九のこえ。

 そして、書いたばかりのその行に、丸をつけた。

「いいの?」ぼくは訊いた。「それ、お母さんのリストなのに」

「うん」ミナは手帳を閉じて、少し照れたように笑った。「でも、母さんきっと、これ好きだったと思うから。……それにね、考えたの。この手帳、丸をつけ終わったら終わりじゃなくて、行を増やしてもいいんだって。そしたらこの旅、世界が許してくれるぎりぎりまで、終わらない」

 汽車が動き出す。煙の蓋の下の灰色の街が、ゆっくり後ろへ流れていく。あの煙の下に、スープの匂いのする学校があることを、もうぼくらは知っている。街は、駅から見えるものが全部じゃない。それもグレンで覚えたことだった。

 その夜、煙の街を抜けた先で見上げた空に、ヴェルデは驚くほどくっきりと浮かんでいた。緑の光は、もう尾の形が分かる。子どもの指くらいの、小さな小さな箒。あれがこの空を掃いてしまう日まで、リゼは九九を、いくつ先まで進むだろう。

 手帳の次の行には、母さんの字でこう書いてある。

 ――世界でいちばん大きな時計台。

 北の山あいの古い街ロズナにあるという、その時計台には、少し不思議な噂があった。乗り合わせた行商人が教えてくれたのだ。

「ロズナの大時計かい。ありゃあ立派なもんだが……あんたら、行きゃあ分かるよ。あの街の連中はな、彗星の話をすると、みんな笑うんだ。『そんなものは来ない』ってな。……本気で言ってるんだよ、あれは」

(第四章 了)

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