時計の止まった街
山を三つ越えて、ロズナの街が見えたとき、最初に目に入ったのは、やっぱり時計台だった。
谷あいの斜面に、蜂蜜色の石の家々が段々に積み重なって、そのてっぺんに、それは立っていた。世界でいちばん大きな時計台。行商人の話では、高さは大聖堂の倍、文字盤の直径は家一軒ぶん、針の一本が大人五人より重いという。ロズナは時計職人の街で、この星で動いている時計の三つにひとつは、この谷で生まれたのだそうだ。
ミナは馬車の上で立ち上がって、手帳を胸に押し当てた。母さんの字の四行目。世界でいちばん大きな時計台。それが、いま目の前にある。
でも、街に入って、大通りを歩いて、時計台の下の広場に立ったとき、ぼくらは同時に気がついた。
時計が、止まっていた。
巨大な金の針は、四時七分を指したまま、動いていなかった。文字盤の下には天測盤と呼ばれる円い盤がもうひとつあって、太陽と二つの月の模型が嵌まっているのだけど、それも死んだように止まっている。掲示板に、色の褪せた貼り紙が一枚あった。
――大時計は修理中です。ロズナ市議会。
あとで知ったことだけど、その貼り紙は、彗星の発表の翌日から、四つの月ものあいだ、ずっとそこに貼られたままだった。
ロズナは、奇妙な街だった。
何が奇妙って、何もかもが普通だったのだ。
パン屋には焼きたてのパンが並んで、値札は書き直されていない。学校からは子どもの声がする。仕立て屋のショーウィンドウには来季の生地見本が飾ってあり、市場のおばさんは「今年の冬は長いらしいから、豆を多めに買っときな」と言った。今年の冬。その言葉を、彼女は瞬きひとつせずに使った。
グレンの壊れた値札を見てきた目には、それは奇跡みたいに映った。最初は。
違和感が形になったのは、二日目の朝だった。宿の食堂で、ミナが女将さんに、何の気なしに訊いたのだ。
「あの、ヴェルデって、この街からだとどのあたりに見えるんですか。山が高いから――」
食堂が、すっと静かになった。
新聞を読んでいた常連客が新聞を下ろし、給仕の娘が皿を持ったまま止まった。女将さんは、にこやかな顔のまま、まるでミナの声が聞こえなかったかのように言った。
「お嬢ちゃん、今日は市場の日だよ。蜂蜜の飴が名物だから、買っておいで」
それだけだった。誰も怒らなかった。誰も何も言わなかった。ただ、ぼくらの周りだけ、空気が一枚、薄い膜で仕切られたようになった。食堂の会話は何事もなかったように再開されたけれど、その中に、ぼくらの席だけが入っていなかった。
宿を出てから、ミナが小さな声で言った。
「……この街の人、彗星のこと、知らないの?」
「知らないわけない。新聞だってある」
「じゃあ、なんで」
答えをくれたのは、時計台だった。正確には、時計台の中に住む人だった。
ぼくは毎朝、止まった時計台を撮りに広場へ通っていた。三日目の朝、いつものように三脚代わりの石段にカメラを据えていると、時計台の小さな扉が開いて、女の子が出てきた。ぼくと同じ年頃で、油で汚れた前掛けをして、手に油差しを持っている。彼女はぼくのカメラを見て、それから周りを素早く見回して、早口で言った。
「撮るなら朝のうちにして。昼間にやると、議会の人が来て、修理中だから遠慮してくれって言われるよ」
「修理中……なんだよね? 四つの月も?」
女の子は、ぼくの顔をじっと見た。値踏みするような間があって、それから彼女は、扉を大きく開けた。
「あんた、よその人でしょ。……入って。うちのじいちゃんが、よその人となら話したがってるから」
時計台の中は、機械の森だった。
見上げる高さまで、歯車が積み重なっている。荷馬車の車輪ほどの歯車から、指先ほどの歯車まで、何百、何千。塔の芯には、井戸みたいに深い縦穴が通っていて、太い鎖の先に、岩みたいな錘が三つ、ぶら下がっていた。すべてが、埃をかぶらずに、油を差されて、磨かれて――そして、完全に止まっていた。
テッサというのが女の子の名前で、じいちゃんというのは、時計守のイーヴォさんだった。六十年、この時計の番をしてきた老人。梯子段の途中の小部屋で、イーヴォさんは湯を沸かして、ぼくらに茶をいれてくれた。
「時計はな、儂が止めた」
イーヴォさんは、前置きも言い訳もなしに、そう言った。
「発表の夜だ。議会が決めた。『市民の動揺を鎮めるため、当面、大時計を止める』とな。時計が動いとる限り、鐘が鳴る。鐘は一刻ごとに、残りの時間を数え上げる。それに街のみんなが耐えられん、と議会は言った。……儂は、逆らわんかった。逆らわんかったのは、の」
老人は、湯呑みの中を見た。
「儂自身が、いちばん耐えられんかったからだ。六十年、儂はこの時計を進めるために生きてきた。その針が、あの日から、終わりに向かって進む針になった。……儂は、怖かった。それだけの話よ」
そして時計が止まった翌日から、ロズナの街は、あの奇妙な普通を始めたのだという。誰が決めたわけでもない。彗星の話をしない。「最後」という言葉を使わない。来年の話を、当たり前にする。膜の内側で、時間の止まった街ごっこを、街ぐるみで。
「責められんよ」イーヴォさんは言った。「南のほうの街がどうなっとるか、噂は届いとる。暴れるでもなく、逃げ出すでもなく、パンを焼いて子どもを学校にやっとるんだ。ロズナの『知らんぷり』は、あれで、ずいぶん行儀のいい絶望なのさ」
「でも」テッサが、口を挟んだ。ずっと我慢していたのが分かる、尖った声だった。
「でも、祭りはどうすんの。じいちゃん」
大巻きの祭り。それがロズナの、百年続く祭りの名前だった。
テッサが教えてくれた。大時計の三つの錘は、一年かけて井戸の底まで下りてくる。年にいちど、秋の満月の日、街の人間が総出で時計台に集まり、朝から晩まで交代で巻き上げ機を回して、三つの錘を天辺まで巻き戻す。力自慢が汗をかき、子どもらが順番に把手に触り、婆さまたちが外で汁を炊き、日が暮れて錘が天辺に届くと、大鐘が十二回鳴って、時計はまた一年ぶんの時間をもらう。百年間、一度も欠かさず続いてきた、それが大巻きの祭りだった。
「祭りの日まで、あと四日」テッサは言った。「でも時計は止まってる。錘は中途半端な高さで四つの月も吊られたまま。……ねえ、じいちゃん。祭り、やるの、やらないの。議会は『今年の祭りについては追って沙汰』って言ったきり、だんまり。街のみんなも、祭りの話になると、ぱっと話を変える。彗星の話と、おんなじ扱い」
「……祭りをやるには、時計を動かさにゃならん」イーヴォさんは、静かに言った。「錘を巻くだけなら、止まった時計でもできる。だが、巻いた錘を受け止めて、鐘を鳴らすのは、動いとる時計だけだ。つまり祭りをやるってことは、の。針を進めて、暦を認めて、この年が――」
老人はそこで言葉を切った。最後まで言わなくても、分かった。祭りをやるとは、この年が何の年か、街全体で口に出すということだった。
ぼくらは、それから毎日、時計台に通った。ぼくは薪割りと油差しの下働きをして、ミナはテッサと一緒に、歯車の埃を払った。ミナとテッサは、驚くほど早く仲良くなった。年頃が同じで、どちらも、大事な人の残したものの番をしている者どうしだった。
四日は、あっという間に減っていった。街は静かなままだった。祭りの半鐘も、旗も、出なかった。膜の内側の普通が、祭りの日を、このまま音もなく呑み込んでいくように見えた。
風向きを変えたのは、ひとつの、小さな事件だった。




